開闢の教理絵本
霊廟での一件から数日後。
カルラは、昇華衆修幻道の奥殿にいた。
神前には白布を敷いた台が置かれ、その上に倶利伽羅剣が横たえられている。
長く人の手に置くものではない。
借り受けた力は、役目を終えれば神へ返す。
祓いが済むと、低く祝詞が奏上された。
やがて笛の音が延び、鼓がひとつ応える。
――御剣神楽。
白衣の舞手が神前へ進み、剣を迎えるようにゆるやかに袖をひらく。
一歩、また一歩。
刃を振るうための舞ではない。
人の世に下りた御剣を鎮め、再び神域へ送り返すための舞だった。
カルラは倶利伽羅剣を両手で捧げ持つ。
「――御役目、確かにお返しいたします」
最後の楽が止み、剣は奥殿へと納められた。
「……ふぅ」
この後、昇華衆修幻道では「御剣還座の神事」が行われる。
だが、カルラはこの神事があまり好きではなかった。
「から笑いなんか出来るかよ……」
倶利伽羅剣とともに持ち出した祭具や記録を戻してくる――そう言い訳をして、カルラはそのまま神宝庫へ足を運んだ。
古びた法具。巻物。奉納品。由来すら分からない木箱。
「そう言えば、サナはここの神床に霊知り(ひしり)の顕れ(あらわれ)が居ると言っていたな……」
それらを棚へ戻している途中、カルラの手が止まった。
「……ん?」
重々しい経典の間に、一冊だけ妙に場違いなものが挟まっている。
手に取ってみれば、表紙には三人の女性が並んで描かれていた。
「なんだこれ……教理絵本?」
カルラは首を傾げながら、最初の頁を開いた。
◇ ◇ ◇
むかし。
世界が、まだ今よりも若かったころ。
大いなる神は、
三人の女神に、
世界の一端をあずけました。
三人の女神には、
生まれ、死に、
また新しく生まれてゆく魂たちを見守り、
少しずつ、
より高いところへ昇ってゆけるように
手を差しのべる役目がありました。
三人はそれぞれの世界で、
たくさんの魂を見守っていました。
けれど。
一つの世界では、
少しずつ異変が起こりはじめました。
「もう、生まれたくない」
そう願う魂が、
現れはじめたのです。
彼らは、
転生することに疲れ、
不満を抱き、
次の生を望まなくなっていました。
けれど、
それだけならば、
まだ神も見放しませんでした。
ひとりひとりの魂に寄り添い、
話を聞き、
どうすれば再び歩き出せるのか、
懸命に考え続けていました。
しかし。
その魂たちの中から、
さらに奇妙な者たちが現れました。
それは――
**神から見られなくなった者たち。**
神のまなざしから外れ、
帰るべき場所を失った魂たちでした。
彼らは、世界へ入り込み、
悲しみ。
怒り。
憎しみ。
恐れ。
絶望。
さまざまな負の思いを、
世界の中へ吐き出してゆきました。
それでも、赤い髪の女神はあきらめませんでした。
世界を整え、
魂を導き、
何度も何度も、
崩れかけたものを立て直そうとしました。
けれど、
あるとき。
本来ならば届くはずのない場所――
女神の領域にまで、
その影響が入り込みました。
神から見られなくなった魂たちが、
転生を拒む魂たちに
触れはじめたのです。
本来、
神から見られなくなった魂は、
帰る場所を失っています。
そのため、
自分たちだけの世界を作ってしまうことがあります。
けれど、
そこには決まった形も、
決まった理もありません。
昨日と今日で
まるで違う世界になり、
生きものの形も、
場所も、
時間さえも、
ばらばらになってゆきます。
そんな世界は、
長く存在することができません。
やがて限界を迎え、
大いなる理の中へ
消えてゆくはずでした。
ところが。
このときだけは、
違いました。
女神の世界。
転生を拒む魂。
神から見られなくなった魂。
その三つが、
偶然だったのか、
誰かの意思だったのか、
互いに影響しあい、
絡まりあってしまったのです。
そして、
少しずつ。
少しずつ。
世界は、彼らに奪われてゆきました。
異変に気づいたころには――
その世界の女神の姿は、
もうどこにもありませんでした。
空はゆがみ。
大地はねじれ。
生きものは、
ひとつの形を保つことさえできません。
獣だったものが影になり、
人のようだったものが
次の日には別の姿になり、
生きているのか、
死んでいるのかさえ、
わからないものまで現れました。
のちに人々は、
その世界を、
**魔界。**
あるいは、
**地獄。**
そう呼ぶようになります。
女神は、
消えてしまったのでしょうか。
誰にも、
わかりません。
けれど。
女神の世界は、
その女神自身と
深く結びついています。
世界が今も存在している。
それならば、
女神もまた、
どこかに存在しているのではないか。
そう考えられていました。
世界に閉じ込められたのか。
世界に取り込まれたのか。
それとも、
今もその奥で
何かと戦っているのか。
答えを知る者は、
いませんでした。
二人の女神は、
何度もその世界を調べました。
けれど、
女神の姿を見つけることは
できませんでした。
そのあいだにも、
世界は育ち続けました。
形のないものが増え、
秩序のない命が生まれ、
世界そのものが、
大きく、
禍々しく膨らんでゆきます。
そしてついには、
大いなる神々の理にまで、
触れはじめました。
もし完全に触れてしまえば、
この世界は、
今度こそ消えてしまいます。
それは、
世界そのものの
完全な喪失でした。
そのとき。
