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第97話 小窓

 通路の先で、ガルムが足を止めた。


 窓際の腰掛けに、男と女が並んでいた。男は顔を伏せ、両手の間に水袋を挟んでいる。女の方は壁へ頭を預けていたが、通り掛かった客の荷が膝へ触れ、僅かに顔を上げた。


 セルマがその顔を見て、首を横に振る。


「違うわ」


「ああ」


 ガルムは男の顔も確かめてから、また歩き出した。


 六人が並んで歩ける幅はなく、エルディアスたちは少し後ろへ続いた。窓の下に置かれた荷を避け、前から来る客のために壁際へ寄る。ノンノは腰へ水袋を結び直し、ドランから分けてもらったパンの包みを両手で抱えていた。


 通路が折れるところで、腰へ結んだ水袋の紐がずれた。


 ノンノは包みを脇へ挟み、留め直そうとした。だが、紐を引いたところで、小さな金具が外れて床へ落ちる。乾いた音を立てた留め具は、靴の先へ当たり、腰掛けの下へ転がった。


「あっ」


 ノンノが膝を折りかけた時、腰掛けにいた女が足を上げた。


「そこ。私の靴の後ろにあるわ」


 女は身を屈め、床から留め具を拾った。細い指の間に挟み、灯りへかざす。


「これかしら」


「はい。ありがとうございます」


 ノンノが受け取ろうとすると、女は金具と紐を見比べた。


「紐は、切れてない?」


「たぶん……」


 水袋を持ち上げる。折り返した紐の端に金具を通していたが、その輪を縫い留めた糸が、半分ほど切れていた。残る糸へ重さが掛かり、縫い目が斜めに開いている。


 女はそれへ指を伸ばしかけ、ノンノを見る。


「少し見てもいい?」


「お願いします」


 ノンノが袋を差し出す。女は重さを手へ預けさせ、縫い目だけを確かめた。


「金具を戻しても、また外れるわ。ここを縫い直した方がいい」


「今は、紐を結んでおけば持てるか」


 エルディアスが尋ねると、女は頷いた。


「ええ。ただ、短くなるから、腰には結びにくいかもしれない。急いでいなければ、私が縫うけれど」


 女の足元には小さな籠があった。布を掛けた蓋の端から、糸巻きが一つ覗いている。


 リュシアがノンノの手元を見る。


「お裁縫の道具は、荷物の方へ置いてきましたね」


「はい。下まで戻ればあります」


「それなら、ここで直してもらうか。俺たちは少し先まで見てくる」


 ラウルが言った。ガルムとセルマは、通路の先にいる船員へ声を掛けていた。その姿はここからも見え、離れてしまう距離ではない。


 ノンノは女へ顔を向けた。


「お願いしてもいいですか。針と糸だけお借りするなら、自分でもできますけど」


「どちらでもいいわよ」


 女は籠を膝へ載せた。


「私がやる方が早そうなら、その間、袋を持っていて。重さが掛からない方が縫いやすいから」


「じゃあ、お願いします」


 女は頷き、隣の空いている場所へ籠をずらした。ノンノがそこへ座り、エルディアスとリュシアは向かいの腰掛けへ寄る。


 ラウルが三人を確かめてから、ガルムたちの方へ歩いていった。


     ◇


 女は籠の中から、布で包んだ針を取り出した。


 年は三十を少し過ぎたくらいに見えた。暗い色の髪を後ろでまとめ、首元まで詰まった上着を着ている。袖口の形は左右で同じだったが、右側だけ布が新しい。よく見れば、その端を留めた糸も、ほかの部分とは僅かに違っていた。


