(一)何者なのか
◆ (一)一か月後
魔物除け札の件から、一か月が過ぎていた。
山科理人の現地語は、かなりましになっている。
倉庫で袋を数え、ギルドで依頼票を読み、荷運びの男たちと道の状態について話す。
分からない言葉があれば聞き返し、聞いた言葉を木片へ残し、翌日に同じ言葉を使ってみる。
リナやセリアに直されながら毎日繰り返した結果、日常会話で大きく詰まることは少なくなった。
食べ物を頼む。
道を聞く。
作業の順番を確認する。
数や場所を説明する。
ギルドで簡単な報告を読む。
荷運びの記録や依頼票の決まった欄を追う。
その程度なら、もうリナに一つずつ訳してもらわなくても分かる。
もちろん、完全ではない。
言い回しを間違えることはある。
冗談を聞き落とすこともある。
早口の言い争いになると、今でも途中から置いていかれる。
それでも、最初の頃のように、知っている単語だけを拾って状況を推測する段階ではなくなっていた。
だからこそ、理人は分かり始めていた。
この世界の言葉がまったく分からなかった頃の苦しさと、今なお分からない言葉の難しさは、別のものだ。
神殿の言葉は、日常語とは違う。
古い。
言い回しが回りくどい。
主語が落ちる。
一つの言葉に、祈りと慣習と土地の記憶が混ざる。
神官が読み上げれば、厳かで重みのある言葉に聞こえる。
だが、理人から見ると、どこまでが条件で、どこからが結果なのか分かりにくい文でもあった。
それは、理人だけの問題ではない。
リナも神殿の古い言い回しを聞く時には眉を寄せる。
荷運びの男たちは、聞き終えたあとで互いに意味を確かめ合う。
セリアでさえ、神殿から届いた写しには、実務用の言い換えを添えて保管していた。
神殿の言葉は、この世界の人間にとっても簡単ではない。
理人は、そこに少し安心した。
分からないのは、自分がよそ者だからだけではない。
難しいものは、誰にとっても難しい。
ただ、その難しいものが神託と呼ばれると、人は分からないまま受け入れてしまう。
理解できないのは、自分の信心や知識が足りないせいだと思ってしまう。
理人には、その方が気になった。
◆ (二)何者なのか
言葉が通じるようになると、当然、聞かれることも増えた。
どこから来たのか。
なぜ文字が読めなかったのに、数には細かいのか。
なぜ魔法を使えないのに、魔法陣の線を気にするのか。
なぜ神殿の言葉を知らないのに、古い文の並び方に首を傾げるのか。
理人は、何度か真面目に答えた。
別の世界から来た。
元の世界では、倉庫や工場の記録を見て、数のずれや手順の問題を探す仕事をしていた。
おそらく一度死んでいる。
気づいた時には、この世界にいた。
神から力をもらった覚えはない。
魔法も使えない。
たいていは、冗談だと思われた。
荷運びの男などは、腹を抱えて笑った。
「別の世界から来たにしては、ずいぶん地味なことをしてるな」
理人は否定しなかった。
地味なのは事実だった。
伝説の武器を持っているわけではない。
魔物を一撃で倒したこともない。
やったことといえば、袋を数え、紙を並べ、戻らなかった者を調べ、札の線を見比べたくらいだ。
セリアは笑わなかったが、信じたとも言わなかった。
「冗談としては、ずいぶん手が込んでいますね」
「本当のつもりです」
「でしょうね。あなたは、そういう冗談を言う人には見えません」
「では、信じますか」
セリアは少し考えた。
「確認できないことを、信じるとは言いません」
理人はうなずいた。
その答えは嫌いではない。
セリアは続ける。
「ただ、嘘にしては得がありません」
「俺もそう思います」
「別の世界から来たと言っても、依頼の報酬は増えませんからね」
「むしろ面倒な人間だと思われます」
「すでに思われています」
セリアは平然と言った。
理人は少し黙った。
否定できない。
リナは、二人の会話を聞きながら困ったような顔をしていた。
「全部は分からない。でも、理人がふざけて言ってないのは分かる」
「それで十分だ」
「本当だったら、すごく変な話だよ」
「俺もそう思う」
「嘘だったら?」
「それも、かなり変な嘘だな」
リナは少し笑った。
それで、この話はだいたい終わった。
本当でも嘘でも、今日やることは変わらない。
倉庫の数は数える。
札の記録は残す。
依頼票は読む。
雨期が近づけば、川と道の状態を確認する。
理人が何者なのかは、まだ分からない。
だが、理人が何をしてきたのかは残っている。
倉庫の木片。
撤退条件の紙。
戻らなかった者を並べた記録。
魔物除け札の暫定記録。
正体は確認できない。
行動は確認できる。
理人の信用は、本人の説明ではなく、その積み重ねによって少しずつ作られていた。
※第14話「未来形ではなく、遠いということ」は全七回です。
続きます。
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