車両基地
求人アプリの通知が鳴ったのは、午前二時を少し過ぎた頃だった。
相良ユウトは六畳一間の布団の上でスマホを顔の前にかざしたまま、しばらく画面から目を離せずにいる。
【急募】廃線車両の整備・運転補助
日給:500,000円(終了時に現金でお支払い)
勤務地:現地集合(詳細は採用後にご連絡)
未経験可・工具支給・食事あり
※終点まで列車を届けた時点で業務完了となります
ゼロの数を三回数え直す。五十万円。桁を間違えているのでなければ、ユウトのひと月の稼ぎの三倍以上だ。
友人の連帯保証人になったのは、ちょうど一年前のこと。友人は半年で連絡が取れなくなり、ユウトの手元には三百万円の借金と毎月の督促状だけが残った。コンビニの夜勤と倉庫の日雇いを掛け持ちしても、利息を返すのがやっとという有様だ。
「いや、怪しすぎるだろ……」
声に出してそう言いながらも、親指はもう「応募する」のボタンに触れていた。
返信はものの三分でやってきた。
採用です。明朝五時、山辺駅前ロータリーにてお待ちしております。
ミナモト総合サービス 鴫野
*
山辺駅は、県境の山あいにある無人駅だ。始発で向かっても間に合わないので、ユウトは夜行バスと最終の在来線を乗り継ぎ、駅の待合室で夜を明かす。
午前五時ちょうど、霧の中から白いマイクロバスが現れた。
運転席から降りてきたのは、黒いスーツの男だった。年齢はよくわからない。三十代にも五十代にも見える。髪をきっちりと撫でつけていて、こんな山奥なのに革靴には泥ひとつついていない。
「お待ちしておりました、相良様。案内役を務めます鴫野と申します。以後お見知りおきを」
男は深く頭を下げた。礼儀正しいのに、目だけが笑っていない。
バスにはすでに五人が乗っていた。
いちばん前の席では、スマホを自撮り棒の先につけた若い女が喋っている。明るい茶髪で、ピンク色のマウンテンパーカーがやけに目立つ。
「てなわけで今から謎の高額バイト行ってきまーす。日給五十万だよ? 五十万。これ絶対ヤバいやつじゃん」
画面の向こうに手を振ると、女はくるりと振り返り、乗り込んできたユウトにカメラを向けた。
「あ、新しい人来た! お兄さん名前なんていうの? なんでこのバイト応募したの? やっぱ借金系?」
「いや、ちょっと色々あって……」
「うわ図星っぽくない? コメ欄も『借金に一票』だって。ウケるんだけど」
柚木ミオ、と彼女は名乗った。登録者は三万人いるらしいが、ユウトは聞いたこともない名前だ。
その後ろの席では、くたびれたジャンパーの中年男が運転席に向かって身を乗り出している。
「なあ兄さん、ほんとに現金で出るんだろうねえ? 前払いってわけにはいかないのかい。半分でもいいんだけどなあ」
「報酬は業務完了の折に、全額をお渡しいたします」
「だからさあ、その完了ってのはいつなのよ。今日中に終わるのかい?」
「終点に着いた時をもって、完了といたします」
中年男は舌打ちをして座り直した。堂島、と名乗ったその男の息には、酒のにおいが混じっている。
通路を挟んだ席には、背筋を伸ばして座る三十代くらいの女の姿があった。
「皆さん、今のうちに連絡先を交換しておきません? こういう現場ってチームワークが大事なので。私、前は看護師をしていたので何かあったら遠慮なく言ってくださいね」
白石と名乗った女は、全員の顔を順番に見回してにっこり笑った。そのくせ、自分の連絡先を教える気はなさそうだ。
いちばん後ろの席では、パーカーのフードをかぶった若い男が縮こまっている。
「あ、えっと、小森です。一応大学で機械工学やってるんで、多少はお役に立てるかなって感じで……」
