(三)言葉の距離
◆ (九)位置、時間、心
おそらく、これは「たぶん」だけの問題ではない。
この世界の言葉そのものが、位置と時間と心の遠さを混ぜて扱いやすいのだ。
言葉にそういう性質があるなら、文化にも同じ癖があると見た方がいい。
遠い場所。遠い過去。遠ざけたい記憶。まだ確かめていないこと。
それらが、一つの「遠さ」として扱われる。
話すだけなら、それで通じる。
だが、記録には向かない。
記録は、何が遠いのかを分けなければならないからだ。
理人は、木片に置いた小さな印を見た。
たぶん。不明。後で確認。
位置と、時間と、心の遠さ。
それらが一つの言葉に混ざるのは、記録を取るには少し相性が悪い。
何が遠いのか。どれくらい前なのか。自分で見たのか。聞いただけなのか。思い出したくないから遠いのか。
それらを分けなければ、あとで見返した時、何が分からなかったのかさえ分からなくなる。
理人は、木片の余白を見た。
余白は少ない。
言葉の距離を全部記録しようとすれば、すぐに足りなくなる。
だから、全部は書けない。
書けないなら、最低限だけ残す。
見たのか。聞いたのか。近いのか。遠いのか。後で近づけるつもりがあるのか。
まずは、それくらいでいい。
◆ (十)近い、遠い
理人は、木片の端に小さな印を二つ足した。
近い。遠い。
それだけでは足りない気もする。
だが、今はそれ以上増やすと、リナが困る。
記録は、使えなければ意味がない。
理人は、近い石を木片の上に置いた。
昨日、自分で見たこと。
次に、遠い石を置く。
前に聞いたこと。
リナは、それを見て少し首を傾げた。
理人は言った。
「時間、違う。心、違う」
通じない。
当然だ。
理人は自分の胸を指した。
次に、近い石を指す。
それから、遠い石を指す。
リナは、少し考えた。
そして、昨日リナがためらった欄に、遠い石を置いた。
理人はうなずいた。
正確ではないかもしれない。
だが、今はそれでいい。
この記録は完成品ではない。
二人で育てるものだ。
理人は近い印と遠い印の間に、小さな点を置いた。
たぶん。
リナがその点を見た。
「たぶん」
理人は言う。
リナは、点の印を指して、似た現地語を言った。
理人はそれを繰り返した。
発音は少し違う。
リナは首を傾げる。
だが、笑わなかった。
それもまた、最初の頃から変わらないことだった。
◆ (十一)言葉の距離
その夜、木片には新しい印が増えた。
近い昨日。遠い昨日。見た過去。聞いた過去。近い予定。遠い不安。
どれも、まだ正しいとは言えない。
リナも、全部を説明できたわけではない。
理人も、全部を理解できたわけではない。
だが、一つだけ分かった。
言葉は、出来事をそのまま運んでくれるものではない。
言葉は、話す人と出来事の距離を、一緒に運んでくる。
理人は、木片を伏せた。
袋の数。薬草包み。犬の吠え声。荷役獣の反応。
そこに、もう一つ増えた。
言葉の距離。
理人は小さく息を吐いた。
この世界では、過去も未来も、心からの距離で少しだけ形を変える。
記録を取る側からすれば、厄介だ。
位置なのか。時間なのか。確かさなのか。それとも、近づきたくないという気持ちなのか。
一つずつ分けなければ、あとで見返した時に分からなくなる。
だが、面倒だからといって、雑な言葉だと切り捨てるのも違う気がした。
話す人が、出来事からどれだけ離れているのか。
その出来事に、まだ触れていたいのか。
それとも、少し遠ざけたいのか。
この世界の言葉は、そういうものまで一緒に運んでしまう。
記録には向かない。
けれど、見方を変えれば、情緒のある言葉なのかもしれない。
美しい、とまではまだ言い切れない。
だが、少なくとも、ただ不便なだけではなかった。
リナが首を傾げる。
理人は少し笑った。
「たぶん」
リナは、木片の点の印を指した。
たぶん。
理人はうなずいた。
もちろん、それもまだ仮説だった。
たぶん。不明。後で確認。
◆ (十二)ログ
ログ
意味距離:検出
時系列整合:未確定
注記:
同一時点内に複数の距離表現を確認。
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※ネタバレ範囲にご注意ください。
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