 縫い直したのは彼女自身だろう。留め具を紐へ戻す手に迷いはなかった。


「糸の色は、これで大丈夫?」


 女は濃い茶色の糸巻きを見せた。


「はい。同じじゃなくても平気です」


「なら、これにしましょう。少し太いから、切れにくいと思う」


 糸を必要な長さだけ引き出し、針へ通す。その動きを見ながら、ノンノはパンの包みを膝へ置いた。


「わたし、ノンノです」


「アニカよ」


 女も名を伝え、三人と挨拶を交わした。


 ノンノが水袋を両手で支えると、アニカは残っていた縫い目を解いた。糸の切れ端を布の上へ置き、紐を折り返す。すぐに針を入れるのではなく、金具が動く余地を確かめてから、一針目を通した。


「長く使っている袋なの?」


「街で買ったものです。最近は毎日、持ち歩いています」


「それなら、糸も擦れるわね。袋の方は、まだ使えそう」


「よかったです。水が漏れたりはしてないので」


 ノンノは膝の上で袋を持ち直した。アニカが針を止める。


「その高さでお願い。今、針が裏へ出ているから」


「はい」


 ノンノは腕を動かさず、目だけで縫い目を追った。


 アニカの指は、紐を押さえる時と針を引く時とで、細かく位置が変わった。短い爪の傍に、古い針傷のような点がある。糸が絡みそうになると、先に指で撫でてから引き抜いた。


「縫い物のお仕事をしているんですか?」


 リュシアが尋ねる。


「繕い物が多いわ。こういう紐も直すし、服の肘や膝へ布を当てたりもする。新しく作るのは、頼まれた時だけ」


「その袖も、ご自分で?」


 リュシアの視線へ気づき、アニカは右腕を少し動かした。


「ええ。古い方の袖口だけ傷んだから。色の近い端切れがあって、助かったの」


「継いだところが、ほとんど分かりませんね」


「折り目へ隠したからよ。近くで見れば、分かるけれど」


 そう言って、袖の裏を僅かに見せる。そこには同じ幅の縫い目が続いていた。


「わたしも、それくらいできるようになりたいです。自分で直すと、そこだけ引っ張られて、変な形になるので」


 ノンノが言うと、アニカは針を抜きながら頷いた。


「糸を強く引きすぎるのかもしれない。針を戻す前に、縫ったところを少し伸ばしてみて」


「伸ばすんですか?」


「布を破るほどじゃなくて、形を戻すくらい。この紐は硬いから、少し違うけれど」


 アニカは、今縫った部分を親指で押して見せた。ノンノが顔を近づけ、リュシアもその手元を見る。


 通路の向こうで、ガルムが船員から離れた。ラウルとセルマへ首を振り、窓際の席をまた確かめ始める。エルディアスは三人の姿を見失わない位置へ身体をずらした。


「お連れの方を探しているの?」


 アニカが尋ねた。


「ああ。男と女の二人だ。この船へ入るのを見たんだが、まだ会えてない」


「ここにも何人か、二人連れは通ったわ。どんな方?」


 エルディアスは二人の特徴を伝えた。アニカは記憶を辿るように通路へ目を向けたが、確かだと言える相手はいなかった。


「ごめんなさい。顔までよく見ていなくて」


「いや。見かけたら、下の休む部屋へ知らせてくれれば助かる」


「分かったわ」


 アニカは糸を結び、余分な長さを切った。切れ端をきちんと布へ集め、針をしまう。


「一度、結んでみて。金具が裏返らなければ、これで大丈夫」


 ノンノが立ち上がり、腰へ紐を結んだ。水袋から手を離しても、縫い目は開かなかった。二歩進み、身体を少し捻ってから戻る。


「ちゃんと持てます。ありがとうございます」


「よかった」


「お代は、いくらですか?」


 アニカは籠の蓋を閉めかけた手を止めた。


「このくらいなら、いいわ」


「でも、糸も使ってもらいました」


