第一話
一章ごとに投稿していきます。よろしくお願いします。
気が付いたら、狼になっていた。どこか深い森の中の、洞窟の中だろうか。母親と思われる狼と一緒に眠っていた。
いつから自我があったのかも定かではない。思い出せるのは、狼の子として、何匹かの兄弟と一緒に育てられていたことぐらいだった。
前世の記憶が、ぼんやりとある。俺は人間だった。掃いて捨てるほどいるような、東京のしがないサラリーマンだったと思う。
なぜ、俺は狼になっているのだろう。記憶を辿ってみたが、前世の死の記憶はない。自分の名前すら思い出せなかった。
しかし、わからないものをいくら考えても、答えが出るわけではない。俺は無心で、母親の銀色に光る柔らかい毛並みに覆われながら、ミルクを飲み、ほとんどの時間を眠って過ごしていた。
なかなかどうして、狼の暮らしも悪くないのではないか。いずれ独り立ちし、地を駆けて、狩りをして、美味い肉を食らって……。
思えば、俺は狼に生まれ変わったという現実を、どこかで受け止められていなかったのだと思う。
狼として生きていく当事者意識というか、実感というものがほとんどなかった。人間ではない、別の存在として生きているという感覚が、まるでなかった。
ただ、ぼんやりと生きていた。そしてある日、狼の子としての平穏な日々は、唐突に終わりを迎えた。
母親に捨てられた。
何の前触れもなかった。寝ている間に母親に咥えられ、森のどこかに置き去りにされた。
ただ、それだけだった。
何故、俺は捨てられたのだろう。
考えてもわからない。俺に対して、何か違和感を覚えたのかもしれない。母親の獣の勘が、自分の子供がおかしいことを、あるいは中身が狼でないことを見抜いたのかもしれない。
そんなことを考えながら、俺はカラカラに乾いた喉を癒すため、近くにあった川へ向かった。
水面に顔を近づける。
(あぁ……そういうことか)
その瞬間、全てを理解した。
母親や兄弟のような銀の毛並みも、美しく整った輪郭もない。
黒に塗り潰された異形の顔が、こちらを睨み返していた。
目だけが爛々と光っていた。鼻先は潰れ、牙は狼のそれよりも長く、歪んでいた。揺れる水面が震えるたび、俺の顔も震えた。濁った黒色が波打ち、その醜さだけをはっきりと伝えてくるようだった。
似ていないどころではない。まったくの別物だった。
狼の子などではない。狼に紛れた、呪われた獣。自分で言うのも悲しいが、なんて醜いのだろう、と思った。
これは、バケモノだ。
母親に捨てられた理由を、もう考える必要はなかった。
捨てられたのは何かの間違いで、いつか迎えに戻ってくるかもしれない。心のどこかに残っていたその希望も、この瞬間に全て消えた。
もう、家族のもとには帰れない。それだけは、はっきりとわかった。
記憶に残る母の身体は暖かかった。今はただ、冷たい風が体温を奪っていく。
今まで寒くなかったのは、母親の温もりがあったからだと、そのとき初めて気付いた。
これからは、独りで生きねばならない。
絶望的だった。
自分が何の獣なのかもわからない。狼に少し似ているが、見た目だけだ。毛並みも顔つきも、歯の付き方すら、よく見れば違う。
生まれつき備わった本能と、人間として生きた前世の知識で、この自然の中を生き抜かなければならなかった。
まあいい。
こうなれば、死ぬまでやるほかない。どうせ拾った命なのだ。
無理矢理にでも思考を切り替えないと、そう遠くないうちに不安で押し潰され、野垂れ死にしてしまうことがわかった。
生きるために必要なことを考えなければならない。
生きるためには、何が必要か。
まずは寝床と、食料を確保せねばならない。
俺が生まれてどれぐらい経ったのかはわからないが、体格的にまだ子供だろう。体長はせいぜい五十センチほど。足取りもまだ頼りない。
孤独で、無力な存在だ。
これ以上ないほどの命の危機を迎えているにも関わらず、思考だけは妙に澄んでいた。獣の本能より、人間の理屈が勝っている感覚だ。
この期に及んでもなお、まだ危機感というものが真に芽生えていないのかもしれない。
母親はよく、ミルクのほかに小動物の肉を子供たちに与えてくれていた。
狼でないにしろ、俺の身体には合っていたように思う。
しかし、俺はまだ狩りができるような体格でも年齢でもない。
考えるのだ。
生きるために。




