(三)初めての不明
◆ (八)リナ、見た
リナは、数字よりも先に違和感を拾う。
それは、理人にも少しずつ分かってきた。
三番の荷役獣が、北棚の袋だけ嫌がる。
犬が、薬草箱の前で一度だけ吠えた。
荷運びの男が、湿った袋を持つ時だけ顔をしかめた。
夕方になると、南棚の奥だけ匂いが強くなる。
リナはそういうものを見る。
だが、それを記録だとは思っていない。
理人は、リナを呼んだ。
木片を見せる。
袋の絵。荷役獣の絵。鼻をそむけるしぐさ。
理人は三番目の荷役獣を指した。
次に、北棚の袋を指す。
そして、顔を背けるしぐさをする。
リナは目を丸くした。
そんなことも書くのか。
そういう顔だった。
理人はうなずいた。
「書く」
知っている現地語で、たぶんそれに近い言葉を言う。
リナは自分を指した。
「リナ?」
自分が見たことを、という意味だろう。
理人はうなずいた。
「リナ、見た。書く」
片言だった。
だが、リナには伝わった。
彼女はしばらく木片を見ていた。
それから、荷役獣を見た。
自分の見ていたものが、初めて何かの役に立つものとして扱われた。
そんな表情だった。
理人は、リナの印を作ることにした。
リナの耳。少し大きめの耳。
リナはそれを見て、目を丸くした。
それから、少し不満そうな顔をした。
理人は慌てて首を横に振る。
悪い意味ではない。
見ている。聞いている。気づく。
そういう印だ。
リナは、まだ少し納得していない顔だった。
それでも、木片から目を離さなかった。
◆ (九)小さな表
理人は、木片を大きく使うことにした。
上に、太陽の印。
朝。
その横に、沈む太陽。
夕。
左には、場所の印。
南棚。北棚。薬草箱。
その隣に、対象の印。
袋。薬草包み。水桶。
さらに、数。
石を置く場所。
その横に、状態。
乾く。湿り。破れ。嫌がる。
そして、一番下に、見た人の印。
リナの耳。理人の眼鏡。
リナは、眼鏡の印を見て少し笑った。
理人は少しむっとした。
だが、分かりやすいならそれでいい。
文字ではない。
帳簿でもない。
ただ、同じものを、同じように見るための約束。
理人は木片をリナの方へ向けた。
「朝。見る」
太陽の印を指す。
「夕。見る」
沈む太陽の印を指す。
「違う。書く」
リナは真剣に見ていた。
完全には分かっていない。
それでも、昨日よりは分かっている。
理人は、そう感じた。
小さな表だった。
表と呼ぶには雑すぎる。
線は曲がっている。
印も一定ではない。
それでも、何をどこに書くかが少しだけ決まった。
いつ。どこ。何を。いくつ。状態。見た人。分からないもの。後で確認するもの。
この世界で、理人が最初に作った記録様式は、粗い木片一枚だった。
◆ (十)空欄と不明
問題は、はっきりしないものだった。
湿っているように見える袋。
悪い匂いがする気がする薬草包み。
荷役獣が嫌がった理由。
犬が薬草箱の前で吠えた理由。
どれも、書きにくい。
リナは、そういうものの前で手を止める。
理人は、その理由が少し分かった。
間違っていたら怖い。
嘘を書いたと思われるかもしれない。
誰かに怒られるかもしれない。
だから、人は空欄にする。
理人は木片の端に三つの印を作った。
点。たぶん。
横線。不明。
丸で囲んだ小さな印。後で確認。
リナは、それを見て首を傾げた。
理人は、湿ったように見える袋を指した。
点の印を指す。
「たぶん」
次に、犬が吠えた薬草箱を指す。
横線を指す。
「不明」
それから、明日の太陽を指し、もう一度見るしぐさをした。
丸の印を指す。
「後で確認」
言葉は通じきらない。
だが、リナは分かろうとしていた。
理人は、空欄を指した。
次に、目を閉じる。
見ていない。
それから、横線を指した。
目を開ける。
首を傾げる。
見た。でも、分からない。
リナは、じっとその違いを見ていた。
空欄と、不明は違う。
そこまでは、伝わったようだった。
理人は少しだけ安心した。
見ていない空欄。見たけど分からない不明。
その二つが混ざると、記録は静かに壊れる。
◆ (十一)初めての不明
夕方、犬が薬草箱の前で吠えた。
一度だけだった。
すぐに鳴きやむ。
倉庫番は気にしていない。
荷運びの男たちも、作業を続けている。
リナだけが、その犬を見ていた。
理人も見る。
薬草箱。犬。吠えた。
だが、理由は分からない。
薬草の匂いかもしれない。
誰かが箱を触ったのかもしれない。
ただ虫がいたのかもしれない。
犬の気まぐれかもしれない。
リナは煤の棒を持ったまま、迷った。
書くべきか。
書かないべきか。
理人は、木片を指した。
薬草箱の印。犬の印。吠える印。
それから、横線。
不明。
リナは理人を見る。
本当に書いていいのか。
そういう目だった。
理人はうなずいた。
「リナ、見た」
リナは、薬草箱を見る。
犬を見る。
それから、小さくうなずいた。
煤の棒が、木片に触れる。
線は少し震えていた。
薬草箱。犬。吠えた。理由、不明。後で確認。見た人、リナ。
書かれたものは、答えではなかった。
だが、消えなかった。
それだけで、大きかった。
リナは木片を見つめたまま、しばらく黙っていた。
自分の見たものが、そこに残っている。
それが嬉しいのか、怖いのか。
理人には分からなかった。
たぶん、両方だった。
※第5話「データはだいたい汚い」は全四回です。
続きます。
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