「残り糸だから。針を出したついでに、私も直すところがあったの」


 そう言って、籠の底から畳んだ布を出した。袋の口へ通す紐が、途中で抜けている。


 ノンノは少し考え、膝へ置いていたパンの包みを持ち上げた。


「これを、少し分けてもいいですか。お礼になるか分かりませんけど」


 エルディアスへ目を向ける。彼が何も言わずにいると、アニカの方へ向き直った。


「食堂で会った方から、半分もらったんです。まだ、口はつけていません」


「食事は済ませたから、沢山はいらないわ」


「小さく分けます」


 ノンノは布を開いた。皮を割る音が、小さく響く。半分だったパンをさらに分け、アニカへ差し出した。


 アニカは受け取る前に、ノンノの手元を見た。


「あなたの分、小さくなってしまうわよ」


「さっき、ちゃんと食べました。それに、またお腹が空いたら、携行食もありますから」


「それなら、いただくわ」


 女はパンを受け取った。両手で小さく持ち、まだ食べずに、皮の焼けたところへ目を向ける。


 ノンノも腰掛けへ戻り、自分の分を一口かじった。


「もう冷めてますね」


「でも、柔らかい」


 アニカが答えた。今度は彼女も一口食べる。


 膝の上の籠は閉じられていた。針と糸の入った布包みは、その蓋の上に載っている。アニカは一度、ほどけた袋を見たが、パンを置いて縫い始めることはしなかった。


     ◇


 ラウルたちが戻ってきた。


 客が座っている通路は、ここで一通り見終わったという。ガルムはまだ奥の扉を気にしていたが、そこは船員が作業に使う場所だと説明されたらしい。


「下へ戻ろう。今は、客の移動を待った方がいい」


 ラウルが言った。ノンノの腰に下がる水袋を見て、縫い直されたことを確かめる。


「直ったか」


「はい。アニカさんが、縫ってくださいました」


 ラウルは女へ礼を言った。


 アニカはパンを包むための布を籠から出していたが、食べかけの部分を見て、手を止めた。残りは二口ほどだった。しまうか迷ってから、もう一度口へ運ぶ。


 ノンノが待っていると、アニカは僅かに眉を下げた。


「待たせてしまって、ごめんなさい」


「急いでないです。まだ縫い物、残っているんですよね」


「そうね。でも、これは後でもできるから」


「アニカさんも、下へ戻るんですか?」


「空いていれば。ここは寝るには少し明るいの」


 彼女は天井の灯具へ目を向けた。階下の部屋では灯りが腰掛けから離れており、毛布を掛ければ横になれる。


 アニカはパンを食べ終え、指を拭いてから籠を持った。


 アニカも加わり、七人は階段へ向かった。ノンノはアニカの隣へ並び、紐がずれないか腰を確かめていた。エルディアスはその後ろへ続く。


「ちゃんと留まっていますね」


 リュシアが言うと、ノンノは手を離した。


「はい。これなら、明日も使えます」


「袋の中へ針を一本入れておくと、同じことがあっても困らないわ」


 アニカが言った。


「針も糸も、下の荷物にはあるんです。歩いている間は、すぐ出せるところへ入れていたんですけど」


「船に乗ると、荷を下ろせるものね」


「はい。歩かなくてよくなった途端、安心して、全部置いてきちゃいました」


 アニカが少し笑った。


「私も、針だけは手元から離せなかった時があるわ。今でも、つい持って歩いてしまう」


「お仕事だからですか?」


「家で、よく頼まれたから。針をしまった後で、もう一つあると言われることも多かったの」


 女は籠の持ち手へ指を掛け直した。


「自分の服を直すつもりで出した糸を、ほかの服へ使ってしまう。だから、袖口はいつも最後だった」


 ノンノは彼女の右袖を見た。


「今は、直せたんですね」


「ええ。これは、先に直した」