消え入りそうな声でそう言うと、彼はすぐにイヤホンをつけて窓の外に目をそらした。
そして、ユウトの隣の窓際の席に、最後の一人が座っていた。
大柄な男だ。四十代半ばくらいで、日焼けした首は太く、作業着の袖からのぞく腕には古い火傷の跡がある。腕を組んで目を閉じているが、眠ってはいないらしい。
「あの、相良です。よろしくお願いします」
男は片目だけ開けて、ユウトの足元を見た。
「足元くらい見とけ。ったく、これだから素人は」
それだけ言うと、男はまた目を閉じてしまう。
つられて自分の足元に目をやると、スニーカーの靴紐がほどけて床に垂れている。
ユウトが慌ててそれを結び直していると、前の席のミオがこちらを振り返り、聞こえよがしに言った。
「うわ感じわるっ。ああいうおじさんってバイト先に絶対一人はいるよね」
男は何も言い返さない。
あとで鴫野から、その男が金城という名前で、元はトラックの運転手だったと聞いた。
*
バスは一時間ほど山道を登り、霧の濃い谷間で止まった。
ここが車両基地だと、鴫野は短く告げた。
錆びたフェンスに囲まれた敷地に、線路が何本も引き込まれている。そのほとんどは雑草に埋もれて途中で途切れていた。奥にはトタン屋根の巨大な整備庫が建っていて、その手前に事務所らしいプレハブ小屋と資材置き場が見える。
霧が濃くて、整備庫の奥のほうは白くかすんで見えない。
鳥の声がしなかった。山の中なのに、虫の声すら聞こえない。
「皆様にお任せする仕事は、ひとつきりです」
鴫野は整備庫の入り口に立ち、六人に向き直った。
整備庫の中には一本だけ手入れの行き届いた線路があり、その上に列車が停まっている。黒と臙脂色に塗られた古い型の機関車で、後ろには木の床の客車が一両つながっていた。博物館でしか見たことのないような車両だ。
「この列車を修理し、終点まで走らせていただきます。終点に辿り着かれた方には、どなたにも等しく報酬をお支払いいたしましょう」
「修理って言われてもさあ、こっちは素人だよ?」と堂島が言った。
「部品はすべて、この基地のどこかにございます。手順書は機関室に置いてありますので、そちらをご覧ください」
鴫野は胸ポケットから白い手袋を出してはめると、ゆっくりと人差し指を一本立てた。
「それと、ひとつだけ申し添えておきます」
その指が、整備庫の奥を指す。
霧でかすんだその先に、もう一両、車両が停まっているのが見えた。
真っ黒な車両だ。塗装が黒いのではない。錆びているのでも、焦げているのでもない。光をまったく返さない黒だった。窓はすべて曇っていて、中は見えない。手前の線路には鎖が張られ、「立入禁止」の札がぶら下がっている。
「整備庫の奥にある、あの黒い車両には決して近づかれませんよう」
鴫野の声は、それまでと少しも変わらない。
「理由を聞いてもいいですか?」と白石が聞いた。
「近づかなければ、知る必要もないことです」
鴫野はそれ以上答えず、事務所の鍵と段ボールに入った食料を置いて、マイクロバスに戻っていった。
「出発の折には、お見送りに参ります」
バスのエンジン音が霧の向こうに消えると、急にあたりが静かになる。
スマホを見ると、電波は圏外になっていた。
*
機関室の中には、油と煤のにおいがこもっている。
運転台の脇に、表紙の擦り切れた大学ノートが置いてあった。これが手順書らしい。
開くと、几帳面な字で必要な部品と取り付け方が書かれている。
一、圧力計(事務所の棚)
二、給水ポンプの弁(資材置き場)
三、ブレーキの連結ホース(整備庫・作業台下)
四、加減弁のハンドル( )
四つ目の部品の置き場所だけが、空欄になっていた。
