第六話
なんとか生き延びた。
ゴブリンの死体まみれの空間の中で、ようやく安堵の息をついた。
全身が焼けるように痛い。ゴブリンたちの攻撃は当たっていないわけではなかった。
足や背中には無数の切り傷があり、肩には矢も突き刺さっている。肉がえぐれているところもある。人間時代の感覚からすると、よくこれで動けるものだ。アドレナリンだとか、それに類するホルモンが出ているのだろうか。それでも、全身を包む倦怠感は如何ともし難く、また、尋常じゃなく腹が減っていた。
足元のゴブリンがご馳走に見えてきている。
(いただきます)
迷いなく、ゴブリンに齧り付いた。
相変わらず、ゴブリンの肉は酷い味だが、あまりにも空腹だったからか、嫌悪感はほとんど感じていなかった。
それ以上に気になったのは血の温度だった。生ぬるく、泥と鉄を混ぜたような強烈な香りが、口と鼻の奥にまとわりつく。真の意味で新鮮な肉ってこういうことなんだなと考えながら、無我夢中でゴブリンを食らう。
ものの数分で、一匹目が骨になっていた。
まだ腹は全く満たされていない。
二匹目、三匹目も食す。腹が多少満たされてきた。食べれば食べるほど、足元の血溜まりが広がっていく。
五匹目を食べたところで、ようやく満腹感が出てきた。まだゴブリンの死体は何体も残されているが、とてもじゃないが食べられそうにない。放置をするしかない。
寝床のある古木へ向けて歩き出した瞬間、異変に気付く。体が軽いのだ。さっきまでの重さが嘘のようだ。先ほど抜いた矢の傷が塞がりかけている。えぐれた肉が蠢き、肉芽が膨らむ様子を目で追えた。肉が形を取り戻していく。自分の身体に何かが起きている。
何が起こっているのかはわからないが、悪いことではないように思えた。
そのまま寝床に帰り、泥のように眠った。
次の日、目が覚めてまず思ったのは、寝床が狭く感じたことだった。もしやと思い外に出て、気付く。
また身体が大きくなっている。えぐれた肉もほぼ再生されており、矢が刺さった跡もほとんど残っていない。今なら、万全のホブゴブリンさえも……。
これは、ゴブリンの肉の効果、なのだろうか。いや、以前に食べた時はここまで大きくならなかった。そうなると、手傷を負い、死にかけになったことが関係しているのか。確かに、生き残ったことを実感したときの感覚は別格だった。そうだとしても、死にかけるのはごめんだが。
ホブゴブリンを探すために、地面に鼻を擦り付ける。
瞬間、自分の嗅覚までも強化されていることを実感した。なんというか、嗅覚の“濃淡”を以前より正確に感じるようになったのだ。嗅覚だけで、頭の中にはっきりとイメージが思い浮かぶ。強さだけでなく、距離、数、形状……。これらがより正確に分かるようになった感じだ。
ホブゴブリンの匂いを追う。ホブゴブリンの匂いは森の奥にある洞窟の前で消えていた。順当にいけばこの洞窟の中に入ったのだろう。
しかし、俺はその洞窟の中に入ることを躊躇していた。
なぜか。するからだ。あのとき、圧倒的な実力で人間たちを殺した、鬼の匂いだ。
(あのホブゴブリンと鬼は繋がっている?)
匂いだけで結論づけることはできない。鬼がホブゴブリンを従わせているのかもしれないし、たまたまホブゴブリンが洞窟を根城にしていたところを鬼に奪われただけなのかもしれない。後者なら、ホブゴブリンの命は確実にないだろうけど。
ホブゴブリンを倒したかったが、鬼を相手にするのはごめんだ。まだ勝てるビジョンが全く見えない。腹も空いてきた。狩りをすることにしよう。
獲物を探していると、強烈な匂いを発する魔物に気付く。生臭く、泥臭く、血の濃いを隠そうともしない。この森においてこれだけ我が物顔で練り歩くことができるのは、強者の証である。
匂いの先では、巨大なイノシシが、鼻息を荒立てながら巨大なクマを食らっていた。
今までなら勝てる気すらしなかった相手だ。ノータイムで距離を置こうとしただろう。
しかし、今の俺は悩んでいた。自惚れかもしれないが、勝てる気がしてきている。
匂いを嗅ぐことで今までぼんやりとしか感じられなかった動物の強さが、はっきりと見えるようになってきている。
風下の茂みに身を沈め、改めてイノシシを観察する。
でかい。体高だけで俺の倍はある。焦げ茶の剛毛には乾いた泥がこびりつき、天然の鎧のようになっていた。額の脇から突き出した二本の牙は、緩く湾曲しながら前へ伸び、先端は槍のように鋭い。
そして何より、食っているのがクマなのだ。この森でも上位に入るであろう体格のクマが、まるで解体された家畜のように地面へ広げられている。肋骨が小枝のような音を立てて噛み砕かれていく。
前世の知識にあるイノシシとは、大きさも迫力もまるで違う。おそらくあれも、ゴブリンやオークと同じ、魔物の類なのだろう。
嗅覚が伝えてくる情報を、頭の中で整理する。
強い。それは間違いない。今まで俺が全力で接敵を避けてきた、「危険な匂い」の筆頭格だ。この森であの鬼を除けば、おそらく最強格だろう。
だが、以前感じていたような、絶対に届かない「格上」の感覚はなかった。鬼の匂いを百とするなら、あのイノシシは五十五といったところか。そして今の俺は、多分、五十弱。
我ながら随分と適当な数値化だが、嗅覚が示してくる感覚を無理やり言葉にするなら、そんなところだった。
決して勝てない相手ではない。準備をすれば、届く数字だ。
なぜ、わざわざ危険を冒してまで、あれと戦うのか。
答えは決まっている。強くなるためだ。
この森には鬼がいる。あの洞窟にホブゴブリンが逃げ込んだ以上、いずれ必ず、俺はあの鬼とぶつかることになる。
それに——認めてしまおう。俺はまた、人間の肉が食いたい。新鮮な人間の肉を、食いたい。あの味を知ってしまった以上、いつまでも森の中でウサギを追いかけて満足できるはずがないのだ。
人間は強い。人間を狩るためには、俺はもっと強くならなければならない。
強い肉を食えば、強くなれる。死線を越えれば、さらに強くなれる。それはもう、この身体で実証済みだ。
ならば、あのイノシシは避けるべき危険などではない。
この森に用意された、最高の餌だ。
とはいえ、だ。
今すぐ飛びかかるほど、俺は命知らずではない。ゴブリン戦の教訓は、骨身に染みている。観察を怠った側から死んでいくのがこの森のルールだ。今思えば、俺はゴブリンのことをどこか下に見ていて、気の緩みがあったことを否定できない。
俺は数日かけて、あのイノシシを観察することに決めた。
寝床はどこか。狩りの時間帯はいつか。縄張りの広さはどれぐらいか。突進の速度と、小回りの利かなさはどの程度か。目はどの程度見えていて、鼻はどの程度利くのか。
あのウサギを狩ったときと、やることは何も変わらない。獲物の観察、そして練習。シンプルだが、これに勝るものはない。
相手がクマを食う怪物でも、それは同じだ。
茂みの中で、俺は静かに腹を決めた。
まずは、あのイノシシを食う。
それから……鬼だ。