 アニカは、継いだところを左手で軽く撫でた。


     ◇


 階下へ戻ると、ドランは壁へ背を預けていた。


 眠ってはいなかった。こちらに気づくと身体を起こし、ガルムたちへ目を向ける。ガルムが首を振ったので、それ以上は尋ねなかった。


 ノンノは、自分のパンが小さくなったことを伝えた。


「水袋の紐を直していただいたので、お礼に少し分けました」


「そうか。ちゃんと持てるようになったなら、よかったな」


 ドランはアニカへ軽く頭を下げた。アニカも挨拶を返し、彼の腰掛けから少し離れた空席へ座る。


 調査員は記録板を閉じた。護衛も六人が戻ったことを確かめ、剣の位置を直してから腰を下ろした。


「今度は私たちが上へ行こうか」


 護衛の一人が言った。


「少し待ってくれ。まだ人が動いていない。同じところを見るだけになる」


 ラウルが答え、ガルムへも目を向けた。


「何か食うか?」


「さっき食ったばかりだ」


「なら、水でも飲め。口を開くたび、声がかすれてる」


 ガルムは反論せず、水袋を出した。セルマが隣へ座り、外套を膝へ広げる。


 ノンノは布包みを荷物の上へ置いた。食べている間に、もう一段小さくなっていた。アニカの傍へ座り直すと、女は籠から、口の紐が抜けた袋を取り出していた。


「それ、お持ちしましょうか?」


「今度は、持っていてもらわなくて大丈夫。針は使わないから」


 アニカは小さな金属の棒へ紐を結び、袋の口に縫いつけられた筒状の部分へ通した。布を少しずつ寄せると、棒の先が反対側から出てくる。


 ノンノは動きを眺めた。


「針で通していくのかと思ってました」


「先を尖らせなくても、紐は通るでしょう。中の布を傷つけずに済むの」


 棒を外し、紐の端を結ぶ。アニカが左右へ引くと、袋の口がきれいに閉じた。


「ほら」


「これ、売っているんですか?」


「こういう道具もあるけれど、これは自分で作ったものよ。曲がった留め具を、折って削ったの」


 アニカは棒を指の上へ載せた。灯りに当てると、片側に小さな溝が残っている。


「留め具だった時は、もう使えなかったの。捨てる前に、何かにできないかと思って」


「わたしのも、曲がったら残しておきます」


「全部取っておくと、袋が重くなるわよ」


 ノンノが、自分の荷物へ目を向ける。


「……使えそうなのだけにします」


 アニカは笑って、道具を布包みへ戻した。


 リュシアも近くへ座り、女の籠の中にある小さな鋏を見る。


「使う道具が揃っているんですね」


「少しずつ買ったの。最初は針と糸、それに鋏だけだった」


「お店を始めた時ですか?」


「部屋を借りた時。店なんて呼べる場所ではなかったわ。窓の前へ椅子を置くと、後ろを通れなくなるくらい」


 アニカは両手で幅を示した。


「それでも、窓が一つあったから。昼なら、そこで針に糸を通せたの」


「そこが、お家だったんですか?」


「ええ。寝るのも、食べるのも、仕事をするのも、同じ部屋」


 ノンノは腰掛けの端から、足元までを見た。アニカの示した幅を思い浮かべようとしているらしい。


「どこへ寝台を置いたんですか?」


「最初は、なかったわ。床へ布を敷いて寝ていた」


「痛くなりませんか?」


「腰は痛くなった。それで昼になると、布を二つに折って椅子へ載せたの。座って仕事をするのに、少し楽になるから」


 アニカはその時のことを思い出したように、自分の腰掛けを指で押した。


「ここの方が、ずっと座りやすいわね」


「お部屋を借りる前は、別のところに?」


「家族と暮らしていたの。生まれた家に、ずっと」


 そこで女は一度、糸巻きを籠へ入れた。