ページをめくると、ノートの後半は白紙だ。ただ、最後のページの隅に、別の誰かの字で小さく書き込みがある。
ハンドルは奥にある。取りに行くな。
ユウトは、その字を指でなぞった。鉛筆の跡が、紙をへこませるほど強く残っている。
「何それ、ホラーの演出? 絶対仕込みじゃん」
覗き込んできたミオが、ノートにスマホを向けて撮影する。
「じゃあ分担を決めましょうか」と白石が手を叩いた。「私は全体の進行を見ておくので、皆さんで部品を探してきてもらえます? 見つかったら私に報告してくださいね」
「はあ? じゃああんたは何すんのさ」と堂島が顔をしかめた。
「ですから、全体の進行を」
「まあまあ、いいじゃないですか」と小森が笑った。「あ、僕は事務所見てきますよ。こういうの割と得意なんで」
言い争いになりかけたところで、金城がのそりと立ち上がった。
「小森と柚木は事務所行け。堂島と白石は資材置き場な。相良、お前は俺と来い」
顎で一人ずつ指しながら、勝手に組み分けを決めていく。
「は? なんでおじさんが仕切ってんの?」
ミオが噛みついても、金城は振り向きもしない。
「一時間で戻ってこいよ。遅れても待ってやんねえからな」
それだけ言うと、金城は工具箱を担いで作業台のほうへ歩いていった。
「マジで感じ悪いんだけど」
ミオがつぶやく。ユウトも、少しだけそう思った。
*
作業台の下は、錆びた部品と古い工具でいっぱいだった。
金城は黙々とそれを掻き分けていく。ユウトがガラクタを持ち上げようとすると、「おい、素手で触んじゃねえ」と言われた。ホースを引っ張り出そうとすれば、今度は「へっぴり腰で引っ張んな」と飛んでくる。
何をしても怒られる。ユウトは途中から、金城の顔を見るのが怖くなっていた。
三十分ほどで、ブレーキの連結ホースが見つかった。ゴムはまったく劣化していない。まるで、昨日ここに置かれたばかりのような新しさだ。
「あの、金城さんはなんでこのバイトに応募したんですか?」
ホースを機関車まで運びながら、ユウトは思い切って聞いてみる。
「金以外に何があんだよ」
「ですよね……」
会話はそれで終わった。
一時間後、事務所組と資材置き場組が戻ってくる。
白石は何も持っていない。弁を見つけたのは堂島なのに、白石はそれを受け取って「見つかりました」と金城に差し出した。堂島が何か言いかけたが、白石はもう背を向けている。
事務所組のほうは、小森が一人きりだ。
「事務所はひととおり探したんですけど、圧力計はなかったですね。たぶん別の場所なんじゃないかなって」
「柚木はどうした」と金城が聞いた。
「え? ああ、柚木さんなら途中で別のとこ撮りに行くって言ってましたけど」
「で、どっち行ったんだ」
「さあ……たぶん整備庫の奥のほう、とかですかね?」
金城は大きくため息をつくと、工具を置いて歩き出した。
「あのバカ……。相良、来い」
*
整備庫の奥は、入り口よりも明らかに気温が低い。
霧が、建物の中にまで入り込んでいる。足元の砂利が湿った音を立てた。
鎖の手前に、ミオがいた。
自撮り棒を高く掲げて、黒い車両を撮影している。
「これマジでヤバいって。近くで見たら窓の中に誰か座ってるっぽいんだけど、みんな見えてる? 仕込みの人かな」
「おい、何やってんだ」
金城の声に、ミオがびくりと振り返る。
「ちょっと、いきなり大声出さないでくれる? 今配信中なんだけど」
金城は鎖にぶら下がった「立入禁止」の札を、顎でしゃくってみせた。
「札が読めねえのか。さっさと戻れ」
金城はミオの腕をつかんで、鎖から引き離した。
「痛っ……触んないでよ! 何それセクハラじゃない? 今の全部映ってるからね。晒すよ?」
