終点
白峰を出てから、列車はずっと下り坂を走っていた。
雪はいつの間にか雨に変わっている。窓の外は真っ暗で、ときどきトンネルの壁が前照灯の光を受けて白く流れていくだけだった。
機関室の中には、ユウトと金城しかいない。
客車にはもう誰もいなかった。ストーブの火も入っていない。ユウトは白峰を出てから一度も、客車の扉を開けていなかった。
金城は運転台の前に立って、黙って前を見ている。火室の中では、ススが小さく丸まっていた。白峰で自分の熱を抑え込んでから、ススは少しだけ元気がない。
「相良。ちょっとこっち来い」
金城が顎で運転台を示した。
「なんですか」
「いいから、ここに立ってみろ」
言われるままに運転台の前に立つと、金城は一歩下がって腕を組んだ。
「目の前の真鍮のやつが加減弁だ。引けば速くなるし、戻せば落ちる。いっぺんに引くと車輪が空回りすっから、ちょっとずつな」
「え、あの」
「いいから、やってみろって」
ユウトはおそるおそるハンドルに手をかけた。車両基地で金城が取ってきた、あのハンドルだ。ひやりと冷たい。少しだけ引くと、足元から伝わってくる揺れがわずかに変わった。
「左のがブレーキな。下り坂でかけっぱなしにすると焼けちまうから、何回かに分けてかけんだよ。圧力計の針がここまで下がったら石炭くべろ。ススが寝てても、くべりゃ起きっから」
「なんで急に、そんなこと」
「俺が便所行ってるあいだに止まられたら困んだろうが」
金城はそれだけ言うと、運転台の脇の木箱に腰を下ろす。それからしばらく、ユウトがハンドルとブレーキを操るのを黙って見ていた。下手なところがあるたびに、短く舌打ちが飛んでくる。
一時間ほどそうしていると、舌打ちはだんだん減っていった。
*
夜が更けた頃、二人は機関室の床に並んで座っていた。
食料はもう、金城のポケットに残っていた乾パンが二枚だけだった。金城はそれを一枚ずつ分けると、自分の分を半分かじって、残りをまたポケットにしまう。
それから作業着の内ポケットに手を入れて、財布を取り出した。
中から小さな写真を一枚抜き出して、火室の明かりにかざす。ユウトは見るつもりはなかったけれど、目に入ってしまった。
病院のベッドの上で、小学生くらいの女の子がピースサインをしている。鼻にはチューブがついていた。写真の端は、何度も触ったせいで白く毛羽立っている。
「娘さんですか」
金城はしばらく答えなかった。写真の端を親指でなぞっている。
「……心臓がな。生まれつき弱えんだ。でけえ手術がいるんだとよ」
「それで、このバイトに」
「金以外に何があんだよ」
車両基地で聞いたのと同じ言葉だった。あのときはひどく突き放されたように聞こえた。今はもう、少しもそうは聞こえない。
「会いに行ったりは」
「女房とはとっくに別れてる。向こうの家にも出入り禁止だ。娘は家を出て一人で暮らしてるらしくてな、住所だけは教えてもらった。顔は見せてくれねえけど、電話で声は聞ける」
金城は写真を財布に戻した。
「お前、借金いくらあんだ」
「三百万です。友達の保証人になって」
「馬鹿だな」
「……はい」
「馬鹿だけど、まあ、悪い馬鹿じゃねえ」
金城はそう言って、壁にもたれて目を閉じた。
しばらくすると、いびきが聞こえはじめる。ユウトは火室の明かりの中で、金城の横顔をぼんやりと眺めていた。火傷の跡のある腕が、膝の上で組まれている。
ユウトもいつの間にか眠っていた。
夢うつつに、鉛筆が紙をこする音を聞いた気がした。薄目を開けると、金城が火室の明かりに背を丸めて、膝の上で何かを書いている。
*
目を覚ましたのは、音のせいだった。
ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。
列車の走る音だ。それはずっと聞こえている。けれど、その音に少し遅れて、もうひとつ同じ音が重なっていた。
ガタン、ゴトン。
後ろからだ。
金城はもう起きていた。運転台の窓から身を乗り出して、後ろを見ている。
