(三)失敗ではない
◆ (七)足跡
森の中で、最初に気づいたのはミナだった。
地面が柔らかい。
雨の名残がある。
そこに、小さな足跡が残っていた。
一つではない。
二つ。
三つ。
さらに奥に、もう一つ。
青年の一人は言った。
ゴブリンなら、足跡くらいある。
それはそうだ。
だが、ミナは紙を見た。
足跡が三つ以上。戻る。
彼女は紙の足跡の印を指した。
青年が顔をしかめる。
「これくらいで戻るのか」
そう言ったらしい。
もう一人も、奥を見ていた。
森の奥から、かすかな音がした。
枝が折れる音。
鳥が一斉に飛び立つ音。
ミナは喉を鳴らした。
怖い。
だが、怖いから戻ろうと言えば、また笑われる。
彼女は紙を握り直した。
怖いからではない。
条件だから。
その違いが、彼女を少しだけ支えた。
さらに少し進んだ場所で、古い茂みが潰れていた。
何かが何度も通った跡。
小さな骨。
食べ残しのようなもの。
ミナは紙を見る。
穴。寝床。食べ残し。戻る。
完全に同じではない。
だが、近い。
十分に近い。
青年たちはまだ進みたそうだった。
ミナは、町へ戻る矢印を指した。
◆ (八)条件だから
青年の一人は、奥へ進もうとした。
「まだ見てもいない」
あとで聞いた話では、そう言ったらしい。
せっかく来たのに。報酬が減る。この程度で戻ったら笑われる。初心者可の依頼だろう。
森の中で、そういう言葉は強い。
町にいる時よりも強い。
戻る理由より、進む理由の方が大きく聞こえる。
ミナは紙を出した。
足跡の印。三つ以上。町へ戻る矢印。
「条件」
彼女はそう言った。
自分の弱さではない。
紙に書いてある。
森に入る前に、全員で聞いた。
セリアも見た。カイルも見た。
だから、これは逃げではない。
報告だ。
青年たちは不満そうだった。
だが、完全には反論できなかった。
その時、少し離れた場所からカイルの声がした。
「戻れ」
短い声だった。
命令ではない。
だが、十分だった。
ミナたちは戻った。
戻る途中で、誰も多くは話さなかった。
青年たちは納得していない。
ミナも、自分が正しかったと胸を張れるわけではない。
ただ、紙に書かれた条件に引っかかった。
それだけは確かだった。
森を出るころ、空は少し傾き始めていた。
もし奥まで進んでいたら、帰りはもっと遅くなっていただろう。
ミナは、町へ続く道を見て、紙を握り直した。
戻った。
それだけで、手が少し震えていた。
◆ (九)倒さずに戻る
ミナたちは、何も倒さずに戻った。
ゴブリンの耳もない。討伐証明もない。武勇伝もない。
持ち帰ったのは、泥のついた靴と、紙に描かれた印と、いくつかの報告だけだった。
足跡は一つではなかった。
森の奥で枝が折れる音がした。
鳥が一斉に逃げた。
茂みが潰れていた。
小さな骨のようなものがあった。
予定の場所より奥へ進まなければ、姿は確認できなかった。
日が傾き始めていた。
青年たちは不満そうだった。
何もしていない。
そう思っている顔だった。
だが、ミナは紙を握っていた。
戻った。
生きて戻った。
そして、見たことを持って戻った。
理人は、その紙を見て、ゆっくりうなずいた。
それは失敗ではない。
次に誰かが行くための情報だった。
理人はミナを見た。
ミナは、まだ自信がなさそうだった。
依頼を達成していない。報酬も減る。青年たちにも不満が残っている。
それでも、彼女は紙を出した。
条件に従って戻った。
理人は、自分の胸に手を当ててから、紙を指した。
「いい」
それだけ言った。
ミナは、少しだけ目を見開いた。
リナがすぐに訳してくれた。
「戻って、報告した。だから、いい」
ミナは紙を握ったまま、小さくうなずいた。
◆ (十)失敗ではない
セリアは、ミナたちの報告を聞いた。
最初は、いつもの帰還確認の顔だった。
依頼達成か。未達か。報酬はどうするか。次の依頼はどうするか。
だが、ミナが紙を出すと、少し表情が変わった。
足跡の印。三つ以上。戻る矢印。
ミナは、見たことを一つずつ話した。
足跡。音。鳥。茂み。骨。日暮れ。奥へ進む必要。
セリアはそれを聞きながら、別の紙に書き留めた。
依頼失敗ではない。追加情報。
そう扱うことにしたのだろう。
カイルが横から言った。
「巣かもしれないな」
セリアの手が止まる。
青年たちも黙った。
ゴブリン一匹の討伐依頼。初心者可。危険度低。
それが、巣の確認に変わりかけている。
理人は、依頼票の危険度印を見た。
紙は間違っていたのかもしれない。
あるいは、前は正しかったのかもしれない。
だが、今はもう、そのままでは危ない。
戻ったから、それが分かった。
倒していたら分かったのではない。
奥へ進み続けていたら、分かったのでもない。
途中で戻ったから、情報が残った。
理人は、セリアが書き留めている紙を見た。
足跡。複数。巣の疑い。確認必要。
その文字は読めない。
だが、筆の動きで分かる。
見たものが、残されている。
※第10話「撤退条件を笑う者から死ぬ」は全四回です。
続きます。
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