 ノンノが次を尋ねるより先に、ドランが、自分の膝へ置いた包みの位置を変えた。部屋の中で誰かが寝返りを打ち、腰掛けが小さく軋む。


 アニカは籠を閉じず、糸巻きの隣へ針の包みを収めた。


「家の方が広かったし、冬も暖かかった。床へ寝る必要もなかったわ」


「お仕事のために、出たんですか?」


 リュシアが尋ねた。


「それもあった。でも、部屋を借りると決めた時は、仕事がどれだけ来るかも分からなかったの」


「それは、少し不安ですね」


「少しどころではなかったわ。家賃を払った後、持っているお金を何度も数えた」


 アニカは籠の持ち手を撫でた。


「数えても、増えないのにね」


     ◇


 家を出る前、アニカは家族の服を繕っていた。


 兄の上着、甥のズボン、母親の前掛け。誰かが破れた服を持ってくると、まず彼女へ渡された。縫い物が得意だったからだという。


「嫌だったの?」


 セルマが、隣から尋ねた。アニカは少し考えて首を横に振る。


「全部が嫌だったわけではないの。小さい子の服を直すのは、好きだった。縫い終わると、その場で着て走ってみせるから」


「破れていないか、試すんですね」


 ノンノが言った。


「そう。転んだところが塞がって、また走れるのが嬉しかったんでしょうね。ただ、出来上がった途端、次の服が出てくるの」


 アニカは両手を膝へ重ねた。


「洗濯が乾いたから、これも見て。明日着るから、先にこっち。夕飯までに、あと一つ。そうして、私の縫うものは、いつも後になる」


「断れなかったんですか?」


 ノンノは尋ねてから、少し身を引いた。


「すみません。簡単なことみたいに聞いてしまって」


「いいのよ。断ったこともあるわ」


 アニカの声は変わらなかった。


「今日は自分の仕事があるから、明日にして、と。そうすると、今まではやってくれたのにと言われた。私がやらなければ、困る人が出る。それは本当だったから」


 家の用事が済んだ後、近所から頼まれた繕い物に取り掛かった。代金は少しずつ貯めた。針を動かす場所は居間の端で、そこへ家族が集まれば、道具を片づけなくてはいけない。


 窓際は明るかったが、母親はそこへ洗濯物を畳みに来た。糸を床へ落とせば、子どもが踏むから気をつけなさいと言われる。灯りをつければ、もう寝るのだから明日にしたら、と声が掛かった。


「母さんが意地悪だったわけではないの。朝が早い家だったから、夜は皆、眠かった。私だけ灯りをつけていると、休めない人もいた」


 アニカはそう言ってから、自分の右袖を見た。


「でも、私が縫えるのは、皆の用事が終わってからだった」


 リュシアは黙って聞いていた。ノンノも、もうすぐには質問しなかった。


 ある日、近所の家から頼まれていた上着を、約束の日までに直せなかった。


 袖を外して継ぎ直す仕事だった。着る人の腕に合わせて幅を取り、左右の長さを揃える必要がある。布は渡されていたのに、何日も手をつけられなかった。


「謝りに行ったの。代金は受け取らないから、もう少し待ってほしいと」


「待ってもらえたんですか?」


「ええ。ただ、次はほかの人へ頼むと言われた」


 アニカは籠の蓋へ手を置いた。


「当然だと思った。約束した日までに出来なかったんだから。家へ戻って、もう一度、今夜は仕事をさせてほしいと言ったわ」


「今度は、できた?」


 セルマの問いに、女は頷く。


「できた。皆も気をつけてくれた。けれど、次の日にはいつもの暮らしに戻っていたの」


 その後、アニカは空き部屋を探した。


 家賃を聞くだけなら出来たが、借りるとはなかなか言えなかった。広い部屋は高く、安い部屋には何かしら困るところがある。道に面していてうるさい。階段が急で、荷を持って上がりにくい。窓がなく、昼でも灯りがいる。


