(三)補筆前と補筆後
◆ (七)腕だけではない
「結局、腕の問題ではありませんか」
術具係の男は、少し苛立った声で言った。
「熟練者なら正しく働かせられる。見習いにはできない。それが技術というものです」
理人は首を横に振らなかった。
「腕の問題はあります」
男の表情が少し緩む。
だが、理人は床の札を指した。
「でも、腕だけではありません」
「どういう意味です」
「上手い人は、欠けた線でも通せる。下手な人は通せない。だから、全部が腕の差に見えます」
「実際に腕の差でしょう」
「半分は」
理人は、閉じていない外周の線を指した。
「でも、最初から線が閉じていれば、見習いでも失敗が減るかもしれません」
術具係の男は黙った。
理人は続ける。
「上手い人しか使えないものは、上手い人にとっては問題がありません」
リナが床の札を見ながら口を開いた。
「でも、荷車で使う人は、みんな上手い人じゃない」
「そうです」
理人はうなずいた。
「作る人も、魔力を通す人も、いつも同じではありません」
セリアが筆を走らせながら言う。
「誰が作っても同じように働く方が、荷運びには向いていますね」
術具係の男が反論する。
「術具に個人差が出るのは当然です」
「差をゼロにしたいわけではありません」
理人は答えた。
「減らせる差を、腕だからで残さない方がいい」
そして、札の端にある欠けた線を見た。
「おそらく、ここです」
「まだ、おそらくですか」
「はい」
理人はうなずいた。
「だから試します」
◆ (八)一枚だけ
「直すのですか」
術具係の男の声には、警戒が混じっていた。
理人は首を横に振る。
「俺は描けません」
「では、どうするつもりです」
「あなたに描いてもらいます」
男は眉を上げた。
「私が?」
「同じ染料。同じ筆。同じ太さで、ここだけです」
理人は、閉じていないように見える外周の線を指した。
内側の印へ戻す。
あるいは、線の終わりに小さな点を置く。
他の札で繰り返し見られる形だ。
術具係の男は難しい顔をした。
「それが正しい形とは限りません」
「はい」
「魔力の流れを乱すかもしれません」
「はい」
「危険がないとも言えません」
「だから、荷車には使いません」
理人は、札を一枚だけ他から離した。
「実験用。人も荷車も近づけない。反応だけ見ます」
セリアが静かに言う。
「試験用として処分してよい札なら、ギルド側で用意できます」
リナは窓際を飛んでいる羽虫を見た。
「虫と煙なら、すぐ見られる」
術具係の男は、長い間札を見ていた。
自分の技術を、外から来た男の思いつきに使う。
簡単には受け入れられないのだろう。
やがて、男は深く息を吐いた。
「一枚だけです」
理人はうなずいた。
「一枚だけ」
「補筆する場所は、私が最終的に決めます」
「お願いします」
「あなたの言った通りに描くとは限りません」
「それでいいです」
理人が欲しいのは、自分の案を通すことではない。
形を変えた時、反応が変わるかどうかだ。
男は筆を取った。
細い筆先へ染料を含ませる。
理人は手元を見ていた。
途切れていた線が、少しずつ内側へ伸びる。
最後に、小さな点が置かれた。
開いたものが閉じる。
理人の目には、とても小さな修正に見えた。
だからこそ怖かった。
小さな欠けほど、形全体の中に紛れやすい。
◆ (九)補筆前と補筆後
補筆した札を、他の札から離して床へ置いた。
火皿を同じ距離に置く。
窓を閉める。
人が動かないようにする。
まず、補筆前に記録していた煙の動きを確認する。
外周の欠け付近で、煙が大きく巻いていた。
補筆後。
同じ位置。
同じ向き。
同じ火皿。
理人は煙を見る。
細い煙が札へ近づく。
外周の近くで、わずかに揺れる。
だが、前のように大きく巻かない。
リナが目を細めた。
「さっきより、曲がらない」
「曲がらない、ではなく?」
「前より、曲がらない」
理人はうなずいた。
「記録」
セリアが筆を走らせる。
補筆前。
外周欠け付近で、煙の乱れあり。
補筆後。
同じ位置で、乱れ減少。
次に、窓を少し開ける。
羽虫が一匹、札へ近づいた。
補筆前は、外周の同じ場所で急に進路を変えていた。
今は近づく。
少し横へずれる。
だが、大きく避けることはない。
何度か近づき、離れ、また戻る。
リナが言った。
「前より、逃げない」
「回避が弱い」
理人が言うと、リナも繰り返す。
「回避が弱い」
セリアが書き足した。
虫の反応。
補筆前、回避あり。
補筆後、回避弱い。
原因は不明。
再確認が必要。
術具係の男は黙ったまま、札を見ていた。
「これで魔物除けとして効くと分かったわけではありません」
理人は先に言った。
男が顔を上げる。
「煙も虫も、魔物ではありません。効果はまだ分かりません」
「では、何が分かったのです」
「形を変えたら、局所反応が変わりました」
それだけは言える。
理人は、それ以上を足さなかった。
※第13話「閉じ括弧が足りない」は全五回です。
続きます。
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