第十一話
選んだのは、右だった。
行き止まりの小部屋へ、頭から跳び込んだ。
賭けの根拠は、二つあった。
一つ。ここはゴブリンどもの寝床だ。入口の穴は、ゴブリンの寸法でできている。俺ですら多少窮屈に感じるぐらいだ。これまでの狭い通路よりもかなり狭くなっている。少なくとも、もう巨体が無理にこじ開けて入れるようなものではない。
二つ。全力で駆ける巨体は、急には曲がれない。あのイノシシが教えてくれたことだ。
直後、背後で衝撃が弾けた。
曲がりきれなかった鬼が、分かれ道の岩壁に激突した音だった。洞窟全体が揺れ、砕けた岩が通路に転がる音がする。
小部屋の奥で反転し、入口を見据える。
やがて、穴の向こうに、血走った目が現れた。
鬼が腕をねじ込んでくる。丸太のような腕が、俺を探して薙ぎ回る。だが、肩がつかえて、そこまでだ。
賭けの半分は、見事に当たった。
(ここなら、戦える。入ってくるのは、腕一本だけだ)
薙ぎ回る腕の軌道を見切り、掻い潜り、肘の内側へ牙を突き立てた。首よりは、柔い。今度は肉の奥まで、牙を突き立てる。
外で絶叫が響く。腕が引き抜かれていく。
もらった、と思った。
これを繰り返せばいい。入ってくる腕を、少しずつ潰していけばいい。イノシシの腱を一本ずつ潰したような、あの消耗戦をもう一度繰り返す。
次の瞬間、小部屋全体が跳ねた。
衝撃。続けて、衝撃。
鬼が、入口を殴っているのだ。骨の砕けそうな音を立てて、岩壁がボロボロと崩れる。入口の縁が欠け、崩れ、穴が広がっていく。
天井に、亀裂が走った。
(そうか。こうやって広げられるのか)
賭けのもう半分は、外れた。
この小部屋は、もうすぐ俺の墓穴になる。
崩れた入口から、今度は頭と肩がねじ込まれてきた。血走った左目が、俺を捉える。狙うならあの目だ。跳んだ。
読まれていた。
視界が反転した。後ろ足に、万力のような握力。
引きずり出される。
通路の岩壁に、叩きつけられる。一度。二度。三度。
骨の折れる音を、自分の身体の内側で聞いた。
そして、放り捨てられた。
通路の床に、俺は転がっていた。
口の中は血の味しかしない。全部、自分の血だ。
後ろ足の感覚がない。折れたあばらは、もう数えるだけ無駄だ。息を吸うたび、胸の中で折れた何かが軋む。
視界が、明滅する。
地響きが、ゆっくりと近づいてくる。鬼が棍棒を引きずりながら、歩いてくる音だった。急ぐ必要もないと知っている足取りだ。
死がゆっくりと歩いてきているのがわかった。
それでも立てない。
今度こそ、立てない。
これが、死ぬということか。ゴブリンの群れに囲まれたときとも違う。身体のどこにも、残っているものがない。
……そのときだった。
広間の方から、空気が流れてきた。
甘い匂いが、鼻先を撫でた。
あの女の、生きた血の通った、あの匂いだった。
もしこのまま俺が死ぬことになれば。
あの肉は、鬼のものだ。
……ふざけるな。
腹の底で、何かが燃えはじめた。
あれは、俺の獲物だ。俺が見つけた。俺が、この穴倉ごと奪うと決めた。あの肉を食うのは、俺だ。
湧き上がったのは、生きたいという願いですら、なかった。
ただ、食いたい、だった。
痛みが、消えていく。
骨が治ったわけではなかった。折れたままなのはわかった。ただ、身体が痛みを感知するのをやめただけだ。どこかで栓が抜けたように、熱だけが手足の先まで流れ込んでいく。
さっきまでまるで感覚のなかった後ろ足が、地面を力強く蹴った。自分の匂いが、内側から膨れ上がっていくのがわかる。
強さは、感情で膨れ上がる。
あのイノシシに教わり、この鬼に思い知らされた法則が、俺にも適用されただけだ。
だが、これは諸刃の剣だということも頭のどこかで理解していた。壊れた身体を、怒りの熱で無理やり動かしているだけだ。そう長くはもたない。
あと、数手。
それで、決めるしかない。
棍棒が、振り上げられた。