ユウトも隣の窓から顔を出した。
客車の後ろ、線路のずっと先に、小さな光がひとつ浮かんでいる。前照灯だ。こちらと同じ線路の上を、何かが走ってくる。
トンネルに入るたびに光が見えなくなり、トンネルを抜けるたびに少しずつ大きくなっていた。
光の後ろに、四角い影が見える。
黒い車両だった。
車両基地の整備庫のいちばん奥に停まっていた、あの車両だ。機関車もついていないのに、ひとりでに線路の上を走ってくる。光をまったく跳ね返さない黒い車体が、闇の中でそこだけさらに深く沈んで見えた。
黒い車両のいちばん前の窓に、人影が立っている。
制帽を目深にかぶった車掌だった。金ボタンの紺の制服に、白い手袋。右手に何か小さな道具を握っている。
レールの音にまじって、パチン、パチン、と乾いた音が聞こえてきた。
車両基地の夜、窓の外で鳴ったのと同じ音だった。
「おい、もっと速度上げろ!」
金城の声に、ユウトはハンドルを引く。列車が速度を上げる。
けれど、黒い車両の光は離れなかった。下り坂でこちらがブレーキをかけるたびに、ぐっと距離が詰まる。
長いトンネルを抜けたとき、光はもう客車のすぐ後ろまで来ていた。
がしゃん、と重たい音がして、列車全体が揺れる。
連結されたのだ。
*
ユウトは機関室の後ろの扉を開けた。
石炭を積んだ炭水車の向こうに、客車の前の扉がある。扉の窓ガラス越しに、客車の中がまっすぐ見通せた。
客車のいちばん奥の扉が、ゆっくりと開いていくところだった。
扉の向こうに、黒い車両の車内が見える。
座席が、人で埋まっていた。
古い作業着の男がいる。色あせたセーラー服の女の子がいる。背広の男、割烹着の女、ジャージ姿の若い男。年代も服装もばらばらの人間たちが、座席にぎっしりと詰め込まれている。
誰ひとり、まともな姿をしていなかった。手足のおかしな方向に曲がった者がいる。全身がまだらに黒ずんだ者がいる。顔の半分がない者もいた。
その中から、四つの影が立ち上がる。
最初に客車へ入ってきたのは、ミオだった。
顔はミオのままだ。明るい茶髪も、つけまつげも残っている。けれど首から下は、藁の束になっていた。首の付け根で、皮膚と藁が太い麻縄で縫い合わされている。縫い目のまわりの皮膚は紫色に腫れ上がり、乾いた黒い血がこびりついていた。藁の隙間から、白い骨のようなものがのぞいている。
右の手のひらにはスマホが縫いつけられていた。麻縄が画面の縁を通って、手の甲まで何度も貫いている。画面が光っていて、カメラはこちらを向いていた。
ミオのまぶたは、上下とも糸で縫い止められていた。閉じることのできない目が、ずっとカメラのほうを見ている。唇だけが、見て、見て、と動いていた。
ミオは網棚の前で立ち止まると、折れた自撮り棒を見上げた。藁の手を伸ばそうとして、届かずに、また歩き出す。
次に入ってきたのは堂島だった。
水を吸った体が、二倍近くに膨れ上がっている。白くふやけた皮膚はところどころで破れて、手袋のように剥けて垂れ下がっていた。その下から、灰色の肉がのぞいている。片方の目は白く濁って飛び出しかけていた。
膨れた腹には、縦に大きな裂け目が走っていた。歩くたびに裂け目が口のように開き、中から濡れた小判がじゃらじゃらとこぼれ落ちる。
堂島は座席の上の自分の鞄を見つけると、皮の剥けた手でそれを抱きしめた。腹の裂け目から、また小判が何枚か床へ転がる。
三人目は、天井を這って入ってきた。
小森だった。首が何メートルにも引き伸ばされていて、天井に沿ってずるずると引きずられている。伸びきった首の皮膚はところどころで裂けていて、赤い筋の束がむき出しになっていた。その奥に、首の骨がひとつずつ間隔を開けて並んでいるのが透けて見える。数珠を引き伸ばしたようだった。
体は扉のところに置き去りにされたまま、首だけが先に進んでくる。頭はつり革のように逆さまに垂れ下がっていた。
垂れ下がった小森の口から、鼻歌が漏れている。あの子守唄だった。合間に、ここなら安全だ、とかすれた声が混じる。
