第96話 膝上
休める場所は、食堂から階段を一つ下りたところにあった。
壁に沿って長い腰掛けが並び、中央にも背中合わせの列が二つある。足元には荷を置ける隙間があり、頭の上には外套を掛けるための木の鉤がついていた。通路にいた客の何人かは、こちらへ移ってきていたらしい。毛布を膝へ広げる者もいれば、靴の紐を緩め、足を揉んでいる者もいる。
九人は階段に近い一角へ荷を寄せた。ガルムは部屋へ入る人の顔を確かめられる端へ座り、セルマがその隣に腰を下ろす。ラウルは船員に上の階の客室について尋ねていたが、扉の開いている区画はすでに見てきたものと同じだと分かった。
「しばらく、ここで待とう」
戻ってきたラウルが言った。
「食堂から戻ってくる客も、まだいる。動くたびにこっちも歩いていたら、擦れ違うかもしれん」
「階段はここだけか?」
ガルムが尋ねる。
「奥にもある。だが、そこから上がると、さっき見た通路へ出るそうだ」
ガルムは頷き、階段へ視線を戻した。
ドランは九人の向かいに空いていた場所を見つけ、腰を下ろした。膝へ布包みを置き、捲っていた袖を戻す。ノンノも袋を足元へ収めてから、彼の斜め前に座った。
「ここなら、お話を聞いてもいいですか?」
「眠くなければな」
「まだ平気です」
答えてから、ノンノはリュシアを見る。
「声は小さくします。もう寝ている人もいるので」
「はい。ドランさんも、疲れたら遠慮なく休んでくださいね」
「俺は、座っていれば大丈夫だよ」
男は背を壁へ預け、足を少し前へ出した。エルディアスもリュシアの隣へ座る。ここでは床の振動が、腰掛けを通して背中へ伝わってきた。
窓は高い位置にあった。座ったままではガラスの向こうは見えず、室内の灯りが映っているだけだ。誰かが外套を鉤から外すと、布の擦れる音がした。
「娘さんのお名前、まだ聞いてませんでした」
ノンノが言った。
「ミラだ」
「ミラさん。婚礼の日には、どんなお話をしたんですか?」
「俺の膝で食ったパンのことだよ。あんなに大きな菓子パンを焼いたのに、子どもの頃の話をし始めた」
ドランは笑った。食堂で焼き方を話していた時より、少し声が低くなっていた。
「俺は初め、あの子が昔のパンの方を好きだと言ってるのかと思った。蜂蜜が多すぎたか、花のところが硬かったか、そんなことを考えていたんだ」
「違ったんですか?」
「違った。その話をするまでに、俺が何度も聞いたからな」
「何度も?」
「甘すぎないか、乳の匂いが残ってないか、下まで焼けてるか。娘は一口食うたび、こっちを見る羽目になった」
ノンノが口元へ手を当てた。セルマも耳を傾けていたらしく、小さく笑う。
「お祝いの日なのに、試し焼きの続きになってしまったのね」
「まったくだ。娘に言われたよ。今日はお客さんの顔を見て、父さんのパンを食べた人が笑ってるでしょう、ってな」
ドランは布包みの端を指で折った。中のパンには触れず、布だけを整える。
「そう言われて見たら、本当に皆、食ってた。俺の隣で、向こうの親父さんがもう二切れ目を皿へ載せていてな。うまいと言われたのに、俺は中の焼け方を見ていた」
「職人さんですね」
リュシアが言うと、男は首を横に振った。
「あの席では、娘の父親でいればよかったんだがな」
そこで一度、言葉が途切れた。階段を下りてくる靴音にガルムが顔を上げ、セルマもそちらを見る。食堂で見かけた家族が戻ってきたところだった。小さな子が母親の手を握り、父親は眠ったもう一人を抱いている。
ドランは親子が通るまで声を落とし、それから話を続けた。
「ミラが小さい頃も、店では似たようなことをしていた。まだ焼けてない、そこは熱い、粉の袋に乗るな。あの子に言うことといえば、そんなことばかりだった」
