第98話 朝光
襟元を緩めたアニカは、籠の持ち手へ手を伸ばした。
膝へ載せるつもりだったのかもしれない。だが、指が触れたところで止まり、籠は足元へ置かれたままになった。彼女は背を腰掛けへ預け、ノンノの方へ少し身体を向ける。
「目が覚めた時、まず、どこへ寝たのか分からなかったの」
声は先ほどより静かだった。眠っている客を気にしているだけで、話すのをためらっているようではない。
「いつもの寝床より硬くて、肩が痛かった。身体を動かしたら、布の下から床の継ぎ目が当たった。それで思い出したわ。昨日、ここへ来たんだって」
「初めてのお部屋の朝ですね」
「ええ。窓を閉めたか、また気になった。夜の間にも、何度か確かめたのに」
アニカは自分で少し笑った。
窓は閉まっていた。寝る前に閉め、留め金を掛けたうえで紐を結び直しておいたので、風に押されて開くこともなかった。その隙間から、細い光が床へ入っている。
外では桶を動かす音がした。続いて、水が注がれる音。女が子どもの名を呼び、どこかで戸が閉まった。
その音に、アニカは身体を起こした。
「遅くなったと思った。もう皆が動いているのに、自分だけ寝ていたから」
「昨日、お掃除で疲れていたんですよね」
ノンノが言う。
「そうね。よく眠れなかったし。でも、あの時は、そんなことは考えなかった。顔を洗って、台所へ行かなきゃと思ったの」
足元へ靴を探した。荷物の脇へ揃えてあったので、すぐに見つかった。片方を履き、もう片方へ足を入れたところで、部屋の中を見た。
台所へ続く戸はなかった。
あるのは、持ち上げないと開かない入口の戸だけだ。窓の下には借りた椅子があり、その上へ畳んだ上着を置いている。昨夜洗った器も、壁際の布の上に伏せてあった。
「外で呼ばれたのは、私じゃなかった。隣の家の子の名前だったわ」
アニカはゆっくりと言った。
「それで、靴を履いたまま、また座ったの。誰も、私が起きるのを待っていなかったから」
ノンノは相槌を打たなかった。腰へ結んでいた水袋をほどいて足元へ下ろし、両手を膝へ戻す。
船の床から伝わる振動が、腰掛けの脚を僅かに震わせていた。アニカはそれに一度目を落とし、話を続ける。
「上着の仕事は残っていた。でも、まだ約束の日までは時間があった。夜に片方の袖を縫えたから、その朝に慌てて始めなくても間に合ったの」
「じゃあ、もう一度眠れますね」
ノンノが言うと、アニカは目を細めた。
「そう思った。ただ、靴を脱ぐまで、少し掛かったわ」
「まだ、起きなきゃって?」
「ええ。起きてしまったんだから、何かした方がいい。寝ていたら、その分遅れる。そんなことばかり考えて」
ドランが向かいで、小さく頷いた。朝早くから窯へ向かっていた男には、分かるところがあるのだろう。口は挟まず、膝の上の包みを横へずらした。
アニカは靴を脱いだ。
片方ずつ、さっきの場所へ戻した。床に敷いた布は、まだ身体の形に沈んでいる。そこへ横になると、同じ継ぎ目が背中へ当たった。
少しずれて、痛くない場所を探した。
「最初は天井を見ていた。古い染みがあって、端の方には細い割れ目があった。そこも直すのかしらと考えたけれど、今すぐ何かが落ちてくるわけではなかったから、そのままにした」
「寝床だけじゃなくて、天井も気になったんですね」
セルマが言った。
「見れば、気になるところばかりだったわ。でも、その時は、直さずに横になっていた」
窓から入った光が、畳んだ荷物へ届いていた。布の上へ置いた鋏の柄が、僅かに光っている。籠も、針の包みも、昨夜置いた場所から動いていなかった。
外の音は続いていた。
桶を持って歩く足音が遠ざかり、子どもが何か言い返す。女の声が少し大きくなる。そのやり取りが終わると、裏庭はまた静かになった。
「私は、返事をしなくてよかった」
アニカはそこで、一度息を吐いた。
「目を閉じていたら、もう一度眠れたの。すぐではないけれど。起きて、靴まで履いたのに、また寝た」
