第七話
イノシシの観察を始めてから、四日が経った。
わかったことは多い。
まず、あいつの目はほとんど見えていない。少なくとも、遠くはまるでダメだ。俺が風下の茂みから半身を出しても、まったく反応しなかった。頼っているのは鼻と耳。特に鼻は、俺ほどではないにせよ、かなり利く。
行動は単純だった。夜明けと日暮れに餌を漁り、昼は泥場で眠る。川沿いの、日当たりの悪い窪地だ。全身に泥を塗りたくる習性があり、あの鎧のような剛毛は、こうして作られていた。
縄張りは広い。だが、巡回の経路はほぼ決まっていた。太い木に牙を擦りつけ、匂いを残しながら歩く。見た目の割に几帳面なやつだ。
そして、突進攻撃。
一度だけ、縄張りに迷い込んだ大鹿が突進を食らうのを見た。
直線の速度は、恐らく今の俺より速い。大鹿は避けることもできず、牙に掬い上げられ、宙を舞った。地面に落ちたときには、腹が裂けて事切れていた。
あれをまともに食らえば、確実に俺も死ぬ。そうでなくとも戦闘不能になるので、最終的な結果は変わらないだろう。
ただし、曲がれない。突進の後、あいつは必ず大きく減速し、緩い弧を描いて向きを変えていた。巨体と速度の代償だ。
勝ち筋は、そこにしかない。
夜明け。
あいつが餌場へ向かった隙に、俺は巡回路のど真ん中に堂々と立った。
そして、マーキングされた木に思い切り爪を立て、その根元に小便をかけてやった。
縄張りの主への、これ以上ない挑戦状だ。
効果は覿面だった。
地響きのような足音と、怒りで膨れ上がった匂いが、まっすぐこちらへ向かってくる。
(来た)
姿が見えた瞬間、俺は背を向けて走り出した。
逃げる先は涸れ沢。追いつかれない程度に、しかし見失われない程度に。速度の調整が命綱だ。
背後で木が折れる音がした。細い木なら、避けもせずにへし折って直進してくる。
速い。想定より、遥かに速い。
(五十五じゃないぞ、こいつ……!)
嗅覚の見立てを、初めて疑った。怒りで力が膨れ上がっているのか。だとしたら、あの数字は当てにならない。生き物の強さは状況で変わるのだ。
涸れ沢に飛び込む。岩壁に挟まれた一本道。あいつも減速せずに突っ込んでくる。曲がる必要のない直線は、あいつの独壇場だ。距離が、みるみる詰まっていく。
突き当たりの巨岩が見えた。
俺は巨岩を背にして足を止め、振り返った。
真正面から迫る怪物と、目が合う。濁った小さな目に、俺が映っている。
まだだ。
地響きが向かってくる。大量の土煙を上げながら、巨大な牙が、殺意がこちらに向かってくる。
まだ。
鼻先が触れる、その寸前——俺は真横に跳んだ。
世界が、揺れた。
巨岩と激突した衝撃で、岩壁から砂と小石が降り注ぐ。牙の片方が根本からへし折れ、宙を舞っていた。
(今だ!)
脳を揺らされ立ち尽くすあいつの背後に回り込み、後ろ足の踵、その腱に牙を突き立てる。泥の鎧は厚い。だが、読み通り、関節の裏までは守れていない。
繊維がぶつりと千切れる感触がした。
脳まで揺れるような絶叫が響く。
だが、終わらなかった。
あいつは三本の足で強引に身体を回し、頭を振った。折れ残った牙が、俺の脇腹を掠める。
掠めただけで、俺の身体は宙に浮いた。
岩壁に叩きつけられ、肺から空気が絞り出される。
(が、は……っ)
あばらが、何本かいっただろう。
立て。立たないと死ぬ。
あいつは三本足で、それでもこちらへ向かってくる。突進はもうできない。だが、あの巨体は健在だ。
ここからは、我慢比べだ。
距離を取り、回り込み、腱を狙い、離れる。それだけを繰り返す。言うことを聞かない重い身体を気力のみで動かしながら、紙一重で攻撃を交わしていく。
左後ろ足。
右前足。
一噛みごとに、あいつの動きが鈍っていく。
血の匂いが、涸れ沢に満ちていく。
どれだけ繰り返しただろうか。四本目の腱を噛み切ったとき、あいつはついに、自らの巨体を支えられなくなった。
泥と血にまみれた山が、地響きを立てて崩れ落ちる。
それでも、あいつは牙の折れた頭を振り回し、俺を殺そうとしていた。
大したものだと、心から思う。この森でクマを食らってきた強者の、最後の意地だった。
俺は暴れる頭を掻い潜り、柔らかい喉の下に、深く、深く牙を沈めた。
(いただきます)
温かい血が、口の中に溢れた。
イノシシの肉は、うまかった。
ゴブリンやオークとは比べ物にならない。脂は厚く、甘く、噛むほどに濃い味が滲み出てくる。人間のあの味には及ばない。及ばないが、間違いなくご馳走だった。
あばらの痛みも忘れて、夢中で食らった。腹の底から、熱いものが湧き上がってくる。傷が塞がっていく、あの感覚だ。
クマを食らう森の強者は、いま、俺の血肉になっている。
——ふと、視線を感じた。
風向きが変わった瞬間、その匂いが鼻に届く。
泥と、排泄物と、その奥に隠しきれていない、緑の匂い。
忘れるはずもない。俺を嵌め、俺に群れを滅ぼされた、あの知恵者の匂いだった。
涸れ沢の岩壁の上。
距離を保ったまま、ホブゴブリンが、じっとこちらを見下ろしていた。




