第八話
イノシシを食らった翌朝、目が覚めると、案の定身体がまた大きくなっていた。
古木の寝床は、もうとっくに手狭になっている。折れたはずのあばらは、痛みの余韻すら残っていない。前足で地面を踏みしめると、以前とは別物の力が返ってくる。
川で水を飲みながら、水面の自分を見た。
捨てられた日に見た、あの小さく醜い獣はもういない。体躯は狼の成獣をとうに超え、黒い毛並みの下で筋肉が波打っている。この短期間で、こんなにも成長するものなのか。醜いのは、相変わらずだが。
嗅覚の「数値」も測り直した。
例の適当な基準——鬼を百とするなら、今の俺は六十五、というところか。イノシシを食う前が五十弱だったのだから、大幅な上昇だ。強い者の肉を食らうと、間違いなく強くなっていく。
だが、それでも六十五だ。百にはまるで届かない。
しかも、あのイノシシ戦で学んだばかりだ。数値は感情で膨れ上がる。怒り狂った鬼が百のままでいてくれる保証など、どこにもない。
正面から挑めば、確実に死ぬ。
それが結論だった。
だから俺は、勝機を見出すために今日も洞窟を見張っている。
鬼の洞窟は、森の奥の岩山の根本に、ぽっかりと黒い口を開けていた。
風下の斜面に伏せ、鼻から情報を吸い上げる。強化された嗅覚は、洞窟の中の気配を、層のように分けて伝えてくる。
最奥に、鬼。桁違いの濃度だ。そこにいるだけで、匂いが「圧」になっている。
その手前に、ゴブリンが四匹。あの日逃げ延びた残党だろう。
ホブゴブリンの匂いは、洞窟の入口近くにあった。群れの生き残りでは最上位のはずの知恵者が、見張りの位置に置かれている。あの群れで最底辺だった、耳の裂けた見張りと同じ扱いということだ。
そして。
洞窟の奥から、もう一つの匂いがした。
人間だ。
女の匂いだった。
(生きて、いるのか)
忘れるはずがない。あの日、目の前で仲間を殺され、鬼に抱えられて消えた魔法使いの女だ。
あれから、ひと月近くは経っている。
なぜ、まだ生きている。
食料にするつもりなら、とうに食い尽くしているはずだ。それなのに、生かされている。鬼がもし、ゴブリンやオークと同じ側の生き物なのだとしたら、考えられる理由は……。
そこまで考えて、やめた。
考えたところで、俺にできることは何もない。そもそも、助ける理由もない。
俺は、人間ではないのだから。
それよりも、だ。
風が洞窟の奥の匂いを運んでくるたび、俺の口の中は、みっともないほど唾液で溢れていた。
甘い。濃い。温かい。
生きた人間の、血の通った匂いだ。あの日食らった人間の味の記憶が、記憶の底から迫り上がってくる。
人間を食べることの罪悪感を探してみた。何も見つからなかった。
あるのは、ただの食欲だった。
鬼を倒すのは、ホブゴブリンとの決着のためでも、森の支配のためでもない。
鬼の肉も、根城も、洞窟の奥から漂うあの甘い匂いも、全部、俺が奪う。
目的が定まれば、やることは変わらない。観察だ。
数日かけて、鬼の生活は掴めてきた。
鬼の生活リズムはバラバラだが、基本的には日が沈んだぐらいで狩りに出る。戻るのは夜明け前。獲物を担いでいる日もあれば、手ぶらの日もある。一日だけ真昼間に狩りに出た日があった。手ぶらの日の鬼は明らかに機嫌が悪い。洞窟に入る前、八つ当たりのように見張りのホブゴブリンを殴り飛ばしていくのが常だった。
その後は洞窟の最奥で眠る。眠りは深い。一度、入口近くでゴブリン同士が悲鳴じみた喧嘩をしていたが、最奥にある匂いはぴくりとも動かなかった。
仕掛けるなら、寝静まった後の昼。それは間違いない。
問題は、洞窟の中を俺が何も知らないことだった。
通路の幅、天井の高さはどれぐらいか。分かれ道はあるのか。いざという時の逃げ場はあるのか。
格上のイノシシに勝てたのは、戦場を俺が選ぶ側だったからも大きい。中身の見えない穴倉に飛び込むのは、戦いではない。それはただの博打だ。鬼にとって有利なフィールドで戦った場合、順当に負けて肉塊と化すことになるだろう。
内部の情報が、いる。
そして、それを持っている奴の匂いを、俺はこの数日、ずっと背中に感じていた。
イノシシ戦の日から、付かず離れず、俺を観察し続けている知恵者。
俺は伏せていた身体を起こし、初めて、その視線に正面から向き直った。