ノンノの口元が緩んだ。
「気持ちよさそうです」
「床は硬かったけれどね」
女も笑った。硬い床で眠ったことを、不幸な話として語ってはいなかった。
◇
二度目に目が覚めると、光の場所が変わっていた。
最初は荷物へ当たっていたものが、今は床の真ん中へ伸びている。窓の桟の影が、その中へ一本落ちていた。
アニカは横になったまま、それを見た。
「細い窓だったから、そんなに明るくなるとは思っていなかったの。初めに部屋を見た時は、もっと遅い時間だったし」
「お仕事には、十分でしたか?」
リュシアが尋ねる。
「ええ。布の色も、糸の色も、よく見えた。ただ、そこに椅子を置こうとして、困ったの」
窓のすぐ下へ置いた椅子では、光が背中の方へ回っていた。膝へ広げる布は、自分の影に入ってしまう。椅子を少し横へ動かすと、今度は戸から入る道が狭くなる。
「夜には、そこしか置けないと思っていたのに、朝は、また動かさなきゃいけなかった」
「場所、見つかりました?」
「椅子を斜めにした。人が来たら、その時にどかせばいいと思って」
アニカは手のひらを僅かに傾け、椅子の向きを示した。
「それだけで、膝が明るくなったの。窓を開けたら、布の端が動いた。寒くはなくて、外の匂いがした」
「どんな匂いですか?」
「干した布と、濡れた土。庭へ水を撒いた後だったんでしょうね。あと、どこかで煮炊きをしていた」
女の顔が、船の窓の方へ向いた。
高いところにあるガラスには、部屋の灯りが映っている。それを見ながら、彼女は自分の部屋の小さな窓を思い出しているようだった。
その朝、アニカは母親から持たされた食べ物の残りを出した。
器は一つだけなので、水を飲んでから拭き、食べ物を載せる。卓がなかったため、膝で持った。仕事の上着は畳んだまま脇へ寄せ、針の包みには触れなかった。
「先に縫えば、もっと早く終わったんだけれどね」
「お腹が空いていたんでしょう?」
ドランが言った。
「空いていました。起きるのが遅くなったから」
「なら、食った方がいい」
男は、当たり前だという顔で頷く。
アニカも頷いた。
「ええ。食べた。窓を開けたまま、ゆっくり」
外では、隣の家の洗濯物が干され始めた。袖の長い上着が竿へ掛かり、続いて小さな布が何枚も並ぶ。誰かが洗濯籠を置き、手を払う音がする。
風が来ると、長い袖が揺れた。
食べ終わるまで見ていたが、自分のところには、まだ洗うものはなかった。昨日拭いた床も、その朝にまた拭く必要はない。
器を洗うために、少しだけ水を使った。
「今度はすぐ洗ったの。昼の仕事をする時に、置く場所が欲しかったから。昨夜は後にしたのに、その朝は先にした」
アニカは言い、肩を少し動かした。
「順番を、自分で変えられた」
ノンノは頷いた。昨日の話を聞いていたので、その言葉が何を指すのかは分かる。
アニカが部屋でしていたことは、特別なものではなかった。眠り、食べ、器を洗い、椅子を動かす。家でも毎日していたことが、一つずつ、別の手触りになっていた。
◇
昼前、部屋の戸が叩かれた。
アニカは針を止め、椅子から立ち上がった。外にいたのは大家だった。階下の部屋へ住んでいる年配の女で、片手に木の盆を持っている。
「眠っていたなら、ごめんなさいね」
そう言われて、アニカは慌てて首を振ったという。
「もう起きています、と答えた。起きて仕事をしていたから、叱られずに済むと思ったの」
「大家さんは、叱るつもりじゃなかったんですよね」
ノンノが尋ねる。
「全然。昨夜、何度か戸が動く音がしたから、よく眠れなかったのかと思ったそうよ」
盆の上には、小さな杯が二つと、湯の入った器があった。葉を浮かべた温かな飲み物を作ったので、いるならどうかと言われた。
アニカは、代金を先に尋ねた。
大家は一瞬きょとんとし、それから、自分が飲むついでに持ってきただけだと答えた。
「私は、いくら掛かるのかばかり考えていたから。家賃のほかに、何か払わなくてはいけないのかと」
