(一)昔の名前
◆ (一)過去と残存
翌朝になっても、雨は降らなかった。
だが、空は低いままだった。
雲が町の屋根を押さえつけるように広がり、風には湿った土と川の匂いが混じっている。
山科理人はギルドの隅で、昨日作った紙を広げていた。
神託文中の未来・距離表現に関する仮対応表。
遠き水。
後なる濁り。
雨とともに来たり。
そこまでは、一応の仮説を置くことができた。
未来だけではなく、遠いもの。
まだ届いていないもの。
まだ確認されていないもの。
時間、場所、情報。
話している者の手元へ届いていないものが、似た言葉で表されている可能性がある。
だが、最後の二つだけは違っていた。
呼ばれし村。
呼ばれぬまま残る。
理人は、その横に書いた自分の文字を見た。
過去?
残存?
書いた本人にも、それ以上の意味は分かっていない。
呼ばれし。
過去側の言い方に見える。
残る。
今も存在しているように聞こえる。
過去と現在が、一つの短い文の中に並んでいる。
受付の仕事が一段落したセリアが、机の向かいに座った。
「そこから調べるんですか」
「はい。未来らしい言葉より、こちらの方が分かりません」
リナも理人の横から紙をのぞき込む。
「呼ばれし、って昔の言い方だよね」
「そう聞こえる」
「でも、残るなら、なくなってない」
「そこが変なんだ」
理人は、表の空欄を指で押さえた。
過去の言葉。
現在に残っているもの。
この二つが並んでいるなら、まず確認すべきことは単純だった。
「神託に書かれているような村が、今もあるのかを見たい」
セリアは少し考え、うなずいた。
「それなら、村の台帳ですね」
「見られますか」
「神殿の正式なものは無理です」
セリアは先にそう答えた。
「ただ、ギルドにも川沿いの村の一覧があります。荷運びと護衛依頼に必要ですから」
「神殿から来る水祓いの予定は?」
「写しなら残っています」
「十分です」
理人は紙をたたまず、そのまま机の端へ寄せた。
神託の言葉だけを見ていても、意味は決まらない。
言葉が何を指しているのかを見るには、今の記録と重ねる必要がある。
◆ (二)見られる記録
セリアが奥から持ってきたのは、四つの記録だった。
ギルドの依頼票を村ごとにまとめた束。
荷運びの行き先と回数を残した帳面。
川沿いの村名が並ぶ古い一覧。
そして、神殿分院から毎年ギルドへ渡される、水祓い巡回予定の写し。
「これが、こちらで見られる限界です」
セリアは言った。
「神殿の正式な台帳には、祈祷の内容や村ごとの細かな事情もあるはずです。でも、神殿の者でなければ簡単には見られません」
「今は、これで構いません」
理人は帳面を手元へ引き寄せた。
「まず、名前が変わったのか、村が消えたのか、それとも今もあるのかを確認します」
リナが荷運びの記録を開く。
「川沿いの村なら、荷物の行き先にも出てくるよ」
「頼む」
理人は紙を三つの場所に分けた。
神殿の写し。
ギルドの記録。
荷運びの記録。
同じ村が、それぞれの記録でどう扱われているかを見る。
一つの記録にしか出てこない村。
名前の表記が違う村。
古い帳面にしか残っていない村。
現在の依頼票にも出てくる村。
理人がすべてを自由に見られるわけではない。
神殿の中へ入り、台帳を端から端まで調べられるわけでもない。
だが、見られない記録があるからといって、見られる記録まで使えないわけではない。
理人は、村名を一つずつ木片へ書き始めた。
◆ (三)昔の名前
最初に疑ったのは、古い村名だった。
神託が古いなら、その中に出てくる村の呼び方も古い可能性がある。
かつてそう呼ばれていたが、今は別の名前になった村。
二つの集落が一つになった村。
領主が変わった際に名を変えた村。
人が去り、倉や石垣だけが残っている場所。
神殿の写しにだけ古い名が残っている可能性もある。
「古い村名なら、神殿台帳だけに残っていることがあります」
セリアが村の一覧を見ながら言った。
「村が合わさったり、領主の都合で呼び名が変わったりしますから」
「廃村は?」
「あります。特に川筋が変わった場所は」
リナが別の紙をめくった。
「昔は人がいたけど、今は倉だけ残ってるところもあるよ」
理人は候補を木片へ書いた。
旧名。
廃村。
合併。
写し間違い。
まずは、素直な可能性から見る。
神託に過去側の言葉があるのなら、昔の村を指していると考えるのが自然だ。
理人は、神殿の写しに載る村名を、ギルドの現在の一覧と照合した。
リナが荷運びの帳面から同じ名を探す。
セリアが依頼票の古い束をめくる。
似た名前はある。
表記が少し違うものもある。
だが、はっきりと神託の言葉へつながる廃村や旧名は見つからない。
理人は候補の横へ印を置いていった。
旧名――未確認。
廃村――該当なし。
合併――一部あり。ただし神託との関係は不明。
写し間違い――証拠なし。
予想していたより、記録は素直だった。
そして、素直であることが、別の違和感を浮かび上がらせた。
※第15話「過去は心からの距離で測る」は全五回です。
続きます。
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