第十三話
翌朝、洞窟の外に出ると、五つの影が既に待っていた。
ホブゴブリンと、残党のゴブリン四匹だ。
俺が岩山の陰から姿を見せた瞬間、四匹のゴブリンは武器を放り出し、地面に額を擦り付けた。
俺は別に彼らを威嚇したわけではない。
彼らが反応したのは匂いだ。
今の俺の匂いには、あの鬼が混ざっている。喰らって、腹に収めて、血肉に変えた、あの鬼の匂いだ。ゴブリンどもの鼻には、俺は「鬼を超えたもの」として届いているのだろう。
鬼はゴブリンの上位種だ。その鬼を殺して喰った俺は、こいつらの本能の序列では一番上にいることになる。
平伏は、もしかしたら恐怖ですらないのかもしれない。こいつらにとってこれは、雨が降ったら濡れるのと同じ、ただの自然の摂理なのだ。
最後に、ホブゴブリンが進み出た。
こいつだけは、額を擦り付けなかった。
代わりに、腰の短剣を鞘ごと抜き、弓と一緒に俺の前足の先へ静かに置いた。それから片膝をつき、頭を垂れた。
武装解除。人間の作法だ、と思った。本能で従う四匹と違って、こいつの服従は計算の産物だと、姿勢のすべてが語っていた。俺の値踏みをして、その上で鬼ではなく俺に張った。そういう膝の折り方だった。
だから俺は、長くなった指で短剣をつまみ上げ、こいつの目の前に、そっと置き直した。
武器は、持っていろ。
丸腰の駒に、価値はない。
ホブゴブリンは顔を上げ、まじまじと俺を見た。それから短剣を拾い、深く、深く頭を下げた。
交渉のときとも、値踏みのときとも違う目だった。
こうして俺は、五匹の魔物の王になった。
前世では、部下の一人も持ったことがなかったのだが。
王になって最初にやったのは、大掃除だった。
何しろ、この洞窟は臭すぎる。
鬼の食い散らかした骨、腐った肉、ゴブリンどもの排泄物であふれている。今までは魔除けとして機能していた悪臭も、住むとなれば話は別だ。第一、この鼻にとっては毒でしかない。
地面に図を描いて指示を出す。指が長くなったので図を描くのも思いの外苦労しなかった。
骨と腐肉は森の南の窪地へ捨てる。寝床の敷き葉は定期的に入れ替える。用を足す場所は洞窟の外、風下に一箇所に固定する。
枝を持つ俺の指先を、ホブゴブリンが食い入るように見つめていた。
言葉はいらなかった。こいつは俺の図面を一瞥しただけで全部を理解し、四匹に短く吠えて、仕事を割り振っていく。優秀な現場監督だ。
ふと、おかしくなった。
異世界に転生して、獣になって、人を食って、怪物になって……それでいて今やっていることは、班分けと清掃計画だった。どうやらサラリーマンの魂は、どこまでも追いかけてくるらしい。
数日で、おおまかな群れの形はできあがった。
朝、俺が狩りに出る。大物を仕留めると、まず俺が食い、残りを群れに分け与える。ゴブリンどもは争わず、序列の順に食う。
餌を与える者に、群れは付いていく。
誰に教わったわけでもない。だが、これが群れというものの一番大事なところなのだと、俺の中の獣と、元・会社員の両方が言っていた。御恩と奉公というやつだろう。
ホブゴブリンには、狩りの余りとは別に、俺の獲物の良い部分を分けてやることにした。
その分、彼には働いてもらう。
森の見回り。他の群れの偵察。ホブゴブリンの報告によれば——地面に描かせた地図によれば——この森には、少なくともゴブリンの巣があと三つ。オークの群れが一つ。北の岩場には、何かもっと大きいものが一匹棲んでいるらしい。
いずれ、全部だ。
全部、支配することになるだろう。
この五匹が、その最初の駒だった。
ただ、一つだけ、気になり始めていることがある。
森にある食糧が減り始めている。
俺の食う量は、身体と一緒に増え続けている。群れの分の餌も要る。この数日、獲物の匂いを探す時間が、少しずつ延びていた。大物の匂いは減り、残った獣たちは警戒して、縄張りを移し始めている。
この森は広い。だが、無限ではない。
俺が強くなるほど、そして群れが大きくなるほど、この森は感覚的に狭くなっていくだろう。
いずれは足りなくなる。
それがいつかは、まだわからない。ただ、確実にその日は来ることになる。
夜、独りになると、自分の身体を調べた。
自分の強さも測り直した。基準にしてきた鬼は、もういない。だから、記憶の中のあの圧と比べてみる。
……超えている。
数字にする気は、もう起きなかった。あの数字には、イノシシ戦と鬼戦で二度も裏切られている。代わりに、もっと実用的な分け方をすることにした。届く匂いか、届かない匂いか。逃げるべき圧か、それとも準備すれば食える相手か。
この森に、俺の実力が届かない匂いは、もうない。北の岩場の「大きいもの」も、遠目の圧の限りでは、届く側だ。
それから、あの感覚を試した。
リゼの断片にあった、魔力の回し方。腹の奥の、微かに応えるもの。
毎晩なぞってみるが、まだ火花ひとつ出ない。あくまで彼女の記憶にある感覚であって、教本ではないのだ。感覚の残像だけを頼りに、暗闇で針の穴に糸を通すような作業だった。
それでも、俺に回路があることだけは、わかる。
時間の問題だ。俺には、時間ならいくらでもある。
それから、あの「断片」のことも考えた。
あの日の男たちを食ったときには、何も起きなかった。彼女のときだけ、彼女の記憶が降ってきた。
違いは、鬼だ。
あの肉は、俺をほとんど骨組みから作り替えた。指は伸びて、喉からは蒸気を吐くようになった。断片が降るのも、あの作り替えで開いた力の一つなのだろう。
……そこまで考えて、それ以上考えるのをやめた。確かめようのないことを考えてもしょうがない。
満たされているはずだった。
寝床は森で一番安全な洞窟で、餌は狩り放題で、群れは従順で、この森に敵はもういない。
初日に決意した、生き延びるという課題はもう完全に終わっていた。
それなのに。夜になると、あの味を思い出す。
鹿を食っても、まるで消えることはない。イノシシ級の獲物を仕留めた日ですら、飲み込んだ後に残るのは、満腹と、底のほうに感じる小さな飢えだった。
目を閉じると断片が浮かんでくる。
石畳の街。パンの焼ける匂い。市場らしき、遠いざわめき。
それがどこにあるのかを、俺は知らない。彼女の断片は、地図まではくれなかった。
だが、思い出せ。
人間どもは皆、南から来た。そして、南へ帰っていった。あの日の男女も、リゼたちも。古い匂いの記憶が、全部同じ方向を指している。
森を南へ抜ければ、人間の世界がある。
岩山の上に登り、月の下で、南の方角を眺めた。
吐く息が、白い蒸気になって流れていく。
群れを持った。城を持った。森を制した。王などと呼べる身分になった。
だが、俺は王座が欲しかったわけじゃない。
力も、群れも、この森も、全部ただの道具でしかない。
つまるところ、欲しいものは、最初から一つしかない。
(腹が、減ったな)
あの夜、母に捨てられた俺は、生きるために考え始めた。
考えて、考えて、ここまで来た。
だからこれからも、やることは変わらない。
考えるのだ。
人間を、食うために。