「借りたばかりでは、分かりませんものね」
リュシアが言う。
「ええ。大家さんは、いらなければ自分で飲むからと言った。私は、飲みたいと答えたわ」
女を部屋へ通すと、椅子は一つしかなかった。アニカは自分が床へ座るつもりで、大家へ椅子を勧めた。
ところが、大家は敷居の傍へ腰を下ろした。持ってきた盆を二人の間へ置き、椅子には仕事が広がっているから、そのままでよいと言う。
アニカは上着を慌てて畳みかけた。
「それも、しなくていいと言われたの。誰か来るたびに畳んでいたら、仕事にならないでしょう、と」
そこで女は少し口を閉じた。
ノンノも待った。話の先を知りたがるように身体を寄せたままだったが、続きを急かす言葉は出さなかった。
「私は、杯を持って床へ座った。上着は、半分広げたままにしておいた。自分の部屋へ人を入れて、仕事を片づけなかったのは、その時が初めてだった」
飲み物には、僅かな苦味があった。
香りは知っているものだったが、家では、人数分を用意している間に自分の分が冷めていた。杯へ口をつけるとまだ熱く、アニカは一度離して、表面へ息を吹いた。
大家はそれを見て、熱ければ少し待つよう言った。
それから、部屋の戸はまだ扱いにくいかと尋ねた。
「昨夜も、持ち上げて閉めましたと答えた。壊したわけじゃないことを、先に言わなきゃと思ったの」
「直してもらえそうでした?」
セルマの問いに、アニカは頷いた。
「息子さんが来る日に、削ってもらうと言ってくれた。ただ、何日か先になるとも。私は待てると答えたわ」
窓の留め金にも目が向いた。
アニカが紐を結んだことを話すと、大家は近づき、結び目を確かめた。戸を一度動かしてから、なるほど、と頷く。
「勝手に触ってすみませんと言った。借りた部屋だったから、釘に紐を掛けてよかったのか、心配になったの」
「駄目だったんですか?」
「それで使いやすいならいい、と言われた。釘は前からそこにあるものだし、紐を外せば元に戻るから」
大家は自分の杯へ手を戻した。
窓を開けると、庭から入る風が盆の上を通った。飲み物の表面へ浮かぶ葉が、ゆっくり片側へ寄る。
アニカは、その様子を見ていた。
「大家さんが帰る時、まだ縫い始めなくていいのかと、自分で聞いてしまったの」
「アニカさんから?」
ノンノが確かめる。
「ええ。上着はそこにあるし、私は杯を持って座っていた。これ以上休んでいたら、怠けていると思われる気がした」
大家は広げてある上着を見て、いつまでの仕事かと尋ねた。
その日の夕方までに仕上げ、翌朝渡す予定だと答えると、今はまだ昼前だと言われた。間に合うのなら、自分で決めればいい、と。
「それだけだったわ。早くやりなさいとも、休みなさいとも言われなかった」
アニカは籠の持ち手へ指を掛けた。
「帰っていった後、しばらく、杯が空になるまで座っていた。飲むものはなくなったのに、両手で持っていたの」
彼女の指が、籠から離れた。
◇
船員が、部屋の奥へ水を運んできた。
眠っている客の邪魔にならないよう壁際へ置き、起きている者へ、湯も用意してあると知らせる。護衛の一人が立ち上がり、器を受け取った。
リュシアも空いている器を借り、アニカとノンノへ声を掛ける。
「飲みますか?」
「はい。少しお願いします」
ノンノが答えた。アニカも頷き、リュシアが持って戻った器を受け取る。
湯気は薄く、口へつけても困らない温度だった。彼女は一口飲んでから、両手を器の側面へ添えた。
「こんなふうに持っていたわ。あの時の杯は、もっと小さかったけれど」
「温かいですね」
「ええ」
ノンノも湯を飲んだ。
水袋は直ったばかりで、足元へ置いてある。携行食を食べる必要もなかった。手に持っていたパンの残りは荷の上へ包んで置き、今は器だけを持っている。
「その後、お仕事は間に合いました?」
リュシアが尋ねる。
「間に合った。夕方になる前に、縫い終わったの」
「よかったです」