 最後に見た部屋には、小さな窓が一つあった。


「裏の庭へ向いていたの。庭といっても、隣の家との間に少し土があって、桶が置いてあるだけ。でも、空は見えた」


 アニカの顔が、僅かに上を向いた。


「窓を開けたら、風が入ってきた。床は汚れていたし、壁に釘の跡もあった。それでも、ここへ椅子を置けば縫えると思ったの」


「すぐ、そこにしたんですか?」


「その日は帰った。もう一度、お金を数えたかったから」


 ドランが小さく息を吐いた。


「店を借りる時も、似たようなことをしたよ。払った後に粉を買えるか、薪は足りるか。帰って計算して、また見に行ってな」


「私も、そんな感じでした。ただ、もう一度見たら借りてしまいそうで、何日か行けなかった」


 アニカは少し笑った。


「その間、ほかの人へ貸してしまわないか、そればかり気になっていたのに」


     ◇


 部屋を借りると決めてから、家族へ話した。


 母親は驚き、仕事をする場所が欲しいなら、家の中でもう少し考えようと言った。兄は、家賃を払うくらいなら、その分貯めておけばいいと話した。どちらも、彼女が暮らしに困ることを心配していたという。


「それで、迷いませんでしたか?」


 リュシアが尋ねる。


「迷ったわ。皆が寝た後なら縫える日もあるし、私の服を後にしても、今すぐ困るわけではない。出ていくほどのことなのかと、何度も考えた」


 アニカは右袖の折り目を伸ばした。


「部屋を見てから、家で針を持つたびに、あの窓のことを思い出すようになったの。誰かが呼ぶ前に、糸を最後まで引ける。頼まれた服を、約束した日までに渡せる。そんなことを考えていた」


「それで、借りたんですね」


「ええ。家賃を払って、鍵を受け取った」


 女は籠の内側にある、小さな布袋へ手を伸ばした。口を開くと、金属が触れ合う音がする。


 取り出したのは、細い鍵だった。頭の部分は丸く、片側が少し擦れている。


「これが、その時の鍵」


 ノンノは身を寄せた。アニカは鍵を手のひらへ載せ、触れていいと頷く。


 受け取ると、思っていたより軽かった。宿で借りる部屋の鍵より細く、歯も少ない。


「まだ、同じお部屋に住んでいるんですか?」


「その部屋は、後で大家さんの娘さんが使うことになったの。私は別へ移ったけれど、鍵は返さなくていいと言われた。錠前も替える予定だったから」


「もう、開かないんですね」


「ええ。でも、持っているの」


 ノンノは鍵を返した。アニカはすぐにはしまわず、膝の上で裏返す。


 家を出る日に持っていった荷物は、大きな包み一つと裁縫の籠だった。


 服、布、針、糸、鋏。仕事のために預かっていた上着も畳んで入れた。食器は母親が一つ持たせてくれた。縁の欠けた器でよければ、もう一つあると言われたが、一つで足りると答えた。


「母さんは、食べ物も入れようとした。私は自分で買うからと言ったんだけれど、引っ越す日に買い物までしなくていいでしょう、と返された」


「それは、もらってよかったんじゃないですか」


 ノンノが言った。


「ええ。もらったわ。出ていくからといって、何もかも断る必要はないと思った」


 母親は包みを結び、夕飯を食べてから出ればいいのにと言った。


 アニカは明るいうちに掃除をしたいからと答えた。部屋は、まだ何も置ける状態ではなかった。床を拭き、窓を開け、布を広げなくてはいけない。


「靴を履いていると、甥が上着を持ってきたの。肘のところが薄くなっているから、布を当ててほしいと」


 ノンノの耳が少し動いた。


「持っていったんですか?」


「手は出しかけた。いつも、そうしていたから」


 アニカは鍵を握らず、指先で支えたまま、話を続けた。


「でも、今日は出来ないと言った。籠はもう荷物の中だったし、床を掃く前に縫う場所もなかった。明日は仕事の上着を仕上げる。だから、週の終わりまで待てるなら、それから、と」


