(二)危ないにも種類がある
◆ (五)食べる、食わせる、齧る
夕方、リナは理人に粥を渡した。
「――」
理人は聞き取れなかった。
だが、椀を指し、口元を指している。
食べろ。
たぶん、そういう意味だ。
理人は粥を食べた。
温かい。
薄い。
だが、ありがたい。
リナは荷役獣の桶にも飼料を入れた。
そして、荷役獣に向かって別の言葉を言った。
理人は椀を指した。
「さっきの言葉」
次に荷役獣を指した。
「今の言葉」
リナは少し考えた。
自分の口を指す。
「ラウ」
荷役獣を指す。
「ガル」
理人は繰り返す。
「ラウ。ガル」
リナはうなずく。
人間が食べる。
動物が食べる。
別語。
その時、犬が床に落ちた硬い皮の切れ端を齧った。
リナは慌てて別の言葉を言った。
「シャ!」
犬が顔を上げる。
理人は犬を見る。
「食べる、ではなく、齧るか。あるいは、だめ、か」
リナは理人を見た。
理人は粥を指す。
「ラウ」
荷役獣を指す。
「ガル」
犬を指す。
「シャ?」
リナは一瞬考え、それから笑いそうになって首を横に振った。
違うらしい。
理人は木片に書き込む。
ラウ。
人間が食べる。
ガル。
荷役獣が食べる。
シャ。
犬への制止? 齧る? だめ? 未確定。
未確定ばかりだった。
だが、未確定と分かるだけ、何もないよりはいい。
◆ (六)危ないにも種類がある
数日後、理人は干し草の束を運んでいた。
束は思ったより軽い。
軽いが、視界を塞ぐ。
角を曲がった瞬間、リナの声が飛んだ。
「――!」
理人は足を止めた。
目の前を、荷役獣の後脚が通った。
蹴られていれば、かなりまずかった。
リナが駆け寄ってくる。
表情は怒っているというより、焦っていた。
彼女は荷役獣を指し、理人の膝を指し、強い口調で言った。
「ハル!」
理人は繰り返す。
「ハル。危ない?」
リナには通じない。
その日の夕方。
理人が倉庫の段差でつまずきかけた時、別の男が似たような状況で違う言葉を言った。
「ナク!」
理人は止まった。
ハルではない。
その夜。
外の森から、遠い唸り声のようなものが聞こえた時、リナはさらに別の言葉を使った。
低い声だった。
「ルカ」
男たちの表情が変わる。
槍を取る者もいた。
理人は覚えた。
ハル。
荷役獣や身体に直接関わる危険?
ナク。
転倒、段差、作業上の危険?
ルカ。
外、森、魔物、または気配の危険。
全部、日本語なら危ないで済ませるかもしれない。
だが、この世界では違う。
危ないの種類が違う。
だから、言葉も違う。
理人は思った。
この世界の人間は、危険を分類して生きている。
それは当然だった。
魔物がいる世界で、危ないを一語で済ませる方が危ない。
◆ (七)昨日とさっき
十日ほど経った頃。
理人は、昨日運んだ袋の置き場所を確認しようとした。
昨日。
その言葉をまだ知らない。
理人は自分を指し、袋を指し、昨日運んだ場所を指した。
それから、太陽が沈むしぐさをする。
寝るしぐさをする。
朝になるしぐさをする。
我ながら必死だった。
リナは少し考えて、一つの言葉を言った。
「イェル」
理人は繰り返す。
「イェル。昨日?」
リナはうなずいた。
その後、別の場面で、リナは数日前に壊れた桶の話にも同じ言葉を使った。
イェル。
理人は混乱した。
「昨日じゃないのか?」
さらに、午前中に起きた荷車の小さな事故について、リナは別の言葉を使った。
「セナ」
理人は考える。
イェル。
昨日。あるいは、もう終わった近い過去。
セナ。
さっき。今日の過去。
そう思った。
だが、その翌日、リナはかなり前の話をするときにも、イェルに似た言葉を使った。
理人は木片を見下ろした。
「時間軸だけじゃないな」
リナは分からない。
理人は、自分の胸を指した。
次に、遠くを見るしぐさをした。
「心の距離……いや、まだ早いか」
理人は木片にこう書いた。
イェル。
過去。昨日とは限らない。心理的距離の可能性あり。未確定。
未確定。
その文字が増えていく。
だが、不思議と不安ではなかった。
分からないことが分かる。
それは、空白よりはずっとましだった。
◆ (八)数字は早い
言葉は難しい。
水も、袋も、食べるも、危ないも、単純には対応しない。
だが、数は少しだけ違った。
理人は小石を並べた。
一つ。
リナが言う。
「エン」
二つ。
「ト」
三つ。
「ラ」
理人は繰り返す。
「エン。ト。ラ」
リナはうなずく。
理人は四つ目を置いた。
リナは別の言葉を言った。
そこから先も、理人は覚えようとした。
正確な発音は怪しい。
だが、対応は比較的取りやすい。
一対一。
石が一つ。
音が一つ。
理人は少し安心した。
「数はありがたいな」
リナは首を傾げる。
理人は袋を三つ並べる。
次に、別の場所に袋を三つ並べる。
同じ数。
リナに尋ねるように見る。
リナは言った。
「ソル」
理人は覚える。
ソル。
同じ?
次に、片方を二つにする。
リナは言う。
「ネア」
違う。
あるいは足りない。
理人は、袋の多い方を指す。
リナは別の言葉を言った。
少ない方を指す。
さらに別の言葉。
理人は木片に書き込む。
エン。
一。
ト。
二。
ラ。
三。
ソル。
同じ。
ネア。
違う。不一致。要確認。
多い。
少ない。
発音未確定。
これだ。
理人は思った。
この世界で最初に使えるようになるべきなのは、挨拶より数かもしれない。
もちろん、挨拶は大事だ。
だが、数は仕事になる。
数は、袋を運ぶ。
数は、飼料を分ける。
数は、粥の椀を配る。
数は、足りないことを知らせる。
言葉はまだ遠い。
だが、数は少し近い。
※第2.5話「言葉は辞書ではなく、対応表から始まる」は全三回です。
続きます。
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