(一)ソル、ソラ、ソレン
◆ (一)言葉の差分
夜、倉庫の隅で、山科理人は木片を見直していた。
太陽の印。沈む太陽の印。
袋。薬草箱。荷役獣。犬。湿り。たぶん。不明。後で確認。
記録としては粗い。
絵は下手だ。印も揃っていない。数も怪しい。
だが、何もないよりはいい。
理人は、煤のついた指で、太陽の印をなぞった。
朝。夕。昨日。明日。
このあたりの言葉は、少しずつ分かってきた。
そう思っていた。
だが、リナが横から木片をのぞき込み、昨日の印を指して、いくつか違う音を口にした。
「ソル」
「ソラ」
「ソレン」
理人は顔を上げた。
「……今の、全部、昨日という意味の言葉なのか?」
リナは首を傾げた。
理人の言葉は、まだ十分には通じない。
だが、理人が混乱していることだけは伝わったらしい。
リナは木片を指した。
それから、倉庫の奥を指す。
次に、荷役獣を指す。
さらに、自分の胸に手を当てた。
同じ過去。
だが、同じ言葉ではない。
理人は、少しだけ背筋を伸ばした。
数字ではない。
今度は、言葉の差分だった。
◆ (二)ソル、ソラ、ソレン
理人は、昨日の朝に数えた南棚を指した。
リナがすぐに言う。
「ソル」
理人はうなずきかけた。
ソル。昨日。
そう覚えようとした。
だが、リナは次に、昨日の夕方に犬が吠えた薬草箱を指した。
「ソラ」
理人の手が止まった。
今のは、少し違った。
ソルではない。
ソラ。
さらにリナは、前にも三番の荷役獣が北棚の袋を嫌がったことを示すように、三番の荷役獣と北棚を順に指した。
「ソレン」
理人は、木片の端に三つの音を書いた。
ソル。ソラ。ソレン。
正確な発音ではない。
理人の耳で、そう聞こえただけだ。
だが、同じではないことだけは分かる。
理人には、どれも過去の話に聞こえた。
日本語なら、たぶん全部「昨日」や「前」として処理してしまう。
必要なら、昨日の朝、昨日の夕方、前にもあったこと、と言い足せばいい。
だが、リナはそれらを同じ言葉でまとめなかった。
ソル。自分で見たもの。まだ近いもの。手触りが残っているもの。
ソラ。昨日のことではあるが、理由が分からないもの。少し距離を置いているもの。
ソレン。前にもあった。聞いたことがある。覚えてはいるが、はっきり掴めないもの。
少なくとも、理人にはそう見えた。
時間の前後だけではない。
話している者が、その出来事をどれだけ近く感じているか。
そこまで、言葉に混ざっている。
理人は、木片の端に三つの印を描いた。
昨日、一。昨日、二。昨日、三。
正確ではない。
だが、まず分けなければ、何が違うのかも分からない。
◆ (三)近い昨日と遠い昨日
理人は、もう一度、昨日の朝に見た南棚を指した。
リナは迷わず答えた。
「ソル」
近い。
理人には、そう聞こえた。
次に、前にも三番の荷役獣が北棚の袋を嫌がった話を指す。
リナは少し考えてから、別の言葉を使った。
「ソレン」
遠い。
そんな響きだった。
理人は小石を二つ置いた。
近い石。遠い石。
リナはそれを見て、少し笑った。
理人は真剣だった。
昨日かどうかではない。
今のリナから、どれだけ近いか。
自分で見たか。まだ覚えているか。手が届くことか。もう曖昧になっていることか。
この世界の過去は、一直線に並んでいない。
理人には、そんなふうに見え始めた。
昨日。前。昔。
それらは、時間の順番だけで決まるものではない。
少なくとも、リナの言葉ではそうらしい。
理人は木片に、近い石と遠い石の印を描いた。
リナはそれを見て、南棚を指した。
近い石。
次に、北棚を指した。
遠い石。
理人はうなずいた。
「そう。たぶん、そう」
たぶん。
その言葉を口にして、理人は少しだけ苦笑した。
結局、それもまだ確定ではなかった。
◆ (四)見た過去、聞いた過去
理人は、自分の目を指した。
見る。
次に、木片の目の印を指す。
リナがうなずく。
理人は、自分の耳を指した。
聞く。
木片の耳の印を指す。
リナがまたうなずく。
そこで理人は、昨日の袋の話を二つに分けた。
リナが見た袋。
荷運びの男から聞いた袋。
どちらも過去だ。
だが、リナは違う言葉にした。
自分で見た袋には、ソルに近い音。
聞いただけの袋には、ソレンに近い音。
理人は、ようやく少し分かった。
見た過去は近い。
聞いた過去は少し遠い。
時間の問題ではない。
自分の目からの距離だ。
理人は木片に、小さな線を引いた。
見た。近い。
聞いた。少し遠い。
リナは、その印を見て、少し不思議そうにした。
だが、否定はしなかった。
理人は、木片の端を軽く叩いた。
「見た、聞いた、違う」
ほとんど日本語だった。
それでも、リナは目の印と耳の印を見比べた。
それから、ゆっくりとうなずく。
前にも同じことをやった。
聞いたことと、見たことは違う。
その違いが、今度は時間の言葉にも出ている。
理人は小さく息を吐いた。
記録は、ますます面倒になっていた。
だが、面倒だからこそ、面白くもあった。
※第5.5話「過去は心からの距離で測る」は全三回です。
続きます。
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