第十四話
出発の日の朝は、よく晴れていた。
準備といっても、獣の旅に荷物などない。やることは、留守を任せる段取りだけだった。
洞窟の前にホブゴブリンを呼び、地面に図を描く。この数週間で、俺たちの「筆談」はだいぶ滑らかになっていた。
まずは森の全体図を描く。次に俺たちの洞窟。ホブの偵察で割れている、三つのゴブリンの巣と、オークの群れの縄張り。
それらを順に指し、最後に全部をまとめて大きな丸で囲い、洞窟を指した。
俺の留守中に、全部まとめろ。
そのために必要な物も用意してある。うまく活用すれば、犠牲なく統一できるだろう。
ホブゴブリンは図をしばらく見つめ、それから俺を見た。お前はどうする、という顔のように感じた。
俺は、南の方を指した。
それだけで通じた。こいつは俺が夜ごと南へ鼻を向けて匂いを嗅いでいたことを、とっくに知っている。
ホブゴブリンは頷き、それから、見たことのない仕草をした。
自分の胸を叩き、両の掌を地面へ向けて、ゆっくりと広げたのだ。
忠誠の誓いか。あるいは約束か。もしくは、ゴブリンの別れの挨拶か。
わからなかったが、マイナスの意味合いではないと感じた。
四匹のゴブリンどもは、洞窟の入口に並んで俺を見送った。
この数週間で、四匹の顔は覚えた。正確には、匂いと癖を、だが。
俺と目が合うだけで腹を見せる、いちばん小さいゴブリン。
人間から奪った短剣を、暇さえあれば磨いている、手先が器用なゴブリン。
餌を岩の裏に隠して、俺に気付かれていないと思っているゴブリン。
俺の指示でも、必ず一度ホブの顔を見てから動くゴブリン。
駒としては上等だ。別に俺は家族ごっこをする気は毛頭ない。俺が癖を覚えたのは、こいつらを有効に使うためだ。
……そう言いながら四匹全部の癖を覚えている時点で、何かに負けている気もするが。
南への道は、夜を選んで進むことにした。
俺の身体は、もう浅い下草では隠しきれない。前世基準でもかなり巨大な獣になってしまった。深い茂みと闇を選んで動くしかない。黒い毛皮は夜には保護色となるが、昼の野原では目立つだけだろう。今まで昼に活動していることが多かったが、肉体的には本来は夜行性なのかもしれない。
森を出るのは、生まれて初めてのことだった。
木々が減り、地面が乾き、匂いの層が変わっていく。土も、草も、そこに残る獣の古い匂いも、何一つ知らないものばかりになっていく。この身体になってから、知らない匂いに囲まれるのは初めてだった。普段嗅ぎ慣れてる匂いがないだけで、なんだか少し落ち着かない気分だ。
三日目の夜、腹が減って鹿を狩った。
大物だった。以前の俺なら、翌朝には身体のどこかが育っていただろう。
何も起きなかった。
腹は膨れた。それだけだった。
やはりそうか。ウサギも鹿も、もう俺を育てる食事ではないのだ。あるいは、これしきでは量が足りないのか。
この身体を育てられる餌は限られている。
その筆頭の匂いがする方へ、俺は歩き続けた。
五日目の夜明け前、それは唐突に現れた。
丘を一つ越えたその先にあった。
森を出てから初めて見る、まっすぐな線。
地面が帯状に踏み固められ、草が生えず、二本の轍が地平まで伸びている。
これは街道だ。
風下の茂みに伏せて、鼻に神経を集中させる。
……すごいな、これは。
何十、何百という人間の匂いが、幾重にも重なって、一本の川になって流れてきていた。新しい匂いの上に古い匂いが積もり、男も女も、老いた者も若い者もいる。鉄や革や木、それから獣の匂いも、一緒に流れていた。
人間たちは、毎日ここを通っているのだ。
いずれここは、俺の餌場となる。
その日の昼、初めての人間たちが街道を通った。
荷馬車が三台。それを引く、大きな四足の獣が四頭。周りを歩く人間が、八人。
伏せたまま、動かずに観察する。
四足の獣は、馬だろう。前世の記憶よりも一回り大きいが、あの立ち姿は馬だ。人間の言うことを聞き、黙々と荷を引いている。
(人間も、獣を従えているのか)
俺とゴブリンどもと、同じ構図だ。そう思うと、なんだか妙な親近感が湧いてきた。
八人のうち、六人は槍か弩を持っている。護衛だろう。歩き方に隙がない。そして残りの二人は、荷台の傍から離れない。
一人ずつなら問題なく狩れるだろう。
だが、六人同時は未知数だ。開けた地形に、逃げ場のない昼という条件。そして弩という武器を、俺はまだ一度も見たことも受けたことがない。
今日のところは観察にとどめて、護衛の数と馬の速さ、休憩の場所と風の向きを覚えていく。
イノシシも、鬼も、そうやって俺は勝ってきた。相手が人間でも、基本は変わらない。
風向きが変わった。
荷馬車の匂いが、まとめて鼻に流れ込んでくる。
鉄と革、馬の汗、人間の皮脂の匂い。それから、焼いたパンの匂い。
瞬間、頭の奥で断片が瞬いた。
石畳の街。パンの焼ける匂い。竈の前の、誰かの母親の手。
口の中に、唾液が溢れた。
……これは、俺の食欲か。
それとも、彼女の郷愁か。
わからないまま、俺は溢れたものを飲み込んだ。
荷馬車の列は、何も知らずに、ゆっくりと南へ遠ざかっていった。