もう一人の女神は、
ひとつの決断をしました。
「この世界が
理に触れて消えてしまうのなら――」
「わたしの世界の中に、
包んでしまえばいい」
それは、
とても危険な方法でした。
けれど黒髪の女神は、
赤髪の女神を見捨てませんでした。
そして――
新しい世界をひらきました。
その世界を大きく広げ、
この歪んだ世界を、
丸ごと包み込んだのです。
大地の下に、
さらに深い大地を隠すように。
大きな海の中へ、
もうひとつの海を沈めるように。
こうして、歪んだ世界は、
黒髪の女神の世界……
とても低く、
とても深い場所へ
閉じ込められました。
大いなる理に触れることは、
なくなりました。
けれど。
代わりに、
別の問題が生まれました。
歪んだ世界のものたちが、
新しい上の世界へ出てくるようになったのです。
彼らの多くには、
こちらの世界で使える体がありません。
そこで、
人の魂へ食らいつき、
その魂を足がかりにして、
姿を現すようになりました。
そうして生まれたものが、
**ゴースト。**
**レイス。**
そして、
さまざまな霊の魔物たちでした。
彼らは、
生きている人間に
直接触れることは、
あまり得意ではありません。
けれど、
心や意識が弱っている人には、
近づくことができました。
すると、
その人が突然
別人のようになったり、
心や体を病んだり、
ひどいときには、
そのまま命を落としてしまうこともありました。
さらに。
死んだ人の体や魂へ取りつき、
そのまま怪物となって
現れるものまでいました。
けれど、
それだけではありませんでした。
あるものは、
小さな獣の魂へ入り込みました。
そして、
子へ。
また、その子へ。
何代も何代も、
影響を受け継いでゆきました。
長い時間の中で、
その獣たちは少しずつ姿を変え、
ついには、
もとの動物とは違う存在になりました。
それが――
**魔獣。**
さらに、
山や森の奥には、
奇妙な洞窟や迷宮が
生まれるようになりました。
人々は、
それを
**天然ダンジョン**
と呼びました。
けれど、
天然ダンジョンは、
ただの洞窟ではありません。
それは、
歪んだ世界が
ライカの世界へ
染み出した場所。
つまり、
世界の傷でした。
そこへ、
魔獣や魔物たちが住み着きます。
そして、
深く潜れば潜るほど、
神のまなざしの届かない世界に近づいてゆきます。
魔物は強くなり、
体は変わり、
魂さえも、
少しずつ別のものへ変質してゆきます。
だから。
天然ダンジョンには、
本当の意味での
「最下層」はありません。
もし誰かが、
その奥の奥まで進み、
本当の果てへ
たどりついたのなら――
そこはもう、
ダンジョンではありません。
そこは、
ライカの世界の下にある、
**地獄の世界そのもの。**
本来ならば、
ライカの世界に包まれた その世界は、
外へ出ることなど
できないはずでした。
けれど、
人々の心から生まれる
怒り。
悲しみ。
憎しみ。
恐れ。
妬み。
絶望。
そうした負の感情が
たくさん積もると、
二つの世界を隔てる壁に、
小さなほころびができると
考えられていました。
そして、
そこからまた、世界の侵食が始まります。
世界は傷つき。
女神たちは直し。
安定したと思えば、
また侵食される。
壊れ。
直し。
また壊れ。
また直す。
それは、
数えることなどできないほど、
長い時間、
繰り返されてきました。
そして、
ある時代。
金髪の女神は、
ひとつの決断をします。
女神として
遠くから世界を見るのではなく、
ひとりの人間として、
地上へ降りたのです。
その名は、
**聖女エルン。**
エルンは、
人々と同じ大地を歩き、
町を見て、
争いを見て、
悲しみを見て、
世界に生まれた傷を
ひとつずつ調べてゆきました。
そして、
世界を整えながら、
長い役目を終えてゆきました。
やがて、
聖女エルンにも
命の終わりが訪れます。
けれどエルンは、
最後にひとつの方法を
人々へ残しました。
とても強い圧力と、
とても高い熱を使い、
あるものを、
美しい結晶へ変える方法。
そしてエルンは、
自分が亡くなったあと、
自らの骨を、
その方法で宝石へ変えるよう
人々へ伝えました。
そうして生まれた宝石は、
**麗石導環。**
その石には、
人々から生まれる負の感情を
受けとめ、
静め、
浄化する力が宿っていました。
麗石導環は、
カエローリア王国を守るために
用いられました。
怒りは、
少しずつ静まり。
争いは、
少しずつ減り。
世界にできるほころびも、
以前より少なくなってゆきました。
そして人々は、
ようやく、
穏やかな日々を
手に入れたのでした。
けれど。
大地の、
ずっと、
ずっと深いところ。
ライカの世界に抱かれた暗い世界は
いまもなお、存在しています。
そして、
消えた女神が
今どこにいるのか。
何を見ているのか。
何を思っているのか。
それを知る者は、
今もまだ、
誰もいないのです。
◇ ◇ ◇
そして最後だけ、
最後の頁を読み終えても、カルラはしばらく動かなかった。
「…………」
何も言わず、本を閉じる。
――パタン
本を閉じた音と共にカルラは
まるで深い瞑想から戻ったような感覚に襲われる
「ん……そういや、サナに聞きたいことが色々あるな……」
ここから先は、少しゆっくりめの更新になる見込みです。
無理せず続けていこうと思います