「途中で糸が足りなくなりそうだったから、最後の一巻きを開けた。買い足すなら、その分お金もいる。休んだ時間があったからといって、何も困らなくなったわけではないの」
アニカは器へ目を落とした。
「ただ、あと何針縫えばいいかは、見えていた。誰かの服が、その前へ急に入ってくることはなかった」
縫い終わった上着を広げ、左右の袖を揃えた。
肩から肘、袖口まで、指で布を辿る。窓から入る光で、糸が表へ出ていないか確かめた。そこを終えるまで、誰も針をしまわせなかった。
届けるために畳む時も、急がずに済んだ。
「最後に、もう一度だけ袖口を見た。何か所も縫った後で、そこだけ気になっていたから」
「解いて直したんですか?」
ノンノが聞く。
「解かなかった。ちゃんと縫えていると分かったの。一晩置いて、明るいところで見たら、自分でそう思えた」
アニカは右袖を軽く摘まんだ。こちらも、よく見なければ分からない縫い目がある。
「その時、自分の袖も直したくなった。でも、糸が少なかったから、それは次にした」
「今度は、自分で後にしたんですね」
リュシアが言うと、アニカは少し顔を上げた。
「そうね。自分で、後にした」
ノンノは湯の入った器を膝へ載せ、両手で支えたまま頷いた。
アニカは話すうちに、一つずつ、その日に起きたことを思い出しているようだった。立派な部屋でも、大きな仕事でもない。戸は擦れ、椅子は揺れ、床は硬かった。それでも、語る声は少しずつ明るくなっていた。
◇
翌朝、上着を届けた。
前に約束を守れなかった家へ行くのは、気が重かったという。戸を叩く前に一度包みを持ち直し、汚れていないか確かめた。
「向こうの方は、袖へ腕を通して、短くなっていないか見た。私も、そればかり気になっていた。違えば、また直すつもりだったから」
「どうでした?」
「ちょうどよかった。腕を上げても、肘を曲げても、大丈夫だったわ」
代金を渡される時、アニカは前の仕事を遅らせたことを、もう一度謝った。
客は、今回の分は約束通りだと言った。直したところを確かめ、これでいいと頷く。
それ以上、前の失敗の話は出なかった。
「また、仕事を頼んでもらえたんですか?」
「すぐには。でも、何日かしてから、小さな繕い物を頼まれた。それも、期日を聞いて、出来ると答えた分だけ受けたわ」
アニカはそこで、少し首を傾けた。
「初めの頃は、頼まれると全部引き受けたくなった。断ったら次がなくなる気がして。家を出ても、その癖は残っていたの」
「仕事なら、食べていくためでもありますからね」
リュシアが言った。
「ええ。だから、早く直せるようになろうとした。針を持つ手が速くなれば、全部出来ると思って」
女は掌へ視線を落とした。短く切った爪と、古い小さな傷が見える。
「手は、少し速くなった。でも、それだけでは足りなかった。指が痛くなって、糸を通せない日もあったから」
向かいでドランが、自分の指を曲げた。
「休む方も、覚えなきゃならんからな」
「ええ。随分、掛かりました」
アニカは頷いた。
「それに、袖を直すのが好きだと言ったら、皆が袖ばかり持ってくるようになった。あれは、私が言いすぎたのだと思う」
ノンノが笑った。女も笑い、籠の中に入っている道具のことを少し話した。
太い針を買う前は、硬い布を縫うたびに指が痛かったこと。鋏を研いでもらってからは、細い端切れも切りやすくなったこと。椅子の脚へ挟んだ木片を何度も蹴ってしまい、最後には紐で括ったこと。
「部屋を出る時、その椅子も置いていったの?」
セルマが尋ねた。
「置いていった。大家さんに借りたものだったから。でも、脚に括った木片は、そのまま残しておいたわ」
「次の人も、困らずに済みますね」
「大家さんの娘さんには、外した方がきれいだと言われた。外すと揺れると教えたら、やっぱり残すと言っていたけれど」
セルマが笑う。
アニカは器を持ち直した。もう湯気は立っていなかったが、まだ少し温かい。
◇
実家へ顔を出したのは、部屋を借りてから何日か後だった。