「お店に、お母さんもいたんですか?」
「ああ。客の相手は女房がして、俺は奥で焼いていた。昼に家へ戻る時は、あの子も連れていったよ。家は店の裏から、細い道を二つ曲がったところだ」
「近かったんですね」
「近い。だから余計に、どうして閉める頃になると、わざわざ店へ来るのか分からなかった」
ドランの目が、膝の上の包みへ落ちた。
「女房から、今日は家で待たせると言われたこともある。俺が帰るのが遅くなるから、先に食べて寝かせる、と。ところが店を閉めようとすると、裏口に小さな靴が揃ってるんだ」
「一人で来たんですか?」
「いや。女房が連れてきた。家でぐずるより、店で座っている方がいいと思ったそうだ」
男は少し眉を下げた。
「俺は、そこで一つ渡せば帰ると思っていた。腹が減って来たんだろうとな」
◇
その晩の店には、売れ残ったパンが二つあった。
ドランはそう言って、指を二本立てた。一つは丸いパン、もう一つは細長いパンだった。丸い方は近くの家から取り置きを頼まれていたが、受け取りに来た息子が、母親も別の店で買っていたと頭を下げたという。
「金だけ払うと言うから、いらんと返した。毎日来る客だ。翌日また買ってくれれば済む」
「二つとも、持って帰ったんですか?」
「そのつもりだった。丸い方を袋へ入れて、細長い方は割ってあの子へ渡した。家で食べなさいと、女房にも持たせた」
ミラはパンを受け取ったが、帰らなかった。
店先の台の下に置いてあった低い踏み台を、帳面をつける椅子の横へ運んできた。座るのかと思うと、その上へパンを置き、ドランの顔を見る。
「何だ、と聞いたら、座らないの、と返された。こっちは掃除の途中だ。まだ仕事があると言ったよ」
「ミラさんは?」
「待つ、と言った」
ドランは鼻の脇を指で掻いた。
「それで、奥へ行って窯の口を閉めた。火の始末は先に済ませてあったが、余熱が残っているから、あの子を近づけたくなかった。練り台を拭いて、粉の袋へ布を掛けて、表の戸を閉める。後ろから、まだ、と聞かれるたびに、まだだと答えた」
聞いているノンノの目が、少しずつ細くなった。笑ってはいるが、急かすようには口を挟まない。
店の戸には、内側から通す横木があった。ドランがそれを持ち上げると、ミラも片方を持ちたがった。重いから離れなさいと言っても、先端を指で掴んでついてくる。結局、一緒に戸を閉めた。
外の声は、その板一枚で小さくなった。
窯の奥で何かがはぜる音と、裏口から入る風に布が動く音が残った。ドランが帳面を取りに戻ると、ミラはもう踏み台の前に立っていた。置いてあるパンには、小さくかじった跡が一つついている。
「待つ間に、一口食ってた。お腹が空いてるじゃないかと言ったら、端が取れただけだと言い張った」
「かじったんですよね?」
「歯の跡があった」
ノンノが堪えきれずに笑い、すぐに周りを見た。近くで眠っている客は起きなかった。
ドランも口の端を上げた。
「それで、俺が椅子へ座ると、すぐ膝へ登ってきた。先にパンを持ってくれと言われたよ。両手が空いていないと登れなかったからな」
彼は包みを僅かに持ち上げ、自分の膝を見る。
ミラが座ると、片側の膝だけでは足りなかった。ドランは脚を揃え、身体が落ちないよう左腕を回した。踏み台から取り上げていたパンを返し、右手で帳面を開く。
丸いパンが何個、細長いパンが何個。粉代、薪代、翌日の取り置き。朝から積み重なった数字を、帳面へ移していく。
「パン屑が頁の間へ入るんだ。顔を下げて食うから、ちょうど帳面の上に落ちる。こっちへ向いて食べなさいと言って、俺の方へ向けた」
「書きにくくなりませんか?」
「なったよ。顔が近くなって、今度は右手を見てくる。何を書いてるのと、一つずつ聞かれた」