最後に入ってきたのは白石だった。
全身が霜で真っ白になっている。凍りついた皮膚は、動くたびにぴしぴしと音を立ててひび割れていた。指先は黒く変色している。白石が座席の背もたれに手をかけると、小指が根元からぽきりと折れて、床に転がった。
白石は気にする様子もなく、ストーブの横の座席に丸めてあった三枚の毛布を、一枚ずつ体に巻きつけていく。
白石が顔を上げた。
白く濁った目が、扉の窓越しにユウトを見る。
寒いの。温めて。
ひび割れた唇がそう動いた。私物です、と言って瓶の入ったポケットを押さえていた白石の顔を、ユウトは思い出していた。
四人が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
その後ろから、車掌が客車に入ってきた。
急ぐ様子もなく、一歩ずつ確かめるような足取りで通路を進んでくる。座席の脇を通るたびに、右手の改札鋏がパチン、と鳴った。
パチン。
鳴るたびに、黒い車両の中から誰かが立ち上がり、ふらふらと客車に入ってくる。
ユウトの隣で、金城が小さく息を呑んだ。
黒い車両から入ってきた中に、古い作業着の男がいた。頭が半分潰れている。男の胸ポケットには、金城の作業着と同じ会社の刺繍が入っていた。
「……タナベのおやっさん」
金城がつぶやく。
「知ってる人ですか」
金城は答えなかった。
*
「どけ」
金城がユウトを押しのけて、炭水車の上に出た。
客車と炭水車をつなぐ連結器の上に立って、足元をのぞき込む。
「……やっぱ向こう側からしか外れねえか」
連結を外すレバーは、客車の側についていた。
金城は振り返って、ユウトの顔をまっすぐ見る。
「相良、お前は運転台に戻れ。ハンドル目いっぱい引いとけよ」
「金城さんは」
「レバー蹴ったら、すぐ戻っから」
ユウトの足は動かない。
「早くしろ!」
怒鳴られて、ユウトは機関室へ駆け戻った。加減弁のハンドルを、教わったとおりに少しずつ、けれど最後まで引ききる。機関車が大きく唸り、速度がぐんと上がった。
後ろを振り返る。
金城が、客車の前のデッキに飛び移っていた。
連結器のレバーに足をかけ、体重をかけて蹴り下ろす。一度、二度と蹴っても、錆びついたレバーは動かない。三度目で、がこん、と重たい音がした。
客車と炭水車のあいだに、隙間が開いた。
少しずつ、隙間が広がっていく。
「金城さん!」
ユウトは機関室から炭水車の上へ這い出した。石炭の山を踏み越えて、炭水車のいちばん後ろまで進み、腕をいっぱいに伸ばす。
「金城さん、つかまってください!」
金城がこちらを振り返った。
隙間は、まだ一メートルもない。金城の腕なら届く距離だった。
金城が手を伸ばしかける。
その背中に、何かがしがみつく。
客車の扉の中から、手が何本も伸びてきていた。藁で編まれた手と、皮の剥けた手と、指の欠けた凍った手が、金城の作業着をつかんで後ろへ引いている。
金城は一瞬だけ後ろを見た。
それから、伸ばしかけていた手を引っ込める。
金城は作業着の内ポケットから財布を取り出すと、隙間越しにユウトの胸へ放ってよこした。ユウトは慌ててそれを受け止める。
「娘に渡してやってくれ。住所書いた紙、中に入れてあっからよ」
「嫌です! 自分で渡してください! まだ届くじゃないですか!」
金城は答えなかった。
ほんの少しだけ、金城の口の端が持ち上がる。ユウトは、金城が笑うのをはじめて見た。
「こっから先は下りだからな。ブレーキはちょっとずつかけんだぞ」
隙間が広がっていく。二メートル。三メートル。
「前見て走れ。止まんじゃねえぞ」
金城は背を向けた。
客車の扉の中へ、自分から体を押し込む。しがみついてくる手ごと、死人たちを扉の奥へ押し戻していく。それから後ろ手に、扉をばたんと閉めた。
扉のガラス越しに、金城の背中が見えた。扉にもたれかかって、内側から押さえつけている。
その肩に、白い手袋をはめた手がそっと置かれた。
