第二話
寝床はなんとか確保した。
森の奥に、ひっそりと立つ古木があった。その幹に、ぽっかりと口を開けた穴がある。
かつては別の獣が巣にしていたのだろう。内側には爪痕と古びた骨のかけらが残り、ほのかに獣臭が漂っていた。
匂いの限りでは、今も何かが住みついている様子はない。
湿った木肌に背を預けると、心細さと同じくらいの安堵が胸に広がった。子供の俺が丸まれば、ちょうど収まる程度の狭い穴だが、雨風はしのげそうだ。
しばらくはこの借り物の穴を寝床とすることにした。
次に必要なのは食料だ。
今の俺はあまりにも弱い。まだミルクも飲んでいたような子供だ。小さい虫なんかは狩れるかもしれないが、母親が狩っていたような獲物を、自分で仕留められるとは思わないほうがいいだろう。
考えた結果は、腐肉食。すなわち、他の動物の食べ残しを漁ることだった。弱者の戦略だが、今の俺は正しく弱者だ。
前世の常識からすれば感染症の危険もあるが、まず今の身体がどこまで耐性があるのかはわからない。安全に気を使えるような状況ではないことぐらいはわかった。腹を壊しても死なないなら御の字だ。我ながらいい考えのように思った。
俺はおそらく母親とは違い、狼ではない。しかし、この身体は異様に鼻が利く。動物たちが食べ残した肉を探し出し、食べることで食料を確保する。それぐらいならできるかもしれない。これが俺の出した結論だった。
森の中を一匹、ゆっくりと移動する。
子供だけあって新陳代謝は高いと思われる。飢え死にするまでのタイムリミットはあまりないように思われた。最悪、木の実などの植物を食べればいいと、俺の中にある人間の部分は思うが……今の身体は、明らかに肉食の獣だ。植物を食べてエネルギーに変換できるかもわからない。肉を食べる方を優先すべきだと思う。
(血の匂い……!)
どこか遠くから血に混じる肉の匂いがした。わずかなものだったが、間違いない。音を立てないように意識をしながら、ゆっくりと匂いのする方向へと向かう。
興奮が抑えきれなかった。
(見つけた)
十分ほど慎重に歩いた頃だろうか。ようやく現場に辿り着いた。ゆっくりと匂いの源を覗き込む。
(あれは、人間か?)
剣を構えた青年が一人、杖を構えた少女が一人、何か巨大な人型動物と争っている。
周りには、緑色の人型動物の死体が散乱している。彼らが倒したものだろう。おそらく、肉の匂いのもとはあれだ。
俺の知識にあのような動物は存在しない。どうしたものかと考え始めた次の瞬間、俺は信じられないものを見ることになる。
「──ッ!!」
杖を構えた少女が何かを叫んだ瞬間、杖の先から炎が噴き出した。少女の叫んだ言葉は風に流れて聞こえなかったが、杖の先に集まる炎が空気を揺らしたのははっきりと見て取れた。
炎は巨大な人型動物に直撃し、苦しんでいる。
熱がここまで届いたわけではない。それでも俺の身体は、反射的に地面へ伏せていた。
怖かった。
あれに近づけば、俺など一瞬で焼かれる。
やがて、剣士が叫び声をあげながら異様な速度で突撃していく。
瞬きをする間に剣士は距離を詰めていた。
次の瞬間には、巨大な人型動物の首が、跳ね飛ばされていた。
(今のはなんだ……? 何か仕込んでいたのか? それとも……魔法か?)
間違いなく、はっきりと炎が人型動物に向けて飛んでいくのを見た。炎はあっという間に大きな身体を包んでいた。その後の苦しそうな叫び声といい、幻覚の類とは思えない。
剣士のほうも尋常じゃなく速かった。人間があの速度で移動できるとは思えない。
少女のほうは、見たままを受け入れると、炎を射出する魔法、なのだろうか。
そう考えると、推測できることがある。
あの二人の周りに倒れている緑色の人型動物。あれはゴブリンではないのだろうか。そして今二人に倒された、巨大な人型動物。よく見ると豚の特徴を備えている。つまり、あれはオーク。ここが魔法のあるファンタジー世界だというのなら、そのような推測ができる。
(はは、マジかよ)
二人は他に敵がいないと判断したのだろう。そのまま、ゆっくりと立ち去っていく。
俺はしばらく動かなかった。
足音が遠ざかり、声が聞こえなくなり、彼らの匂いが薄くなってから、ようやく茂みの陰から出た。
腹が空いていた。ゆっくりとゴブリンの死体に近づく。ゴブリンからは右耳が切り取られていた。あの二人が切り取ったのだろう。
(いただきます)
もう腹がペコペコだった。まずは柔らかそうな腹に歯を立てる。
(う……まずい)
ゴブリンと思われる肉はひどい味だった。
噛みしめるたび、ぬかるみに口を押しつけられたような、泥のような味が舌に広がる。肉の繊維は獣のそれに近いのに、血の鉄臭さが腐葉土と混ざったような、腐りかけた匂いを生んでいた。
脂身はあるのに期待していたような甘みは全くなく、ぬめりを含んだ泥水を煮詰めたように舌にまとわりつく。
思わず吐き気を催す。それでも、食べるしかなかった。腹を壊すかもしれない、という不安はあった。しかし飢え死によりはマシだ。
食べられない肉を増やすことは生存確率の低下に直結する。毒でもない限り、食べなければならないと思っていた。
味に意識を向けず、ひたすら食べることだけに意識を集中する。無の心で食らっていく。
気が付いたら、内臓を除いた腹、腕、足の部分のほとんどを食べつくしていた。かなり腹は満たされてきている。いつの間にか吐き気も収まっていた。
(オークと思われる肉は……)
頑張って食べようかとも思ったが、満腹で動けなくなるほうがまずいだろう。考えた末に、土へ埋めることとした。匂いで掘り返される可能性は高い。それでも、何もしないよりは圧倒的に良い。寝床まで持ち運ぶことも考えたが、かなり距離がある。おまけにこの巨体だ。森の愉快な仲間たちに『ここに餌があるぞ』と知らせるようなものだろう。
ゴブリンも同じ場所に埋める。翌朝、もしこの肉がなくなっていたら、ゴブリンやオークを食す動物がいるということだ。
土が柔らかかったことも幸いした。軽く穴を掘り、そこにオークとゴブリンを埋める。思いのほか楽な作業だった。この身体は穴掘りが得意らしい。
翌日も残っていることを祈りつつ、寝床へと戻っていった。腹が満たされただけで、この世界の残酷さが少し和らいだ気がした。
だが、わかったこともある。
人間は、恐ろしい。
炎を飛ばし、化け物の首を斬り落とす。
俺が近づけば、きっと同じように殺される。
それでも、あの緑色の肉を食えば、生き延びられる。
まずくても、食える。
ならば、今はそれでいい。
俺は古木の穴に身体を丸め、鼻先を腹に埋めた。
明日も、生きる。