「待ってくれました?」


「母さんが、こっちで直すと言った。出来ないと思っていたのは、私だけだったのかもしれない」


 女はそこで少し考えた。


「ううん。母さんも、ずっと私へ頼んでいたから、自分で直すのを忘れていたのかもしれないわね」


 鍵を布袋へ戻す音がした。


「その上着を持たずに出たの。戸口が、いつもより狭く感じた。振り返れば、また何か頼まれる気がして」


「実際には?」


 セルマが尋ねた。


「母さんが、途中で落とすといけないから、包みの結び目を見せなさいと言った。それだけ」


 アニカは籠の持ち手へ目を落とした。


「ほどけてはいなかった。それでも結び直してくれたわ。きつく締めるから、向こうで開ける時に困ったけれど」


 ノンノが小さく笑い、女も同じように笑った。


     ◇


 借りた部屋の戸は、下の方が床へ擦れていた。


 鍵を回すだけでは開かず、取っ手を持ち上げてから押す。大家に教えられた通りにすると、木の擦れる音を立てて開いた。


「最初に入った時、思っていたより狭く見えたわ。荷物を床へ置いたら、もう歩くところが減ってしまった」


「まだ、お掃除もしていなかったんですよね」


「ええ。まず、全部窓の下へ寄せた。借りてきた箒で床を掃いて、桶に水を汲んで、拭く。何度も水を替えたから、井戸と階段を行ったり来たりした」


 床の隅には、前の住人が落とした糸屑があった。壁から出ていた釘を一本抜き、折れた木片を拾う。窓の桟を拭くと、布が黒くなった。


 夕方まで掛かって、ようやく荷を解いた。


「椅子は、大家さんが余っているのを貸してくれたの。足が一本、少し短かった。床へ置いたら揺れたから、木片を挟んだ」


「さっき拾ったものを?」


「そう。捨てなくてよかったわ」


 アニカは指で、その小ささを示した。


 窓際へ椅子を置き、針の包みを開いた。仕事の上着を膝へ広げる。少し暗くなり始めていたが、外からの光で、まだ縫い目は見えた。


「一針だけでも縫ってみたかった。そこで出来るかどうか、確かめたくて」


「縫えましたか?」


「縫えた。針を引くところまで、誰にも呼ばれなかった」


 女はそれを言って、少し黙った。


「でも、その後、糸を止めてしまったの」


「どうしてですか?」


「夕飯の支度をする時間だと思ったから」


 ノンノの視線が、アニカの籠へ落ちる。


 いつもの家なら、立ち上がる頃だった。縫い物を畳み、針が床へ落ちていないか確かめ、台所へ行く。そこで鍋の火を見たり、器を並べたりする。


 立ちかけて、自分一人しかいないことに気づいた。


「食べ物は持ってきた。器も一つある。火を使って、何人分も作る必要はない。それでも、もう一針縫っていいか、しばらく迷った」


「誰も、待っていないのに?」


「ええ。誰も待っていないのに」


 アニカは頷いた。


 結局、袖を一つ縫い終わるまで続けた。その後で、母親からもらった食べ物を器へ移し、椅子へ座って食べた。


 窓の外から、隣の家の声が聞こえた。子どもが呼ばれ、桶へ水が注がれ、戸が閉まる。少し離れた道では荷車が通った。


 アニカの部屋には、誰も入ってこなかった。


「寂しく、なかったんですか?」


 ノンノは少し迷ってから尋ねた。


 女はすぐには答えなかった。高い窓を見上げ、そこへ映る灯りを見る。


「寂しかったわ。食べ終わった器を下げる時、家でどうしているかも気になった。ちゃんと食べたか、上着の肘は直ったか。そんなことを考えた」


 アニカは視線を戻した。


「でも、その器をいつ洗うかは、私が決めてよかった。糸を片づける前でも、その後でも。誰も困らないの」


 ドランは包みへ添えていた手を動かさず、聞いていた。


 部屋の灯りは、小さなものが一つだった。窓を閉めても隙間から風が入り、炎が揺れた。消して寝ようと思ったが、まだ上着の続きを縫えそうにも見える。


 アニカは、その灯りの前で立ったまま迷った。