車掌だった。制帽の影の下で、口元だけがわずかに動く。
「ご乗車、まことにありがとうございます」
風の音にまぎれて、その声はユウトの耳にもはっきりと届いた。どこかで聞いたことのある、落ち着いた声だった。
パチン、と改札鋏が鳴る。
金城は振り返らなかった。
切り離された客車が、少しずつ遠ざかっていく。その後ろに黒い車両がぴたりとついている。黒い車両の前照灯が、ゆっくりと消えた。
客車の窓の明かりも、ひとつ、またひとつと消えていく。
トンネルの入り口が、その全部を飲み込んだ。
「金城さん!」
ユウトの声は、トンネルの中で何度も跳ね返って、どこにも届かずに消えていった。
*
どうやって機関室に戻ったのか、覚えていない。
気がつくと、ユウトは運転台の前に立っていた。右手に加減弁のハンドルを握っている。左手には、金城の財布を握りしめたままだった。
視界がにじんで、前がよく見えない。前照灯の光の中で、線路がゆがんで流れていく。
ユウトは袖で目元を乱暴にこすって、前を見た。
圧力計の針が、ゆっくりと下がりはじめていた。
石炭をくべなければいけない。ユウトはスコップを取って、火室の扉を開けた。
火室の中で、ススがこちらを見上げている。
白峰の夜から、ずっと小さくなっていた体だった。今はさらに縮んで、ユウトの親指の先ほどしかない。
ススは一度だけユウトの顔を見ると、ぶるっと大きく身を震わせた。それから、炭の山のいちばん奥へもぐり込んでいった。
火室の中が、真っ白に光る。
見たこともない炎だった。赤でも橙でもない。目を開けていられないほど白く澄んだ炎が、火室いっぱいに燃え上がっている。圧力計の針が、一気に振り切れるところまで跳ね上がった。
機関車が、吠えるような汽笛を鳴らす。汽笛の紐には、誰も触れていなかった。
列車はトンネルを抜け、闇の中をまっすぐに走っていく。窓の外を、見覚えのある景色が流れ過ぎていった。雪の斜面。夜の団地。鉛色の湖。
団地の給水塔の上で、何か大きなものが金色の目を細めている。湖のほとりの土手の上では、苔むした甲羅がゆっくりと首をもたげて、こちらを見送っていた。
どちらも、あっという間に後ろへ流れていく。
前方の闇が、少しずつ白くなっていった。
霧だった。
*
霧の中に、ホームが見えてくる。
こっから先は下りだからな、という金城の声が耳に残っていた。ユウトはブレーキを、言われたとおり少しずつ、何回かに分けてかける。列車はゆっくりと速度を落として、ホームの端で止まった。
トタン屋根の巨大な整備庫に、錆びたフェンス、雑草に埋もれた何本もの線路が見える。
車両基地だった。
六人で出発した、あの車両基地に戻ってきていた。
整備庫のいちばん奥に目をやる。鎖の張られた線路の上に、黒い車両の姿はなかった。立入禁止の札だけが、空っぽの線路の前でかすかに揺れている。
火室の扉を開けると、白い炎はもう消えていた。
炭の灰の中に、小さな赤い点がひとつだけ残っている。ユウトが顔を近づけると、その点はかすかに明るくなって、また暗くなった。息をしているようだった。
「……ありがとう」
赤い点は、それきり明るくならなかった。けれど、消えもしない。
*
ホームに、鴫野が立っていた。
黒いスーツに、泥ひとつない革靴。最初に会ったときと何ひとつ変わっていない。
鴫野は深々と頭を下げた。
「ご乗車、まことにありがとうございました」
ユウトはその場から動けなくなる。
ついさっき、トンネルの手前で聞いたばかりの声だった。
鴫野は顔を上げると、胸ポケットから白い手袋を取り出して、ゆっくりと両手にはめた。それから分厚い茶封筒を差し出す。
「お約束の報酬でございます。日給五十万円の七日分、三百五十万円をお納めくださいませ」
受け取ると、ずしりと重い。
鴫野は、空っぽになった整備庫の奥へ目をやった。
「金城様は、今回で四度目のご乗車でございました。お嬢様の手術の費用には、あと一度で届くと仰っておりました」
