(一)保留された朝
◆ (一)保留された朝
カランタに来て、最初の朝。
山科理人は、藁の上で目を覚ました。
天井は低い。
木の梁には埃が溜まっている。
すぐ近くで、荷役獣が鼻を鳴らした。
ホテルではない。
病室でもない。
そして、夢でもなさそうだった。
昨日と同じ匂いがする。
干し草。
動物。
革。
湿った木箱。
薄い粥。
「継続イベントか」
理人は小さく言った。
もちろん、誰にも通じない。
倉庫の入口には、昨日と同じ男がいた。
見張りだ。
逃げれば追われる。
暴れれば縛られる。
寝ていれば、たぶん放置される。
働けば、少しは扱いが変わるかもしれない。
理人は起き上がった。
リナが、箒を持って近づいてきた。
箒を理人に差し出し、床を指す。
「――」
言葉は分からない。
だが、意味は分かる。
掃け。
理人は箒を受け取った。
「了解。労働対価、継続」
リナは首を傾げた。
理人は自分を指し、箒を指し、床を掃くしぐさをした。
リナは少しだけうなずいた。
通じた。
言葉ではない。
だが、作業は始まった。
理人は倉庫の床を掃いた。
早くやりすぎない。
遅すぎない。
奥へ勝手に入らない。
荷物に触らない。
動物に近づきすぎない。
倉庫の中では、まだ誰も理人を客として扱っていない。
雇ったわけでもない。
保護したわけでもない。
信用したわけでもない。
怪しいが、今すぐ追い出すほどでもない男。
ただし、食わせるなら働け。
今の理人の分類は、たぶんそのあたりだった。
悪くない。
少なくとも、昨日の森よりはずっといい。
◆ (二)最初の対応表
昼前、リナは木の椀を理人に見せた。
「ミア」
理人はうなずく。
「ミア。水」
リナは椀を渡した。
理人はそれを飲む。
次に、リナは厩舎の隅にある桶を指した。
「ミア」
理人は桶を見る。
水。
ここまではいい。
リナは外に出た。
昨夜降った雨が、屋根の端に溜まっていた。
リナはそれを指し、少し違う音を言った。
「ミアル」
理人は止まった。
「……今、伸びたな」
リナは分かっていない。
理人は椀を指す。
「ミア」
リナはうなずく。
桶を指す。
「ミア」
屋根の雨水を指す。
「ミアル」
理人は眉間を押さえた。
「飲める水と、ただの水か? それとも器に入った水と、降った水か? いや、発音を聞き間違えた可能性もある」
理人は床に指で線を引こうとして、途中で止めた。
まだ、この世界で地面に図形を描くのは怖い。
魔法陣に見えるかもしれない。
呪いに見えるかもしれない。
合図に見えるかもしれない。
この世界の常識を知らない以上、無意味な記号ですら危ない。
代わりに、倉庫の隅にあった木片を拾った。
煤のついた棒で、木片に簡単な印をつける。
丸。
椀。
桶。
雨。
絵は下手だった。
リナはそれを覗き込む。
理人は椀を指し、木片の丸を指した。
「ミア」
桶を指す。
「ミア」
雨水を指す。
「ミアル」
リナは少し考えて、うなずいた。
理人は木片の横に、小さく書き込む。
ミア。
水らしきもの。
飲用か容器入りかは未確定。
ミアル。
雨水または外の水。未確定。
辞書ではない。
対応表だ。
理人はそう思った。
辞書を作るには、まだ早すぎる。
文法を知らない。
発音も怪しい。
自分が聞き取っている音が正しいかどうかも分からない。
だから、まずは音と現実を対応させる。
この音は、椀の水を指した時に出た。
この音は、屋根の雨水を指した時に出た。
それだけでいい。
今は、それだけで十分だった。
◆ (三)笑わないリナ
リナは自分を指した。
「リナ」
理人はうなずく。
「リナ」
リナは理人を指した。
「リヒト」
理人は少し驚いた。
昨日より、発音が近くなっている。
「そう。リヒト」
リナはもう一度言う。
「リヒト」
今度は、ほぼ合っていた。
理人は自分の胸を指した。
「山科理人」
リナは真剣に聞いた。
「ヤ……マ、シナ?」
「山科」
「ヤマシナ」
「そう」
リナは少し得意げにうなずいた。
今度は理人が、リナの名前を聞こうとした。
リナは自分の胸に手を当てて、ゆっくり言った。
「リナ・オルメル」
「リナ・オルメル」
理人は繰り返した。
しかし、発音が違ったらしい。
リナの口元が震えた。
笑いそうになっている。
理人は少し身構えた。
笑われるのは構わない。
だが、馬鹿にされるのは面倒だ。
リナは口元を押さえ、首を横に振った。
それから、もう一度ゆっくり言う。
「オルメル」
「オルメル」
「オルメル」
「オルメル」
リナはうなずいた。
笑わなかった。
理人は、そのことを少しだけ覚えておくことにした。
この世界で、自分は変な発音をする。
それは避けられない。
だが、リナは笑わなかった。
それは、木片の対応表には書けない情報だった。
◆ (四)袋は一語ではない
午後、理人は倉庫の袋を運ばされた。
袋。
日本語なら、とりあえず袋で済む。
だが、この世界はそうではなかった。
リナは大きな麻袋を指して言った。
「サル」
理人は繰り返す。
「サル」
次に、革でできた小さな袋を指す。
「トゥマ」
理人は止まる。
「袋じゃないのか」
リナは分からない。
今度は、飼料の入った袋を指す。
「サル」
理人は少し安心した。
麻袋と飼料袋は同じらしい。
だが、リナは次に、薬草を包んだ布束を指した。
「レナ」
「……袋じゃない」
リナは首を傾げる。
理人は自分の頭の中で整理する。
サル。
大きい麻袋。中身が飼料でも、たぶん同じ。
トゥマ。
革の小袋。水袋か道具袋かは未確定。
レナ。
薬草包み。袋ではなく、包み扱いかもしれない。
「分類が違う」
理人はつぶやいた。
日本語で同じ袋と呼ぶものが、この世界では分かれている。
逆に、この世界で同じ言葉として扱うものが、日本語では別かもしれない。
言葉を覚えるとは、単語を置き換えることではない。
分類を覚えることだ。
リナは、理人が急に真剣な顔になったのを見て、不安そうにした。
理人は慌てて首を横に振る。
「違う。怒ってない」
通じない。
理人は麻袋を指し、自分の頭を指し、少し考えるしぐさをした。
リナは数秒見て、なぜか納得したようにうなずいた。
たぶん、
この人はまた変なことを考えている。
それくらいに理解したのだろう。
それで十分だった。
※第2.5話「言葉は辞書ではなく、対応表から始まる」は全三回です。
続きます。
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