仕事の代金で糸を買い足した帰り、通りを少し回れば寄れる場所だった。戸口へ立つと、甥が最初に気づいた。
「上着を見せてくれたわ。肘へ布が当たっていた。母さんが直してくれたそうよ」
「ちゃんと着られていたんですね」
「ええ。少し大きな布だったけれど、丈夫だった。甥は、今度転んでも破れないと言った。転ばない方がいいと答えたわ」
家の中では、いつもの食事の支度が始まっていた。
アニカは道具を置く場所へ目を向けた。今は何もない。前はそこに自分の籠があり、針があった。母親の前掛けが掛かっているのを見て、紐が傷んでいたことを思い出す。
直そうとして、手を伸ばしかけた。
「籠を持っていなかったの。糸を買った袋はあったけれど、針は部屋へ置いてきていた」
「家にも、針はあったんでしょう?」
ノンノが尋ねた。
「あった。でも、その日は出さなかった」
母親が台所から顔を出し、食べていくかと尋ねた。
アニカは食べていくと答えた。母親は器を一つ増やし、兄の家族へも声を掛けた。
「その時、母さんが聞いたの。部屋はどう、ちゃんと眠れているの、って」
「床のことも、話したんですか?」
「話した。硬いけれど、慣れてきたと。戸が少し擦れることと、窓が緩いことも」
母親は眉を寄せた。まだお金を払って日も浅いのに、そんな部屋で大丈夫なのかと言う。
アニカは、大家が戸を直す約束をしてくれたことを伝えた。窓は紐で留められる。昼は明るく、椅子を斜めに置けば、仕事も出来る。
「不便なところを一つ言うたび、何とか出来ることも一つ答えた。母さんは、しばらく黙って聞いていたわ」
「帰ってきなさいとは?」
セルマが問い、アニカは首を横に振った。
「その日は、言われなかった。もっと厚い布があるから、次に持っていきなさいとは言われた」
「寝る時に、敷くものですね」
「ええ。私は、それも受け取った。家へ戻らなくても、布はもらってよかったから」
食事の後、器を下げるのを手伝った。
アニカは自分の分を洗い、母親の器も一つ受け取った。家を出る前と同じ水場で、同じ布を使う。洗い終わった器は、いつもの場所へ並べた。
それから、帰ると言った。
「母さんが、もう少しいればいいのにと。夜道は危ないから、泊まっていったらとも」
「遅くなっていたんですか?」
「いいえ。空はまだ明るかった。仕事も残っていたし、洗った布を窓の傍へ干していたから、取り込まなきゃいけなかった」
アニカはそこで、自分でもその言葉を確かめるように、ゆっくりと続けた。
「自分の部屋へ、帰ったの」
ノンノが目を上げた。
女の声に、家族を拒む強さはなかった。食事をし、器を洗い、貰った布を持って帰る。ただ、その先に戻る場所がもう一つある。
「帰ったら、窓の紐が緩んでいた。布が風に当たって、片側だけよく乾いていたから、裏返したわ。そうして、仕事の続きをした」
アニカは器の縁へ指を添えた。
「誰かが帰ってくるから、場所を空ける必要はなかった。まだ縫いたければ、縫っていてよかった」
◇
話を聞いていた調査員が、記録板を袋へしまった。
そばの護衛が腰をずらし、眠れるよう場所を空ける。ラウルも背を壁へ預けたが、ガルムはまだ階段へ目を向けていた。上から来る客の靴音がすると顔を上げ、その人が腰掛けへ座るまで見ている。
アニカは湯を飲み終え、器を膝へ載せた。
「長い話になってしまったわね。大したことは、何もしていないのに」
「お仕事を終わらせたじゃないですか」
ノンノが言った。
「部屋も、ご自分で探して、掃除して。知らない大家さんともお話をして」
「そうね。そう言われると、少しはしたのかしら」
女が笑う。ノンノも笑ったが、次の言葉は少し考えてから口にした。
「でも、覚えているのは、二度寝したところなんですね」
アニカは顔を上げた。
しばらく、ノンノを見ていた。それから、器の内側へ目を落とす。底には薄く水が残り、灯りを映していた。
「ええ」
小さく頷く。