ユウトは、ノートの最後のページに書かれていた一行を思い出していた。
ハンドルは奥にある。取りに行くな。
紙がへこむほど強く書かれた、あの鉛筆の字。最初の朝、誰にも言わずに一人で奥まで行って、手を血だらけにして戻ってきた金城。落ちてたんだよ、と言った金城。
あれは、前の誰かが残した書き込みではなかったのだ。
金城が、次に来る誰かのために書いたものだった。
「山辺駅までお送りいたします」
鴫野はそれだけ言って、マイクロバスのほうへ歩いていく。白い手袋をはめた手が、ゆっくりと揺れていた。
*
アパートの部屋は、出ていったときのままだった。
敷きっぱなしの布団に、流しに残ったカップ麺の容器。郵便受けからは督促状があふれている。
翌朝、ユウトは消費者金融の窓口へ行って、三百万円を一括で返した。
窓口の女性は事務的に書類を差し出し、ユウトは言われるままに判を押す。それで終わりだった。一年間ずっと、この日のことばかり考えていたのに、何の手応えもない。
アパートに戻ると、ちゃぶ台の上には茶封筒が残っていた。中には五十万円が入っている。
ミオの縫い止められたまぶたや、堂島の腹の裂け目からこぼれる小判や、小森の透けて見えた首の骨や、白石の折れた小指が、次々に浮かんでは消えていく。
最後に、扉にもたれた金城の背中が浮かんで、そこから先は何も考えられなくなった。
茶封筒の横に、金城の財布を置く。
すり切れた黒い革の財布だった。中には千円札が二枚と、小銭が少し。病院のベッドでピースサインをしている女の子の写真。写真の裏には、ボールペンで病院の名前が書いてあった。
小さく折りたたまれた便箋も一枚入っていた。表に、金城の字で知らない町の住所と「ミサキ」という名前が書いてある。裏にも何か書かれているようだったけれど、ユウトはそこまで開かずに財布に戻した。あの夜、金城が火室の明かりで書いていたのは、きっとこれだ。
それと、銀行の通帳が一冊。
開いてみると、入金は三回あった。二百万円、四百五十万円、三百万円。そのどれもが、数日のうちに「カネシロ ミサキ」という名義の口座へほとんど全額振り込まれている。最後の残高は、八千円と少しだった。
ユウトはその夜、一睡もできなかった。目を閉じるたびに、パチン、パチン、と改札鋏の音が聞こえる気がする。
*
写真の裏に書かれていた病院は、隣の県の大きな総合病院だった。
小児病棟の受付で金城ミサキの名前を出すと、看護師は不思議そうな顔をする。
「金城ミサキさん、ですか。……少々お待ちください」
しばらくして奥から出てきたのは、白髪まじりの年配の看護師だった。
「ミサキちゃんね。覚えてますよ。心臓の手術で入院してた子でしょう。でも、退院したのはもう十年以上前ですよ」
「十年……ですか」
「ええ。手術はうまくいって、すっかり元気になって。お父さんが毎日来てたから、よく覚えてるの。仕事着のまま、面会時間が終わる間際に駆け込んできてね」
ユウトは礼を言って病院を出た。
財布の中の便箋を出して、表の住所をもう一度確かめる。
繁華街のはずれにあるマンションだった。新しい建物で、エントランスにはオートロックがついている。インターホンで部屋番号を押すと、しばらくして眠たげな女の声がした。
「……誰?」
「金城さんの、お父さんの知り合いです。財布を預かってて」
「えっ、お父さん?」
声の調子が急に変わる。
五分ほどして、エレベーターから若い女が降りてきた。二十歳くらいだろうか。明るい色に染めた髪を巻いていて、高そうなブランドのバッグを肩にかけている。頬は血色がよく、足取りは軽かった。
写真の女の子と、目元がよく似ていた。
「で、お金は? お父さんから預かってきたんでしょ?」
ミサキはユウトが差し出した財布をひったくるように受け取ると、中をのぞき込んだ。千円札を二枚抜き出して、眉をひそめる。
「は? これだけ? 嘘でしょ」
「……あの、手術は」
「手術?」
