(三)初心者可
◆ (八)セリア
リナが、その小さな線を見て言った。
「後で確認?」
受付の女性は、少し嫌そうな顔をした。
だが、否定はしなかった。
荷運びの男が、安心したように肩を下ろす。
依頼票が大きく変わったわけではない。
それでも、男の不安は完全には消されなかった。
受付の女性は、理人を見た。
「お前、何者だ」
おそらく、そんな意味のことを言った。
理人は困った。
説明できる言葉がない。
データサイエンティスト。
プロジェクトマネージャ。
どちらも、この世界の言葉ではない。
仮に訳せたとしても、今の理人にはそれを説明するだけの語彙がない。
この場の人間から見れば、理人はただのよそ者だ。
身元も分からない。
言葉も怪しい。
依頼票も読めない。
それでも、見えるものはある。
理人は少し考え、自分を指した。
「リヒト」
それから、依頼票を指す。
「見る」
受付の女性は、まったく納得していない顔をした。
だが、追い払うこともしなかった。
その時、横からリナが言った。
「この人、数を見る。あと、変わったところを見る」
受付の女性は、リナを見た。
リナは少し緊張していたが、目をそらさなかった。
受付の女性は、短く息を吐いた。
「セリア」
彼女は自分を指して、そう言った。
名前。
理人はうなずいた。
「セリア」
彼女はまだ、理人を信用していない。
だが、名前を渡した。
それだけでも、ギルドでの最初の一歩としては十分だった。
セリアは依頼票を受付台の端に置いた。
それから、荷運びの男へ何かを言う。
リナが小さく訳した。
「明日の朝、もう一度、道の話を聞くって」
理人は息を吐いた。
危険度は変わらない。
依頼も止まらない。
それでも、確認は一つ増えた。
紙は、少しだけ今に近づいた。
◆ (九)掲示板
セリアが奥へ戻ると、理人は壁の掲示板を見た。
依頼票が並んでいる。
荷運び。
護衛。
薬草採取。
遺失物探し。
魔物退治。
文字はまだ読めない。
だが、同じ印がいくつも見える。
危険度。
報酬。
人数。
期限。
整っている。
少なくとも、倉庫の木片よりはずっと整っている。
だが、理人にはもう分かっていた。
整っていることと、正しいことは違う。
きれいな紙でも、現場の変化が入らなければ古くなる。
理人は、依頼票を一枚ずつ見た。
危険度の印。
報酬の数字。
人数欄。
期限らしき日付。
どれも必要な情報なのだろう。
だが、どの紙にも共通して、何かが足りないように見える。
今の状態。
前回との差。
最後に確認した日。
失敗した時の扱い。
撤退する条件。
理人は、眉をひそめた。
読めない文字のせいではない。
読めないのに、欠けているように見える。
それが嫌だった。
その時、リナが一枚の依頼票の前で足を止めた。
「ゴブリン」
理人は、その言葉だけは聞き取れた。
ゴブリン。
異世界で、あまりにも定番の名前。
リナは依頼票を読んだ。
「討伐。初心者でも受けられる」
初心者。
理人は眉をひそめた。
ゴブリン討伐。
初心者向け。
その組み合わせに、嫌なものを感じた。
冒険者らしき若い男が、その依頼票の前で足を止める。
報酬欄を見ている。
危険度の印も見ている。
そして、少し安心したような顔をした。
低い。
受けられる。
そう判断したのだろう。
理人は、その横顔を見た。
依頼票が人を動かしている。
紙が、誰かの判断を作っている。
だから、紙が弱いと危ない。
◆ (十)初心者可
理人は、ゴブリン討伐の依頼票を見た。
読めない。
だが、欄は見える。
場所。
報酬。
人数。
危険度。
それだけ。
理人は、リナを見る。
「何体?」
リナは依頼票を読み直した。
少し首を傾げる。
「書いてない」
理人はもう一度聞く。
「巣? 一匹?」
リナは困った顔をした。
「書いてない」
「村、近い? 遠い?」
「書いてない。たぶん、森の近く」
「前、失敗?」
リナは言葉を探したが、結局首を横に振った。
分からない。
理人は依頼票を見た。
ゴブリン討伐。
初心者可。
危険度低。
それだけで、誰かが受ける。
たぶん、新人が受ける。
報酬が必要な若者が受ける。
そして、何体いるかも、巣かどうかも、逃げる条件も分からないまま森へ行く。
理人は、依頼票から目を離せなかった。
ゴブリンが弱いかどうかは、まだ分からない。
この世界の魔物を、理人はほとんど知らない。
冒険者の強さも知らない。
新人がどの程度戦えるのかも知らない。
だから、ゴブリンは危険だ、と断定するつもりはなかった。
ただ、一つだけ分かる。
この依頼票だけでは、危険かどうかを判断できない。
それを初心者向けと呼ぶのは、かなり危ない。
依頼そのものより、紙が危ない。
リナが不安そうに理人を見た。
「リヒト?」
理人は小さく言った。
「初心者向けじゃない」
リナは首を傾げる。
理人は、ゴブリン討伐の依頼票を指した。
「これ、ネア」
違う。
壊れている。
ギルドの依頼票は、思っていたより深く壊れていた。
※第8話「ギルドの依頼票は壊れている」は全四回です。
続きます。
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