「誰かへ、もう消していいかと聞きそうになったの。口を開いてから、相手がいないことを思い出した」


 女は少し笑った。恥ずかしい失敗を話す時のような、小さな笑いだった。


「それで初めて、椅子へ戻って、何もしないで座ったわ。上着は畳んでいたし、器も洗った。もう、用事はなかったから」


「窓は、閉めたままですか?」


 ノンノが尋ねる。


「その時は、閉めてた。でも、しばらくして、また開けた」


「寒くなかったんですか?」


「少し寒かった。だから上着を着たの」


 アニカは当たり前のように答え、袖口へ手を添えた。


「開けると、空が見えた。隣の屋根と、洗濯物を掛ける竿の間に、少しだけ。昼には床の汚れを見てばかりいたから、暗くなってから気づいたの」


 窓の留め金は緩んでいた。風が吹くと、開いた戸が動く。アニカは残っていた紐を桟へ結び、端を近くの釘へ掛けた。そうすれば、勝手には閉まらなかった。


「直すところが、沢山あったんですね」


「沢山あった。床も硬いし、階段も急だし、家賃を払ったら、お金も少なくなった」


 アニカの指が、籠の縁を一度撫でた。


「それでも、窓を開けたままにしておけたの」


     ◇


 近くで眠っていた客が、毛布を引き上げた。


 アニカは声を小さくし、籠を足元へ下ろした。道具はもう全部しまってある。ノンノも、膝へ置いた手を緩めた。


「その晩は、すぐ眠れましたか?」


「なかなか。床に布を敷いて横になった後も、何度か起きたわ。窓を閉め忘れていないか、鍵を掛けたか。そんなことが気になって」


「初めてのお部屋ですものね」


 リュシアが言った。


「ええ。鍵を確かめに行くたびに、戸を持ち上げないと開かないことを思い出した。家賃を払ったのに、ちゃんと開く戸でもないのかと思ったりもしたわ」


「でも、帰らなかったんですね」


「帰らなかった」


 アニカは頷いた。


「暗くなってから荷物を持って戻ったら、どうしたのと聞かれるでしょう。床が硬くて、窓が閉まらなくて、お金も少なくなったから、と答えたら、そんな部屋はやめなさいと言われると思った」


「それは、言われそうですね」


「ええ。でも、そこにいたかったの。まだ一晩も過ごしていなかったから、朝、窓からどんな光が入るかも知らなかった」


 ノンノが、船の高い窓を見上げた。


 腰掛けからは空が見えない。外の暗さも、灯りの映り込みに隠れていた。


「朝、明るかったですか?」


 アニカは、布袋へしまった鍵を籠の上から押さえた。


「明るかったわ」


 それだけ答えてから、少し目を細める。


「でも、朝の話をするなら、もう少し聞いてもらわないと。窓のことだけじゃないから」


「聞きたいです」


 ノンノが言った。リュシアも頷く。


「無理でなければ、お願いします」


「私も、話していたら思い出してきたの。床を拭いた匂いとか、母さんが結んだ包みがなかなか開かなかったこととか」


 アニカは自分の手を見る。


「あの晩、針をしまった後も、指を動かしていた。何も持っていないのに、次の仕事があるような気がして」


 今、その指は膝の上へ置かれていた。


 ノンノは何かを手伝おうとするでもなく、隣に座っている。針を出す必要も、袋を支える必要もなかった。


 エルディアスは階段へ目を向けた。上から一人、客が下りてくる。ガルムが顔を確かめ、違うと分かると、水袋の口を閉じた。


 リュシアが肩へ掛けていた外套を少し緩めた。その動きに気づき、アニカも襟元へ触れる。


「ここは、風が当たらないわね」


「上より暖かいですね。暑ければ、少し脱いでも大丈夫だと思います」


 リュシアが答える。


 アニカは頷いた。留めていた襟元を一つ外し、手を下ろす。


 それから、もう一つ外した。


 誰の顔も確かめず、自分の胸元へ目を向けただけだった。ノンノもそれには何も言わず、アニカが再び話し始めるのを待っていた。


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