粉を買った代金だと答えると、ミラは膝の上でパンを持ち直した。その粉がこれになったのかと尋ね、そうだと言うと、手元の切れ目へ鼻を寄せた。
翌日の分を取っておくために、まだ粉を買わなくてはいけない。その説明をしているうち、パンを食べる手が止まった。
「どうした、と聞いたら、これを食べたらなくなる、と言う」
「それは、なくなりますね」
「ああ。食べていいんだよと言った。腹が減ってるなら、なくなるまで食っていい。明日になれば、また焼くんだからな」
ミラは考えた末、もう一口食べた。
その間にも、ドランは帳面へ数字を書いた。膝の上から右手を覗き込まれ、左側では肘へ寄りかかられる。一行書くのに、普段の倍は掛かっていた。
「女房が、家へ持っていく袋を詰め終わってな。先に戻って湯を沸かすと言った。いつもなら、そこで二人とも帰るんだが」
「その日は、帰らなかったんですね」
「帰るかと聞いたら、まだ食べてる、と言った」
ドランは、娘の小さな声を真似るでもなく、そのまま言葉を置いた。
女房は戸口で少し待ち、火を確かめてから帰るよう夫へ念を押した。それから娘へ、眠ったら父さんが困るから、ちゃんと歩いて帰っておいでと言った。
裏口が閉まると、店の中には二人だけが残った。
「いつもは窯と客の声でうるさい店なんだが、あの時は、パンをかじる音が聞こえた」
ドランは自分の右手を見た。
「俺も一口もらった。腹が減ってたからな。あの子が食ってるのを見ていたら、急に空いてきた」
「同じパンを?」
「ああ。大きい方をちぎろうとしたら、こっち、と小さい方を渡された。子どもだから、大きい方を自分で食いたかったんだと思った」
食べると、少し冷めていた。
皮はまだ歯応えがあり、中は柔らかかった。店を閉めるまでに何度も嗅いだ麦の匂いが、口の中で初めてはっきりした。朝にも昼にも食べる暇がなく、味を確かめたのは、それが最初だったという。
「その日、よく焼けていたんですか?」
ノンノの問いに、ドランは首を傾げた。
「覚えてない。いつものパンだったと思う」
少し考えて、付け足す。
「端をもらったから、皮ばかりだった。それは覚えてる。小さい歯の跡が残っていたのもな」
ミラは父親が食べ終わるまで、自分の方へ口をつけなかった。ドランが飲み込むと、自分も一口かじる。二人の間でパンが少しずつ小さくなった。
帳面は、途中から開いたままになっていた。
「書かなかったんですか?」
「右手でパンを持ってたからな」
「パンを置けば、書けますけど」
「ああ。置けば書けた」
ドランは短く笑った。
「でも、ミラがこっちを見てた。食べ終わるまで、置かずにいたんだろうな」
◇
そこで、話が一度止まった。
ガルムが立ち上がり、階段の下まで行って戻ってきた。さっきより人の出入りは減っていたが、探している二人の姿はない。ラウルと何か小さく言葉を交わし、また端の席へ座る。
ドランはその二人へ目を向けた。
「見かけないか」
「ああ。もう少し、客が起きてるうちに上も見る」
ラウルが答える。
「俺たちが席を外している時に会ったら、ここへ戻ると伝えてくれ」
「分かった」
ドランは頷いた。ノンノも階段の方を見たが、ガルムが座り直すと、男へ視線を戻した。
「その後、お二人で帰ったんですよね」
「帰った。娘が半分寝ていたから、途中から抱いてな。帳面は終わらなかった。翌朝、早めに来て続きを書いた」
「ミラさん、お母さんに言われたのに眠っちゃったんですか」
「店を出る時には起きてた。道を二つ曲がるうちに、寝たんだよ」
ノンノはその短さを思い浮かべたらしく、目を丸くした。
「そんなに眠かったんですね」
