第十話
三日、待った。
四日目の夜明け前、鬼は大鹿を担いで帰ってきた。
岩山の斜面に伏せたまま、俺は洞窟の匂いを読む。奥からしばらく、肉を裂く音と骨の砕ける音が響き、やがて、静かになった。
匂いの層が教えてくれる。鬼の匂いは最奥で沈み、規則正しく、深く、上下している。
満腹の獣の眠りだ。
昼が近づくと、まずホブゴブリンが動いた。残党のゴブリン四匹を連れて、洞窟から出ていく。狩りにでも誘い出したのか、四つの緑の匂いは、知恵者に先導されて森の奥へと遠ざかっていった。
約束は果たされた。
少なくとも、ここまでは。
俺は立ち上がり、風下から洞窟の入口へ降りた。
黒い口の前に立つ。中から流れ出てくる空気は、腐った肉の匂いと、鬼の圧と、わずかに流れてくる、あの甘い匂いを含んでいた。
行くぞ。
一度、気合を入れ直す。俺は初めて、穴倉に足を踏み入れた。
中は暗いが、問題なく見える。この目は人間の頃よりも夜目が利く。そして仮に見えなくとも、鼻がある。
通路は思ったより広かった。俺が二匹並んで歩ける幅。天井は、あの鬼が屈んでようやく通れる高さだろう。
土の地図の通り、道は途中で狭まり、二股に分かれた。
右は、ゴブリンどもの寝床だった行き止まり。
左の奥から、圧が来る。
一歩ごとに、鬼の匂いが濃くなっていく。匂いというより、もう重さだ。圧倒的な存在の大きさが、質量となって俺に襲いかかってくるようだった。全身の毛が逆立ち、本能が「帰れ」と喚いているように感じる。
左の通路を抜けると、途端に空間が開けた。最奥の広間だ。天井は高く、広さも想像していた以上にある。
……ここでは、あの棍棒が振れるだろう。
広間の中央で、山がゆっくりと上下していた。
鬼だ。仰向けに寝転がり、腹を天井に向けて、深く眠っている。傍らには大鹿の残骸と、あの棍棒。
そして、広間の隅。
岩壁の窪みに、小さな影がうずくまっているのが見えた。
全く動かない。だが、匂いは生きていると告げている。
見るな。今は、見るな。
俺は視線ごと食欲を引き剥がし、眠る山へと、音もなく近づいた。
狙いは、喉。
寝息に合わせて上下する、太い首だ。俺の顎は、イノシシを食したことでさらに強化されている。今の牙なら、いける。
最後の一歩を詰め、跳んだ。
全体重と全部の筋肉を顎に乗せ、喉笛へ牙を思い切り突き立てた。
皮を破り、肉に食い込む。熱い血が口に溢れ——
そこで止まった。
牙が、止まってしまった。
(硬い……!?)
肉というより、軋む木の幹だった。魔法の炎を正面から耐えた肉体。その首の筋肉は、血管に届く前に、俺の牙を受け止めていた。
瞬間、山が動いた。
視界が回った。
何が起きたのかを理解したのは、岩壁に叩きつけられた後だった。腕の一振り。寝起きの、狙いすらしていない一振りで、俺の身体は広間の端まで飛ばされていた。
肺が潰れ、息ができない。
立て。
立て!
俺が体勢を立て直すのと、鬼が身体を起こすのは、ほぼ同時だった。
鬼は、首から血を流しながら、ゆっくりとこちらを見た。
寝込みを襲われた怒りと、獲物を見つけた愉悦。両方の混ざった目だった。
匂いが、膨れ上がっていく。
(これは……百じゃない)
斜面から測っていた数値の比ではなかった。怒りに焚かれた鬼の圧は百二十……いや、もう数字は当てにならない。
鬼が、棍棒を拾い上げた。
そこからは、回避だけの時間だった。
振り下ろしが床を砕く。跳ねた破片が頬を裂く。
横薙ぎが岩壁を抉る。広間全体が揺れ、天井から砂が降る。
一撃。たった一撃で終わる。あの日の剣士のように。あの日の魔法使いのように。
ひたすら躱す。潜る。跳ぶ。
反撃の隙が、どこにもない。喉は硬い。目は高すぎる。膝の裏を狙って踏み込んだ瞬間、読んでいたかのように膝蹴りが来て、俺は跳んで逃げるしかなかった。
(こいつ、戦い慣れている……!)
力だけの怪物ではない。あの日、三人の人間を手玉に取った動きは、伊達ではなかったのだ。実践経験の豊富さが、動きの所作一つ一つに現れていた。
広間は、駄目だ。
ここはあいつの戦場だ。棍棒が振れて、踏み込みが伸びて、俺の逃げ場は壁で終わる。
なら、狭い通路へ行く。最初の一撃が失敗した場合の、計画の第二段階。地形を活かして戦う。
俺は三度目の横薙ぎを掻い潜り、広間の出口へと跳び込んだ。
通路を駆ける。背後で、鬼が吼えた。
洞窟全体が震えるほどの咆哮だった。耳の奥が痺れ、一瞬、匂いすらも感知できなくなる。脳が悲鳴をあげたのだとわかった。
そして、地響き。
振り返って、俺は自分の計画の浅さを知った。
鬼は、屈むことすらしなかった。
狭い洞窟に頭から突っ込んできていた。肩で岩壁を削り、額で天井を砕きながら、通路いっぱいに詰まった肉の塊が、雪崩のように迫ってくる。
棍棒は、確かに振れていない。
振る必要が、ないのだ。
この通路であの質量に追いつかれれば、轢き潰されて終わる。
(この洞窟の狭さは、俺の逃げ場をもなくしていた……!)
遅くも気付いたが、今更計画を変えることはできない。駆ける。全力で駆ける。背中に地響きが迫ってくる。崩れる岩の音が遠くで聞こえた。
前方に、二股の分かれ道が見えた。
まっすぐ抜ければ、洞窟の外に出る。つまり、開けた地形で、怒り狂った鬼と正面から向き合うことになる。仮に逃げたところで、あの鬼は俺を死ぬまで逃さないだろう。
右へ折れれば、行き止まり。ゴブリンどもの寝床だった、逃げ場のない小部屋がある。
外に出れば、死ぬ。
行き止まりでも、死ぬ。
(考えろ)
分かれ道が、もう目の前に迫っていた。




