第九話
振り返った先の影は、俺が近づいても逃げなかった。
ホブゴブリンは俺の視線を真正面から受け止めると、ゆっくりと斜面を降りてきた。腰には粗末な短剣を差している。だが、その手は柄に触れていない。両手を軽く開き、掌をこちらへ見せながら、一定の速度で近づいてくる。
(こいつ……)
敵意がないことを示す仕草だと、瞬時に理解した。ゴブリンの浅知恵から出てくる動きではない。こいつは、相手を見て振る舞いを変えることができる。
俺は唸らなかった。姿勢も低くしなかった。ただ、その場に座って待った。
互いの距離、およそ十歩分。俺が本気で跳べば一息で届き、こいつが全力で駆ければ森に消えられる。絶妙な間合いで、ホブゴブリンは足を止めた。
交渉の距離だと、俺は思った。
先に動いたのは、ホブゴブリンだった。
足元から枯れ枝を拾い上げる。武器にもならない細さの枝だ。そして、俺の目を見たまま、ゆっくりと屈み、地面に何かを描き始めた。
横に長い、いびつな楕円。端に空いた切れ込み。
楕円の中に伸びる、途中で狭くなる通路。二股の分かれ道。その先に広がる、大きな空間。
(……洞窟の中の、地図か!)
声の出せない俺の代わりに、心臓が飛び跳ねた。
こいつは、俺が何を欲しがっているかを正確に理解している。イノシシ戦からずっと観察していたのは、俺の力を測るためだけではない。俺が洞窟を見張っていることも、攻めあぐねていることも、全部わかった上で、これを持ってきたのだ。
ホブゴブリンは枝の先で、最奥の大きな空間を突いた。それから両腕を大きく広げて身体を膨らませ、のしのしと歩く真似をする。
鬼だ。
次に、その場にごろりと横たわり、目を閉じる仕草。起き上がると、枝で空をなぞり、太陽の軌道の真ん中あたりを指した。
昼、鬼は最奥で眠る。
俺が匂いで掴んでいた情報と、一致する。
ホブゴブリンは最後に、大きな空間の隅へ、小さな丸を一つ描き足した。
それが何なのかは、聞くまでもなかった。あの女だ。
こいつは、俺が女の匂いに反応していたことまで見抜いている。
それから枝は、二股の分かれ道のもう一方である、小さな行き止まりの空間を指した。ホブゴブリンは自分の胸を叩き、指を四本立て、洞窟の外の森を大きく指し示す。
決行のとき、残党のゴブリン四匹は、自分が外へ連れ出す。
……そういう意味だと、俺は解釈した。
対価に何を求めているのかも、聞くまでもない。
命だ。
鬼が死んだ後、俺に殺されないこと。それが最低条件で、おそらくは、それ以上のことも考えているのだろう。俺という新しい強者の下での、自分の居場所とか。
ふと、このまま殺すことも考えた。十歩の距離は、今の俺なら一息だ。俺を嵌めた知恵者を、ここで清算しておくことはできる。
だが、やめた。
理由は三つ。この地図の真偽をまだ確かめていないこと。生きたこいつには、死体以上の使い道があること。
そして、ゴブリンの肉は、正直二度と食いたくない。
我ながらしまらないが、三つ目が一番大きかった気がする。
もちろん、すべて信じたわけではない。
一度俺を嵌めた奴だ。この地図ごと罠、という可能性は常にある。例えば、俺と鬼をぶつけて共倒れを狙い、漁夫の利を得るとか……それぐらいのことは平気で考える頭だろう。なにせ、俺が同じ立場なら、同じことぐらいは考える。
だから、確かめることにした。
それから二日、洞窟の風下で匂いの層を読み直した。鬼の匂いの深さ。ゴブリンどもの位置。女の匂いの方向と距離。俺の鼻によって描かれる地図と、ホブゴブリンによって土に描かれた地図。二つを重ねると、綺麗に一致した。
少なくとも洞窟の構造について、こいつは嘘をついていない。
嘘をつくとしたら、ここから先だ。
俺はホブゴブリンの再びの裏切りを織り込んで、段取りを組んだ。ゴブリンどもが外へ連れ出されていなかった場合。入口を塞がれた場合。そして、こいつが鬼側についた場合。そのときは、鬼より先にこいつを殺す。
間合いの外からこちらを窺うホブゴブリンの目を見て、確信する。
こいつも、同じことをしている。
俺が裏切った場合。俺が負けた場合。俺が勝った場合。全てのパターンを、あの小さな頭の中で並べて、計算していることだろう。
信用は、どこにもなかった。
あるのは利害の一致と、互いへの計算だけ。
……悪くない、と思ってしまった。
母に捨てられてから初めての共同作業の相手が、俺を殺しかけた仇敵。言葉など一つも交わしていない。それでも、これは間違いなく共謀だった。
決行の条件も決めた。
鬼が獲物を担いで帰ってきた日の、昼。
腹一杯に食った獣の眠りが一番深いことは、誰よりも俺自身がよく知っている。
あの穴倉の中身は、全部、俺のものだ。




