(一)言葉が足りない
◆ (一)低リスク作業
カランタの倉庫兼厩舎で働き始めて、二週間が過ぎた。
山科理人は、まだこの世界の言葉を話せるとは言えなかった。
水は分かる。
袋も、だいたい分かる。
一、二、三も分かる。
同じ。
違う。
待て。
危ない。
そのあたりまでは、どうにかなる。
だが、文章になると途端に崩れる。
「右の古い袋を、昼までに裏の飼料棚へ移しておけ」
たぶん、そういう意味のことを言われても、理人が理解できるのは、
右。
古い。
袋。
昼。
移す。
その程度だった。
それでも、仕事は少しずつ増えていた。
床を掃く。
桶を洗う。
飼料袋を運ぶ。
荷役獣の水桶を満たす。
空袋を畳む。
使い終わった薬草包みを集める。
信用されたわけではない。
単に、箒と桶と空袋なら、任せても大きな被害が出にくいというだけだった。
理人は、それを理解していた。
「信用ではなく、低リスク作業の割り当て」
日本語で言っても、誰にも通じない。
だが、自分には分かる。
今の自分は、雇用された人間ではない。
監視付きで、役に立つか試されている人間だった。
それでも、悪くはない。
掃けば、床はきれいになる。
桶を洗えば、荷役獣が水を飲む。
空袋を畳めば、倉庫番の舌打ちが一つ減る。
役に立つ行動は、言葉より少しだけ早く届く。
理人は、そう覚え始めていた。
◆ (二)数える癖
理人は、数えていた。
意識して、というより癖だった。
朝、南の棚にある飼料袋は十二。
北の棚には七。
薬草包みは木箱に六。
水桶は四。
荷役獣は五頭。
そのうち一頭は、右後脚を少しかばっている。
そんなことを、勝手に頭が拾ってしまう。
前職の癖だった。
倉庫に入れば、棚を見る。
棚を見れば、数量を見る。
数量を見れば、昨日との差を見る。
見たからといって、何かできるわけではない。
言葉が足りない。
紙もない。
権限もない。
だが、見てしまう。
理人は、南の棚の飼料袋を見た。
十二。
朝、確かに十二あった。
昼に三つ運んだ。
なら、残りは九。
理人は夕方、同じ棚の前で足を止めた。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
七。
八。
八。
理人は、もう一度数えた。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
七。
八。
八。
「……一つ、足りない」
日本語だった。
誰にも通じない。
だが、数は変わらない。
朝、十二。
昼、三つ運んだ。
夕方、八。
十二から三を引けば、九。
そこにあるのは、八。
「差分、一」
理人は小さく息を吐いた。
胸の奥が、わずかに冷える。
事件だ、と決めるには早い。
だが、何もない、と流すには遅い。
◆ (三)まだ断定しない
理人は、すぐには結論を出さなかった。
一袋消えた。
そう考えるのは簡単だ。
だが、まだ早い。
自分の記憶違いかもしれない。
朝に数えたのは十二ではなく、十一だったかもしれない。
昼に運んだのは三つではなく、四つだったかもしれない。
誰かが別の場所へ移したのかもしれない。
空袋を一つ数に入れていた可能性もある。
この世界では、袋の分類もまだ怪しい。
大袋。
小袋。
古い袋。
濡れた袋。
飼料袋。
薬草包み。
日本語で「袋」とまとめたものが、こちらでは別物として扱われる。
だから、いきなり「減った」と言ってはいけない。
だが、違和感は残る。
理人は棚を見た。
八。
どう数えても八。
「記録がないと、確定できない」
理人はつぶやいた。
記憶は弱い。
人は間違える。
自分も間違える。
だから記録が必要だ。
だが、この倉庫には、理人が読める記録がない。
正式な帳簿らしきものはある。
ただし、文字が読めない。
触る権限もない。
理人は、自分の手を見た。
紙がない。
ペンがない。
言葉もない。
それでも、差分はそこにある。
それが、ひどくもどかしかった。
見えている。
だが、まだ記録になっていない。
◆ (四)言葉が足りない
理人は、近くにいた倉庫番を呼ぼうとした。
名前はまだ知らない。
肩幅の広い男。
いつも帳簿らしき板を持っている。
理人をあまり信用していない。
理人は棚を指した。
「サル」
袋。
倉庫番が面倒そうに振り向く。
理人は指を折った。
「エン、ト、ラ……」
一、二、三。
数え始める。
八まで数えたところで、倉庫番の顔がさらに険しくなった。
理人は、自分の頭を指す。
次に、朝を示すつもりで、太陽が昇るしぐさをした。
「朝。サル。十二」
もちろん、十二の言い方はまだ怪しい。
理人は指で十と二を示そうとする。
この世界の数え方と合っているかも分からない。
次に、昼に運んだしぐさをする。
三つ。
それから棚を指す。
八。
「違う。ネア。違う」
倉庫番は眉をひそめた。
「何を言っている」
理人には分からない。
だが、通じていないことは分かる。
理人はもう一度、棚を指す。
「サル、ネア」
袋、違う。
「朝、多い。今、少ない」
言葉が足りない。
圧倒的に足りない。
倉庫番は、理人を手で追い払うようなしぐさをした。
「仕事に戻れ」
たぶん、そういう意味だった。
理人は口を閉じた。
正しいかもしれないことを見つけた。
だが、伝えられない。
それは、思っていたよりも重かった。
正しさは、言葉にならなければ届かない。
そして、言葉になっても、たぶんまだ足りない。
※第3話「言葉はわからないが、数は嘘をつかない」は全三回です。
続きます。
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