「ああ。家へ着いて下ろそうとしたら、服を掴まれた。寝床へ載せてからも、しばらく指を外せなかった」
ドランの手が、自分の胸元へ上がった。服の布を摘まみ、すぐに離す。
「翌朝には、俺はまた先に店へ出てた。あの子が起きる前だ。朝のパンを焼かなきゃならんからな」
ノンノは何か言いかけて口を閉じた。
男はそれに気づいたようだったが、先を急がなかった。近くの客が水袋へ口をつける音がする。高い窓には相変わらず室内の灯りだけが映っていた。
「そんな晩が、何度かあった」
ドランは続けた。
「毎日じゃない。忙しくて座れない日もあったし、俺が怒った日もある。裏口を出たところで泣かれたこともな。俺は家で食えば同じだと思っていたから、先に帰れと言った」
「お仕事が残っていたんですものね」
リュシアが言った。
「ああ。座れば、その分遅れる。女房も待ってる。朝には次の仕事が始まる。俺は、その晩のことを特別には覚えてなかった」
ドランは腕を組みかけ、包みが膝にあるため、両手をその脇へ戻した。
「だが、ミラは覚えてた」
◇
婚礼の日、娘は父親の隣へ座った。
ドランの皿には、花のついた菓子パンが載っていた。娘が切ってくれたものだったが、彼はしばらく花を崩せなかった。薄い生地を重ねた花弁が、思っていた以上にきれいに開いていたからだ。
早く食べないと、父さんまで食べていいか分からなくなるでしょう。
そう言われ、ようやく一口食べた。娘の連れ合いが向かいで笑い、ドランの女房は、味見が済んだら続きを切ってくれると助かると言った。
客の皿へ配る分を切り終えて戻ると、娘はまだそこにいた。
「俺は、向こうの親類の席にも行けと言った。あちらにも顔を見せなきゃいかんだろう、と」
「ミラさんは?」
「もう行った、と言った。だから今は、こっちで食べるんだと」
そこでドランは、いつかの店のことを思い出したという。家で食べればいいと言っても、ここがいいと譲らなかった子が、隣に座っている。
大人になった娘は、婚礼の衣装を汚さないよう、膝へ布を広げていた。小さかった頃は、そんなことを気にせず父親の服へ屑を落としていた。
ドランがそれを口にすると、娘は笑った。
「俺は、掃除をした後にまた散らかされたと言った。ミラは、自分で掃いたでしょうと返した。まともに掃けていなかったと答えたら、それは言わないでほしかったそうだ」
「覚えていたんですね。箒のことも」
「俺が持つと、あんなに軽そうなのに、自分が持つと動かない。それが不思議だったそうだ」
ノンノは自分の手を広げた。柄を掴むように指を曲げ、すぐに膝へ戻す。
娘は、窯の前へ近づくと父親の声が大きくなることも覚えていた。パンを焼く板を持っている時は話し掛けても返事がない。粉を量る時には、もう一度最初から数えるから待っていてくれと言われる。
けれど店の戸を閉め、椅子へ座ると、手を伸ばせば抱き上げてもらえた。
「それで、店で食べたかったと言ったんだよ」
ドランは自分の左腕へ触れた。
「家でなら、卓の向こうに座ってた。店だと、ここへ座れる。帳面を書いている俺が腕を伸ばすと、背中にその腕が当たる。落ちないようにしてくれているのが分かった、と」
ノンノは男の腕を見ていた。
食堂で、膝へ子どもを載せるように曲がった腕だった。今は袖が戻り、手の甲だけが見えている。
「大きいパンなら、食べ終わるまで時間が掛かる。だから、帰る時に母さんへ渡される切ったパンじゃなくて、店に残っているのを食べたかったそうだ」
「お腹が空いていたからだけじゃ、なかったんですね」
「ああ。俺は、よく食う子だと思ってた。眠くても食いたいんだとな」
ドランは少し俯いた。
「俺に一口くれたのも、端が欲しくなかったからじゃない。俺が食べると、帳面を置く。その間、こっちの顔を見てくれたからだそうだ」