真上からの、終わらせるための一撃。
俺の身体は、最後の力で、その真下から消えていた。
鬼の目が、初めて俺を見失った。
そのとき、鼻が一つの匂いを捉えた。
洞窟の入口だ。風上に、あの知恵者の匂いがする。
彼は逃げていなかった。まだ、そこにいて何かを狙っている。
(なら、お前を使うぞ)
信用はしていない。だが、わかっている。決行の日にゴブリンどもを連れ出した時点で、こいつは俺が勝つ以外に生き残る道を持っていない。鬼が生き残れば、裏切りが露見して終わる。あのゴブリンは最初から、全部俺に賭けていたのだ。
ならば、こいつに勝ち筋を見せてやれば、必ず乗るはずだ。
俺は鬼の左へ回り込み、跳んだ。
狙いは左目だ。別に届かなくていい。
鬼が反応する。左腕が顔をかばい、首が捻れ、その顔が、洞窟の入口のほうを、向いた。
右目までの射線が、通った。
風を裂く音が、通路を走った。
鬼の右目に、矢が突き立っていた。
絶叫。鬼が顔を押さえてのけぞり、天井に頭をぶつけ、たたらを踏む。
自分の退路ごと燃やした知恵者は、俺の作った射線を決して外さなかった。
顔を押さえてのけぞる鬼。目に刺さった矢を抜くことにしか、意識が向いていない。
残った全部で、俺は跳んだ。
矢ごと、眼窩へ牙を突き込む。
鬼が暴れた。俺の身体ごと頭を振り回し、岩壁に叩きつける。想定内の反撃だ。構わない。離さない。
奥へ。もっと、奥へ。
顎を軋ませ、牙を頭蓋の中身へ押し込んでいく。
何かが、潰れた。
鬼の動きが、一拍、止まり——
巨大な山のような身体がが、崩れ落ちた。
地響きが収まった後の洞窟は、恐ろしいほど静かだった。
俺は鬼の頭の上から転がり落ち、そのまま床に倒れていた。
同時に、痛みが復活した。数えるのをやめていた骨が、一斉に悲鳴を上げ始める。
勝った、という実感はまだない。ただ、腹が減っていた。身体中の折れた骨が、肉が、餌をよこせと喚いている。
気付いたら、視界の端、通路の先に、ホブゴブリンが立っていた。弓を下げたまま、近づいても来ず、逃げもせず、じっとこちらを見ている。
値踏みの目だ。俺が生き延びるのか、このまま死ぬのか。
悪いが、死んでやるつもりはない。
俺は折れた身体を引きずって、鬼の腕に齧り付いた。
(……まずい)
知っていた。ゴブリンの上位種なら、味もゴブリンの上位互換に決まっている。泥と吐瀉物を煮詰めて岩で固めたような、この森で食ってきた中で最悪の味だった。
構うものか。
これは食事ではない。奪い取った力を、腹に収める儀式だ。
噛む。飲み込む。噛む。飲み込む。
食べている途中から、記憶がない。
目が覚めたとき、最初にわかったのは、洞窟の暗闇が昼のように見えることだった。
次に、身体の下の感触。鬼の食い散らかした残骸を抱え込むようにして、俺は眠っていたらしい。
どれだけ眠っていたのかは、わからない。丸一日か、それ以上か。
……我ながら、無防備にもほどがある。あのホブゴブリンにその気があれば、俺は眠ったまま死んでいた。
立ち上がって、驚いた。視線が高い。
身体が、また一回り……いや、二回りは大きくなっている。折れたはずの骨はどこも軋まず、後ろ足は大地を噛むように踏みしめている。
前足を見て、気付いた。指が、長くなっている。
試しに、床の石を掴んでみた。あっさりと掴めた。物を掴めるようになっている。
息を吐くと、喉の奥から白いものが漏れた。蒸気だ。あの鬼が漏らしていたのと、同じもの。
食った命の力を、この身体は取り込む。今までもそうだった。だが、今回は骨組みから作り替えられたような感覚だった。
俺はもう、何の獣なのか、自分でもわからない。
最初から異形だったのだ。今更、構いはしない。
……それよりも。
広間の方から、匂いがしていた。
甘く、濃く、温かい、あの匂い。
俺はゆっくりと、洞窟の最奥へ続く通路に、足を向けた。