ミオは腕を振りほどく。金城は言い返さずに、面倒くさそうに頭をかいていた。
ユウトは、そのとき見てしまった。
金城の肩越しに見える、黒い車両の窓。
曇ったガラスの向こうに、誰かが座っている。
制帽を目深にかぶっていて、顔は影になって見えない。紺色の制服のようなものを着ている。昔の車掌が着ていたような、金ボタンのついた上着だ。膝の上にきちんと揃えて置かれた両手には、白い手袋がはめられていた。
その金ボタンが、ゆっくりと上下していた。
呼吸している。
「相良、戻るぞ」
金城の声で、ユウトは我に返った。金城は窓のほうを見ていない。
三人は、黙って整備庫の入り口まで戻った。
途中で一度だけ振り返ると、さっきまで閉まっていた黒い車両のドアが、指一本分だけ開いている。
*
その日のうちに、圧力計は見つかった。事務所の棚のいちばん上の段の、段ボールの中だ。小森が「ひととおり探した」と言っていたはずの棚である。
「あれ、おかしいな。そこも見たはずなんですけどね」
小森は首をかしげて笑った。誰も何も言わない。
これで、残りの部品は四つ目の加減弁のハンドルだけになった。
けれど、それだけはどこを探しても見つからない。事務所にも、資材置き場にも、整備庫の作業台にもない。
そのうち、日が暮れてきた。
「今日はもう終いだ」と金城が言った。「客車で寝るぞ。暗くなったら外うろつくんじゃねえぞ」
「なんで俺らがあんたの言うこと聞かなきゃいけないのかねえ」と堂島がぼやく。
客車の中には、古い石炭ストーブが一台ある。金城が火を入れると、木の床の車内がゆっくりと暖まっていった。
夕食は、鴫野が置いていった段ボールの中身だ。缶詰、乾パン、ペットボトルの水。
金城はそれを床に並べて数え、一人ぶんずつ分けていく。
「なあ、ちょっと少なくないかい? 箱にはまだ残ってんだろ。もうちょっとくれたっていいじゃないの」と堂島が言った。
「あと何日かかるかわかんねえんだぞ」
「何様のつもりなんだかねえ、まったく」
「嫌なら食うなよ」
堂島はぶつぶつ言いながら缶詰を開けた。ミオは配信ができないことに苛立って、ずっとスマホを振っている。白石は「私、ちょっと体調が悪くて」と言って、人より一つ多く乾パンを取った。金城は何も言わない。
ユウトは、ふと気づいた。
金城の前に置かれているのは、乾パンが一袋と、半分だけの水だ。缶詰がない。
「金城さん、それだけで足りるんですか?」
「昼に食いすぎたんだよ」
金城は乾パンを一枚かじると、残りを作業着のポケットにしまった。昼に金城が何かを食べているところを、ユウトは一度も見ていない。
寝る場所を決めるときも、金城はユウトに「お前はストーブの横な」と言った。
「え、でも僕は別にどこでも」
「いいから黙ってそこで寝てろ」
ストーブの横は、車内でいちばん暖かい場所だ。
金城自身は、外へ続くデッキの扉の前で壁にもたれて座ると、腕を組んでさっさといびきをかきはじめた。
*
夜中に、音で目が覚めた。
じゃり。
じゃり。
砂利を踏む音だ。客車の外を、何かが歩いている。
ユウトは息を殺した。ストーブの火はほとんど消えていて、車内は真っ暗だ。
じゃり。
じゃり。
足音はゆっくりと客車の横を通っていく。急ぐでもなく、一歩ずつ確かめるような、規則正しい足取りだった。
足音が、ユウトの寝ているすぐ横の窓の外で止まった。
窓の外は、何も見えない。霧と闇だけだ。
なのに、そこに何かがいるのがわかる。窓ガラスの向こうから、こちらを覗き込んでいる。ガラスのすぐ外で、すう、すう、と息をする音がする。
それから、パチン、と乾いた音がひとつ鳴った。駅の改札で、切符に鋏を入れるときのような音だった。