男はそれを話す時、声を真似なかった。
ノンノも、すぐには問いを重ねなかった。膝へ置いた手を握り、男の次の言葉を待つ。
「ミラが言ったんだ。覚えてるかって。店を閉めた後、二人で、半分ずつ食べたことを」
ドランは頷いた。
「覚えてると答えた。思い出したばかりだったが、ちゃんと覚えてたよ。あの晩、帳面が終わらなかったことも、帰りに重くなったこともな」
「ミラさんは、何て?」
「一人で全部食べたら、その分長く座れたけど、半分ずつの時の方が好きだったと言った」
女房が、そこで隣から口を挟んだという。
家に持って帰った同じパンを出しても、ミラは、もう店で食べたからいらないと言っていた。だから、翌朝に回すことも多かった。
お前たちが帰るのを待ちながら、私だけ一人で食べた晩もあったんだからね。
そう言われて、ドランは初めて、あの晩の家の台所を思った。自分が遅れて帰ることは何度もあったが、娘まで残れば、女房は一人になる。
「悪かった、と言ったよ。祝いの席で、何年も前のことを謝る羽目になった」
「奥さん、怒っていたんですか?」
「いや。明日の朝の分まで二人で食べないでくれればよかった、と笑われた」
セルマが肩を揺らした。ノンノも、ようやく息を吐くように笑う。
「それから女房にも、菓子パンを切って渡した。先に客へ配ってしまったから、俺の皿から半分な」
「今度は、奥さんと半分ずつですね」
「そうだな」
ドランは頷き、指を膝の上へ揃えた。
「ミラは、あんなに大きなのを焼かなくてもよかったと言った。俺は、小さいのでは皆へ配れないと答えたよ」
「それも、そうですよね」
「ああ。だから、大きく焼いてくれてよかったと、言い直してくれた。ただ、父さんからパンを半分もらうのも、同じくらい嬉しかったんだと」
船のどこかで扉が閉まった。すぐ近くではない。壁を伝った小さな音の後に、また機関の振動だけが続いた。
ドランは包みを開かなかった。布の端へ指を掛けたまま、膝へ置いている。
「俺は、あの子に何か大きいものを作ってやれたらと思っていたんだ。祝いの日くらいは、店の残り物じゃなくて、あの子のために焼いたものを食わせたかった」
男の手が、布の端から離れた。
「それで何日も店に残った。娘が来ても、まだ帰れん、もう少し待てと、また言ってたよ」
ノンノはドランの顔を見た。
「でも、その時は、ミラさんも待ってくれたんですよね」
「ああ。女房に言われて、夕飯を持ってきた。俺が失敗したのを食っていたからな」
「それなら、また一緒に食べられたんですね」
ドランが目を上げた。
少しの間、ノンノの顔を見ていた。やがて口元が緩み、膝の包みを軽く押さえる。
「そうだな。一緒に食った」
ノンノはそれ以上言わず、頷いた。
◇
ラウルがガルムとセルマへ声を掛けた。
客の移動が落ち着いたので、もう一度上の通路を見てくるという。護衛の一人は荷の傍へ残り、調査員も座って記録を整理することになった。エルディアスたち三人はラウルたちと一緒に行く。
ドランは、立ち上がる六人を見た。
「話し込ませたな。探している最中なのに」
「いえ。わたしが聞きたかったんです」
ノンノは背負い袋から水袋だけを取り出し、荷は腰掛けの下へ戻した。リュシアも剣帯を確かめて立ち上がる。
「私も聞けてよかったです。娘さんの婚礼のパン、きっとおいしかったでしょうね」
「うまかった。あれは、よく焼けたよ」
ドランは今度は迷わずに答えた。
ガルムが階段へ向かう前に振り返る。
「俺たちも、戻ったら何か食おうという話はよくする。仕事が長引くと、そればかりだ」
「食う約束がある方が、帰ってくる楽しみもあるな」