ミサキは一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「あー、あれね。子どものときのやつ。とっくに治ってるし。お父さん、ママと離婚してからずっと会ってないからさ、まだ悪いって言っとけば信じてくれんの。電話で泣きそうな声出せば、すぐ振り込んでくれるし」
ミサキは財布の中から便箋をつまみ出して、表の住所をちらりと見た。
「何これ。手紙? 重っ」
ミサキは便箋を開きもせずに、エントランスの隅のゴミ箱へ放り込んだ。
ミサキのスマホが鳴った。画面を見て、ミサキの顔がぱっとほころぶ。
「やば、カイトからだ。ごめん、今月カイトの誕生日でさ、シャンパンタワーやんなきゃいけないの。お父さんに言っといて。次はもっと早く振り込んでって」
ミサキは財布をユウトの胸に押し返した。それからスマホを耳に当てて、甘えた声で話しながらエントランスを出ていく。マンションの前に停まっていたタクシーに乗り込むと、一度も振り返らずに行ってしまった。
金城さんはもういません、と言うことさえできなかった。ミサキは、父親が今どうしているのかを一度も聞かなかった。
ユウトはゴミ箱の前にしゃがみ込んで、便箋を拾い上げた。
裏返すと、鉛筆の字が並んでいる。紙がへこむほど強い字なのに、ところどころ線が震えている。
ミサキへ
手術の金、今度の分でやっと足りるはずだ。遅くなって悪かった。
父ちゃんは字が下手だから、うまく書けねえ。
手術がすんだら、一回でいいから顔見せてくれ。母さんには内緒でいい。
走れるようになったとこ、見てみてえんだ。
父より
ユウトは便箋を握りしめたまま、しばらく立ち上がれなかった。
エントランスの自動ドアが、誰もいないのに開いて、また閉まった。
*
アパートに戻ると、部屋の前に鴫野が立っていた。
薄暗い外廊下で、黒いスーツだけが妙にくっきりと浮かんで見える。こんな場所に立っていても、革靴にはやはり泥ひとつついていなかった。白い手袋は、はめたままだった。
「お邪魔しております、相良様」
「……なんですか」
「次のお仕事のご案内に参りました」
鴫野は胸ポケットから、一枚の紙を取り出す。
「先日の便で、回送車のほうがずいぶん混み合ってしまいまして。車内の清掃と、お忘れ物の整理をお願いできる方を探しております。中の様子をご存じの方でないと、とても務まらないお仕事でございまして」
ユウトは鴫野の顔を見た。制帽の影の下で動いていた口元が、目の前の口元と重なって見える。
「……回送車って」
「整備庫の奥に、もう戻ってきております。あの車両でございます」
鴫野は穏やかに微笑んだ。はじめて見る、鴫野の笑顔だった。目だけが、相変わらず少しも笑っていない。
「ご無理にとは申しません。金城様も一度目のあとは、二度と乗るものかと仰っておりましたから」
鴫野は紙をユウトの手に握らせると、深々と頭を下げて外廊下を歩いていった。階段を下りていく革靴の音が、一段ずつ遠ざかって消えた。
*
その夜、求人アプリの通知が鳴る。
【急募】回送車両の車内清掃・お忘れ物の整理
日給:800,000円(業務終了時に現金でお支払い)
勤務地:車両基地(詳細は採用後にご連絡)
経験者限定・作業着支給
※終点到着経験のある方に限ります
※車内のお客様には話しかけないでください
ユウトはスマホを伏せて、ちゃぶ台の上を見た。
五十万円の入った茶封筒と、写真だけが残った金城の財布と、しわくちゃになった便箋が並んでいる。部屋の中にあるものは、それで全部だった。
回送車の座席には、タナベのおやっさんと呼ばれていた男が座っていた。ミオも、堂島も、小森も、白石も。
そして今は、金城も。
ユウトは便箋を丁寧に折りたたんで、胸ポケットにしまった。
スマホを手に取る。親指が、「応募する」のボタンの上でしばらく止まっていた。
やがて、その親指が動いた。
返信は、ものの三分でやってきた。
採用です。明晩零時、車両基地整備庫の奥にてお待ちしております。
ミナモト総合サービス 鴫野
(第6話 了)