「仕事を終えた日も、代金をもらった日も、嬉しかった。あの部屋で、もっと大きな仕事もした。冬には寒くて、春には窓へ虫が入って、沢山困ったこともあったわ」
器を持つ手が、少し緩んだ。
「それでも、初めの朝を覚えているの。外では皆が動いていて、私は床に横になっていた。手元へ戻ってくるものも、呼ぶ声もなかった」
「ゆっくり眠れたんですね」
「そう。眠れた」
女は、その短い言葉を言った後で、また少し笑った。
「その日は、誰かに褒めてもらったわけじゃない。お金も、昨日より少なくなっていた。床も硬いまま。でも、目を閉じた時、急いで開けなくてもよかったの」
ノンノは器の中へ視線を落とした。
隣に座る女の話を、すぐに何かへまとめようとはしなかった。ドランには娘の重さが残っていた。アニカには、小さな部屋で横になった朝が残っている。
どちらも、話を聞かなければ分からないことだった。
リュシアも口を挟まず、アニカが器を持ち上げるまで待った。
◇
「返してきます。皆さんの分も、もう空ですか?」
リュシアが立ち上がると、アニカも腰を浮かせた。
「私が行くわ。持ってきてもらったのだから」
「一緒に行きましょう。一度に重ねると、持ちにくいですから」
リュシアは自分とノンノの器を持った。アニカは自分のものを持ち、二人で壁際の台へ向かう。
エルディアスはその後ろ姿を見送った。アニカの籠は足元に残っていた。中には針も糸もあるが、女はそれを持たずに立っている。
戻ってきた時、リュシアが何か話し、アニカが笑った。エルディアスには聞こえない声だったが、深刻な話ではなさそうだった。
二人が腰掛けへ戻ると、ノンノが少し端へ寄った。
「アニカさん、横になりますか?」
「そうね。少し休もうかしら」
女は籠を持ち上げた。蓋がきちんと閉まっているか見てから、腰掛けの下へ置く。
その時、側面の布へ指が引っ掛かった。小さなほつれだった。アニカは目を留め、指先で糸を寄せる。
針の包みを出すことはしなかった。
「これは、起きてからでいいわね」
誰かへ許しを求める声ではなかった。彼女は自分でそう言って、外套を広げた。
ノンノは邪魔にならないよう立ち上がり、リュシアの隣へ移った。アニカが腰掛けへ横になると、籠は手を伸ばせば届く場所にあったが、その手は外套の中へ収まった。
「お話、ありがとうございました」
ノンノが声を落とす。
「私も、聞いてもらえて嬉しかったわ」
アニカは目を閉じかけ、もう一度開いた。
「あなたの水袋、また糸が擦れたら、切れる前に見てね。少し足して縫えば、長く使えるから」
「はい。今度は、ちゃんと見ます」
女は頷いた。そこでようやく、目を閉じた。
ノンノは足元の水袋を取り、紐へ触れた。縫い直された部分は、元の糸とは少し色が違う。指で撫でると、重ねた糸が小さく盛り上がっていた。
隣でリュシアが足元の荷を寄せ、腰掛けへ空きを作る。エルディアスも杖を倒れない位置へ置いた。
しばらくして、ガルムが立ち上がった。階段を見に行くのかと思うと、下の数段へ腰を下ろし、そこから通路へ目を向けた。セルマも彼のそばへ移る。
「少しは休めそう?」
「ああ。ここなら、顔を見られる」
「私も見ているから、ずっと起きていなくていいわ」
ガルムはすぐには答えなかったが、やがて肩の力を抜いた。
ノンノは荷の上へ置いたパンの包みを持ち、残っている分を見た。皮の端と、柔らかなところが一口ほど。それを口へ入れ、布についた屑も指で集めて食べた。
ドランが向かいから気づき、頷いた。
「うまかったか」
「はい。ごちそうさまでした」
男はそれだけで満足したように、背を壁へ戻した。
ノンノは布を畳み、袋へしまった。アニカの籠へは、もう目を向けなかった。休んでいる人を、用事のために呼ぶ必要はない。
船は変わらず進んでいた。灯具の光は床へ落ち、壁の向こうには水音が続いている。
アニカの外套の端が、ゆっくりと上下していた。
その傍で、縫いかけにもなっていない小さなほつれが、籠の縁へ残っていた。