「ああ。あいつらにも、まだ聞かなきゃならんことがある」
ドランは頷いた。どんな事情があるのかとは尋ねず、階段の方へ目を向ける。
「見つかるといいな」
ガルムが短く礼を言った。
エルディアスもその後へ続こうとしたところで、布の擦れる音を聞いた。ドランが包みを開き、パンを持ち上げている。
「ノンノ」
呼ばれて、ノンノが振り返った。
「これ、半分持っていくか。話を聞いてもらったしな」
「さっき食べたばかりですけど」
「今、食えというんじゃない。歩いて腹が減った時にでも」
男はパンの真ん中へ親指を添えた。ゆっくり力を入れると、皮が小さく割れた。片方へ中身が多く残ったため、初めは小さい方を差し出しかけた。それから手を止め、二つの大きさを見比べる。
「……こっちの方が大きいな」
「小さい方でいいです」
「若いんだから、大きい方を持っていけ」
ノンノは袋から薄い布を出して、両手へ広げた。ドランはその上へ、大きい方を載せる。
皮に切れ目が一つ、中身の柔らかなところが少し。それだけのパンだった。
「ありがとうございます。後で、いただきます」
「ああ」
ドランは残った半分を包み直した。ノンノの手元を見ていたが、渡したパンを惜しむような顔ではなかった。
ノンノは布を畳み、潰れないよう水袋とは反対の手で持った。
「ドランさん」
「何だい」
「もう一つ、聞いてもいいですか」
階段の前で待っていたエルディアスは、足を止めた。リュシアも振り返る。
「婚礼のお話も、楽しかったです。でも、ミラさんが小さかった時のこと、すごくよく覚えているんですね。パンをかじったところとか、寝ながら服を掴んだところとか」
ドランは手を止めた。
「ああ」
自分の膝へ一度目を落とす。
「思い出したら、ほかのことまで出てきた。椅子を引くと、あの子の足が踏み台に当たる。だから、先にどかさなきゃならん。冬だと窯の熱がありがたいが、夏には二人とも汗をかく。服が粉だらけで、家へ帰ったら着替えなきゃならん」
男は包みを閉じた。
「俺は、帰りが遅くなった晩だと思っていたよ」
声が少し低くなった。
「あの子がこっちを見ている間、俺も、ずっと顔を見ていられたんだな」
ノンノは布包みを両手で持ち直した。
「また、お話を聞かせてください」
「ああ。ここにいるよ」
ドランが頷く。六人は階段を上がった。
階段の途中で、ノンノが包みの端を開いた。パンが潰れていないことを確かめ、また閉じる。エルディアスが足を止めたのを見ると、慌てずに布を畳み直した。
「食べるのか?」
「まだです。さっきのドランさんの膝の上に、半分残っているんだなと思って」
エルディアスは、下の部屋へ目を向けた。ここからではドランの姿は見えず、腰掛けの端にいる護衛の靴だけが見えた。
「戻ったら、続きを聞けばいい」
「はい」
ノンノは包みを持ったまま、先を行くセルマの後へ続いた。
上の通路にも、客は大勢いた。窓際で眠る者、隣同士で話す者、食堂から戻ってきた者。ガルムとラウルが足を緩め、その顔を確かめていく。
リュシアはエルディアスの隣へ並び、ノンノの手元を一度見た。
――ドランさん、娘さんの話をしている時、よく笑っていましたね。
――ああ。
エルディアスは前を見たまま答えた。
――婚礼のパンを焼いた話だけじゃなく、仕事が終わらなかった晩の話でも。
リュシアは小さく頷いた。それ以上は言わず、セルマが立ち止まったところで歩調を緩める。
ノンノも止まり、前の乗客が通るのを待った。両手で持つ布包みは、食堂を出た時にドランが抱えていたものより小さい。
階下には、その残りがある。
エルディアスは背後の階段を一度だけ見てから、まだ見つからない二人を探すため、通路の奥へ目を戻した。