ユウトは目を閉じることもできずに、天井の暗がりを見つめている。
どれくらいそうしていたかわからない。
やがて、足音はまた歩き出す。
じゃり。じゃり。じゃり。
整備庫の奥のほうへ、遠ざかっていく。
最後に、遠くでドアの閉まる音がした。
扉の前の金城は、腕を組んだままうつむいている。いびきは、いつの間にか聞こえなくなっていた。
*
朝になると、客車の窓の下の砂利に足跡が残っていた。
つま先の尖った革靴の跡だ。大きさは大人の男のものと変わらない。足跡は整備庫の奥から始まって、客車の周りをぐるりと一周し、また奥へ戻っていた。
一か所だけ、足跡がきちんと揃えて立ち止まっている場所がある。
ユウトが寝ていた窓の真下だった。
揃った靴先の前に、小さな紙くずがひとつ落ちている。拾い上げてみると、丸く打ち抜かれた厚紙のかけらだった。駅の改札で切符を切ったときに出る、あの切りくずだ。
「何これ、誰かのいたずら?」
ミオがスマホで足跡を撮る。
「どうせ仕込みでしょ。うちらビビらせてリアクション撮ってんだよ。絶対どっかにカメラあるって」
誰も答えなかった。
ユウトは、金城の姿がないことに気づく。
「あれ、金城さんは?」
「さあ。朝起きたらもういませんでしたけど」と白石が言った。「一人で勝手に動くなって、自分で言ってたくせにね」
機関室に行ってみると、金城がいた。
運転台に向かって何かを取り付けている。
加減弁のハンドルだった。真鍮でできた、重そうな輪っかのハンドル。昨日どこを探しても見つからなかった、最後の部品だ。
「それ、どこにあったんですか?」
「そこらに落ちてたんだよ」
金城はハンドルを締めながら、振り向かずに答えた。
ユウトは、金城の作業着に目をやる。膝から下が、黒い油でべったりと汚れていた。整備庫の奥の線路は手前のよりもずっと古く、レールのあいだに黒い油が溜まっている。
右手には、手ぬぐいがきつく巻かれていた。にじんだ血が、赤黒く固まっている。
「金城さん、その手どうしたんですか?」
「なんでもねえよ」
最後のボルトを締め終わると、金城は手ぬぐいを巻いた手で、ユウトの頭を乱暴に押しのけた。
「突っ立ってねえで、みんな呼んでこい」
ユウトは、ノートの最後のページを思い出す。
ハンドルは奥にある。取りに行くな。
金城も、あの書き込みを読んでいたはずだ。
*
圧力計、給水ポンプの弁、ブレーキの連結ホース、加減弁のハンドル。
四つの部品がそろった機関車の火室に、金城が石炭をくべる。
けれど、火がつかなかった。マッチを擦っても、新聞紙に火を移しても、石炭に燃え移る前にすうっと消えてしまう。
「おいおい、ここまで来て動かないってのは勘弁してくれよお」と堂島が言った。
「石炭が湿ってるんじゃないですかね」と小森が言った。「誰かが濡らしたとか、そういう感じかなって」
そのとき、ユウトは火室の奥で何かが動くのを見た。
石炭の隙間から、黒い毛玉のようなものが這い出してくる。
手のひらほどの大きさで、煤のかたまりに小さな目が二つついていた。それは火室の縁までよじ登ると、ユウトの顔をじっと見上げる。
「なんだお前……」
毛玉は返事をしない。かわりに、ユウトの手に飛び乗った。驚くほど温かい。
毛玉はそのままユウトの腕を駆け上がり、肩の上で一度だけ身を震わせると、ぽんと火室の中へ飛び込んだ。
ぼっ、と音がする。
石炭が、いっせいに赤く燃え上がった。
圧力計の針がゆっくりと上がりはじめる。機関車の奥のほうで、鉄が軋み、何かが目を覚ますような低い音がした。
しばらくすると、毛玉が火室からひょっこり顔を出す。火の中にいたのに、少しも焦げていない。むしろ、さっきよりひと回り膨らんで、毛並みがつやつやしていた。
