第十二話
広間は、静かだった。
鬼という主人のいなくなった最奥は、ただの岩の空洞のように見えた。天井の高い、暗く、湿った空洞だ。床には大鹿の残骸と、あの棍棒が転がっている。持ち主を失った棍棒は、どこか小さく見えた。
この穴倉は、もう俺のものだ。
そのはずなのに、俺の足は、勝ち取った城を検分するためには動いていなかった。
俺は、まっすぐにそこへ向かって歩いていた。
彼女は、窪みの奥にいた。
膝を抱え、岩壁に背を預けて、座っている。
あの日、杖を構えていた魔法使いの女だ。もっとも、今の姿からは、あの日の面影を探すのは難しい。ローブは裾から裂けて汚れ、髪は艶を失って頬に張り付いている。手足は細く、頬はこけ、剥き出しの足首には泥がこびりついていた。
目は、開いていた。
開いたまま、何も見ていなかった。
俺がすぐそこに立っても、視線は動かない。まぶただけ、時折、思い出したように動いている。
息はある。甘く、濃く、温かい、人間の匂い。
ただ、その匂いの奥に鬼の匂いが染みついていた。決して、洗っても落ちない深さで。
俺は、それについて考えるのをやめた。もう、やめるまでもなかったのかもしれない。腹の底にあるのは、憐憫ではなかったから。
腹は、減っていない。
鬼の肉を、あれだけ詰め込んだのだ。
つまり、今から俺のすることには、何の言い訳も立たない。
あの日……初めて人間を食った日、俺の中の人間はまだ、これを食べるのかと問いかけてきた。
耳を澄ませてみる。
……もう何も、聞こえない。
あの声は、もういない。いつ死んだのかも、わからない。
だから、俺は自分自身で問うた。
——お前は、これを、食べるのか。
そうだ。食べる。
俺が、そう決めた。
俺の意志で、今からこれを食う。
一歩、近づいた。
石の床を踏む音に、彼女の睫毛が、微かに揺れた。
視線が、ゆっくりと持ち上がる。焦点の合わないまま俺の足を這い上がり、胸を通り、顔まで来て、初めて止まった。
目が合った。
この一月、何も映してこなかっただろう瞳に、俺が映っていた。
全身が黒く、白い蒸気を吐く、血の匂いのする獣が。
彼女は、逃げなかった。
叫びもしなかった。後ずさりも、命乞いもしなかった。あの日、鬼の前で座り込んだときと、同じだった。いや……違う。
あのときの彼女は、諦めていた。
今の彼女は、諦めですらない、もっと別の領域にいるように感じた。
乾いた唇が、微かに動いた。
声にならない、掠れた音。短い言葉。
俺には、意味がわからなかった。
彼女はそれきり口を閉じ、そして、目を閉じた。
この暗い穴倉の中で、それはほとんど、祈りの仕草のように見えた。
俺は、一息で終わらせた。
苦痛は、なかったはずだ。
なぜそうしたのかは、自分でもわからない。餌の鮮度に、苦しみの長さは関係ないのに。
考えて、やめた。
(いただきます)
うまかった。
それ以外の言葉を、俺は知らない。前世の語彙をすべて並べても、これ以上の言葉は見つからないだろう。
うまかった。それだけだった。
あの日の記憶の中の味を、ずっと追いかけてきた。記憶は美化されるものだと、どこかで疑ってもいた。
美化などではなかった。記憶のほうが、掠れていたのだ。
俺はただ、うまい飯を食っていた。
半ばまで食い進めたとき、視界の奥で、何かが弾けた。
——石畳の街。パンの焼ける匂い。
——木の杖。掌にできた、最初の豆。
——「リゼ。大きくなったなあ」と笑う、白髭の老人。
——並んで歩く、大きな背中と、もう一本の杖。
——食卓。湯気。父の声と、母の手。毎日繰り返した、短い祈りの言葉。
流れ込んでくる……いや、違う。
降ってくるのは、断片だけだった。
彼女の二十年が、丸ごと記憶として流れてきたわけではない。人間の言葉は、相変わらず意味を持たない音の連なりのままだ。ただ、彼女の記憶の中で、あの剣士が歩きながらそれを指で撫でる姿だけが、焼き付いていた。
やはりあの男は、彼女の仲間だったのか。
降ってきたのは、彼女の中で何千回も繰り返されたものと、感情ごと焼き付いたもの。それだけだった。
ただ、その断片には、意味が貼り付いていた。
「リゼ」という音が彼女自身を指すことを、俺は知識としてではなく、そう呼ばれるたびの彼女の心の揺れごと、覚えてしまっていた。
祈りの言葉も、そうだ。学んだのではない。唱えるたびに彼女が感じていたものごと、流れ込んできた。
それから、魔力。彼女の身体に染みついていた、腹の奥で何かを回す感覚の残像。試しになぞってみると、俺の腹の奥でも、何かが微かに応えた気がした。
断片の中に、この一月のものは、一つもなかった。
彼女の心はもう、何も焼き付けていなかったのだろうか……。
いや。
初めて起きた現象について、俺に断定できることなど、何一つない。
リゼ。
彼女の名前は、リゼといった。
そして、最後に唇が紡いだ、あの掠れた言葉。
残っていたのは、感情の断片だけだった。
終わり、に似た何か。
安堵に、似た何か。
……俺が、そう読みたいだけかも、しれない。
救い、という言葉が浮かんで、消えた。
俺は、ただ彼女を食っただけだ。
骨の一片も、残さなかった。
あの日の男たちと、同じように。
食事を終えた俺は、頭の中で、覚えたばかりの言葉を繰り返した。彼女が子供の頃から、毎日食卓で唱えていた祈りだ。
(大地の恵みに、感謝を。今日もこうして、家族で食卓を囲めることに)
この世界の、「いただきます」だ。
ごく普通の、どこの家の食卓にもあるのだろう祈り。彼女は二十年、これを唱えて生きてきた。
その祈りを今、彼女を食った獣が唱えている。
俺は最後に、前世の言葉で、静かに食事を締めくくった。
(ごちそうさまでした)