「え、何これ。煤の妖精……みたいな?」
小森がつぶやいた横で、ミオが甲高い声を上げた。
「待って待って、かわいすぎなんだけど! 煤だから……ススちゃん! はい決定ー、今日からススちゃんね!」
ミオはスマホを構えたまま、「ススちゃーん、こっち向いてー」と猫なで声で呼びかける。
毛玉は、その名前が気に入ったのかどうか、ぶるっと一度身を震わせた。けれどミオがいくらスマホを向けても、ススはそのたびに火室の奥へ引っ込んでしまい、画面には一度も映らない。
*
出発の準備が整った頃、霧の中からマイクロバスが現れた。
鴫野は昨日とまったく同じ、泥ひとつない革靴でホームに降り立つ。
「お見事です。よくぞ一晩で仕上げられました」
鴫野は機関車を見上げ、それから金城の右手に巻かれた手ぬぐいに、一瞬だけ目をやった。
「勇気をお持ちなのは結構なことです。ですがこの先では、勇気と無謀の見分けがつきにくくなります。どうかお気をつけくださいませ」
金城は聞こえていないような顔で、運転台の計器を拭いている。
「なあ、その終点ってのはどこにあるのさ。何駅先なんだい?」と堂島が言った。
「線路が続く限り、その先にございます」
鴫野は、機関車の先を指さす。
整備庫の出口の先で、線路は霧の中へまっすぐに延びていた。ついさっきまで雑草に埋もれていたはずのレールが、いつの間にか磨き上げたように光っている。
「道中、いくつか駅がございます。どの駅に停まるかは便ごとに変わりますので、どうぞお楽しみに。着いた先では、その土地の決まりに従っていただきます。決まりは、土地の方が教えてくださるでしょう」
「土地の方って誰よ。ガイドでもいんの?」とミオが聞いた。
鴫野は答えずに、深々と頭を下げる。
「それでは皆様、いってらっしゃいませ」
*
金城が運転台に立ち、加減弁のハンドルを引いた。
機関車が大きく息を吐くような音を立て、車輪がゆっくりと回りはじめた。
ユウトは機関室の窓から身を乗り出して、後ろを振り返る。
ついさっきまでホームで頭を下げていたはずの鴫野の姿が、どこにもない。マイクロバスだけが、エンジンをかけたまま停まっている。
その向こうの、整備庫の奥。
黒い車両のドアが、開いている。
指一本分ではない。人が一人通れるくらい、大きく。
中は暗くて、何も見えなかった。けれど、ドアの縁に、白い手袋をはめた指がかかっているのが見える。
指は、手を振るように一度だけゆっくりと動いた。
「顔引っ込めろ。首持ってかれるぞ」
金城に襟首をつかまれて、ユウトは機関室の中に引き戻された。肩の上で、ススが小さく震えている。
列車は車両基地を出て、霧の中へ入っていく。
客車のほうから、ミオの声が聞こえた。
「見て見て、電波ちょっとだけ戻ったんだけど! はい今出発しましたー。これからどこ行くと思う?」
白石が、誰かに窓を閉めるよう指図している。堂島は座席に寝そべって、乾パンの袋をこっそり自分の鞄に移していた。小森は、イヤホンをつけたまま目を閉じている。
どれくらい走っただろうか。
霧の中に、古びた駅名標がぼんやりと浮かび上がる。
次は 霧ヶ原
その文字の向こうに、田んぼが広がっているのが見えた。一面の稲穂が、霧の中で揺れている。
風は吹いていない。
田んぼの真ん中に、何かが立っていた。
かかしだ。
遠くにあるはずなのに、人の背丈よりずっと大きいのがここからでもわかる。
列車がゆっくりとスピードを落としていく。
ブレーキを握ったまま、金城がぼそりと言った。
「俺が見てくる。お前らは降りんなよ」
返事をしたのは、ユウトだけだった。
(第1話 了)




