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第99話 帰路

 階段の上で、靴音が止まった。


 ガルムが顔を上げた。下りてきたのは、探している二人ではない。白いものの混じった髪を短く刈り、古い外套を肩へ掛けた男だった。手には、荷を詰めた革袋を持っている。


 男は、下の段へ座っているガルムとセルマを見た。


「そこへ座るなら、足はもう少し寄せた方がいい。下りる時に、上からは見えんぞ」


 ガルムが膝を引いた。男はその脇を通り、部屋へ入ってくる。ガルムの足元へ置かれた斧と、腰に留められた装備へ目が向いたが、何も尋ねなかった。


 革袋を壁際へ下ろし、空いている腰掛けの端へ座る。


 エルディアスは、その男を見ていた。袋を置く時、腰を深く曲げず、片膝を使っている。外套を外す前には、腰に下げた短い剣を前へずらした。立ったり座ったりするたび、同じ動きを繰り返してきたようだった。


 ガルムもそれへ気づいたらしく、男が袋を開けたところで声を掛けた。


「上の客は、まだ起きているか」


「ああ。話しているのも、寝ているのもいる。何かあったか?」


「連れを二人、探している。男と女だ」


 ガルムは二人の特徴を伝えた。男は最後まで聞き、上の通路へ目を向ける。


「俺がいたところには、覚えがないな。窓の下と、食堂の入口を見ただけだが」


「そうか」


 ガルムの肩が僅かに落ちた。


 男は袋から布を取り出し、腰掛けへ広げた。それから片足を引き寄せ、靴の紐を緩める。指を入れて中を確かめ、靴を脱ぐと、もう一方も同じようにした。


「待つなら、そっちへ座った方がいい」


 男は、ガルムのいる階段へ顎を向けた。


「荷を持った客が下りてくるたび、立ったり座ったりしなくて済む。休むつもりなら、休める場所へ座れ」


「寝るつもりじゃない」


「座っていても疲れる場所はあるだろう」


 ガルムは階段の横を見る。ちょうど人が通れる幅だったが、大きな荷を背負った客が来れば、また足を引かなくてはいけない。


 セルマが先に立ち上がった。


「こっちからも、階段は見えるわ。私が端へ座るから」


 ガルムも続いた。男から一席空けた場所へ座り、斧を足元へ寄せる。


「悪かった。通る邪魔だったな」


「ぶつかってから気づくより、いい」


 男は靴の底を撫でていた。縫い目の端へ指を入れ、浮いていないか確かめている。


 ガルムが、その靴へ目を向けた。


「よく歩いている靴だな」


「底は何度か替えた。こっちの上は、まだ使える」


「俺も、前のを長く使った。替えてから、しばらく歩きにくかった」


「馴染んでいたんだろう。新しいのが悪いとは限らん」


 男は靴を布の上へ置いた。


「ハーゼンだ。あんたは?」


「ガルム。こっちはセルマだ」


 二人が名を伝えると、ラウルも身体を起こし、挨拶した。エルディアスたちも続く。ハーゼンは九人の荷と装備へ順に目を向けた。


「皆、一緒か」


「ああ。今は九人で動いている」


 ラウルが答えた。


「俺たちは護衛もやっている。そちらも、同じような仕事か?」


「長いこと、それで食ってきた。荷車について歩く仕事が多かったな」


 ハーゼンは自分の靴へ目を落とした。


「剣より、こっちの方を使ったかもしれん」


     ◇


 ハーゼンの袋からは、小さな革の筒も出てきた。


 縫い針や、油の入った容器を収めるものらしい。口へ布を詰め、歩いても中身が動かないようにしてある。ガルムがその形を見て、自分の荷物へ目を向けた。


「俺は、布へ巻いて入れてる。取り出す時に、ほかのものまで出てくるんだ」


「使うものだけ、まとめておけばいい。全部を別に包むと、今度は包みを探すことになる」


「それもあるな」


 ガルムは頷き、袋の口へ手を入れた。小さな包みを一つ出し、どこへ入れ直すか考える。


 セルマが隣で見ていた。


「今、全部広げるのはやめてね。寝る場所がなくなるから」


「これだけだ」


「前にも、そう言って全部出したわ」


 ハーゼンが笑った。


「俺の連れにもいたよ。自分でしまったのに、どこへ入れたか分からん。探しているうちに、俺の袋まで開けるんだ」


「さすがに、それはしないぞ」


 ガルムが言い、セルマの方を見る。


「してないわね。私の袋の前で、そっちにないかと聞くことはあるけれど」


「聞くくらいはいいだろう」


「聞いたものが、自分の袋から出てこなければね」


 ハーゼンは靴を布ごと脇へ寄せた。見張りをしている時より、ガルムの顔から力が抜けている。


 ラウルが外套を畳み直し、ハーゼンへ顔を向けた。


「その、袋まで開けるという連れも、一緒に護衛をしていた仲間なのか」


「そうだ。俺を入れて六人で組んでいた。荷主が大きな商会なら、ほかの護衛と組むこともあったが、俺たちだけで足りる仕事も多かった」


「長く一緒だったのか」


「ああ。初めは違う組で顔を合わせていたんだが、何度か同じ仕事になってな。そのうち、誰に何を任せるか分かるようになった。まとめ役は、オルドだ。仕事を取ってきて、荷主と話す。金にも日数にも細かいが、出来もしない約束はしない。俺たちは、それで随分助かった」


 ハーゼンは膝へ両手を置き、仲間の顔を思い浮かべるように話した。


「カヤは弓を使う。足が速くて、道を見るのがうまかった。人の話を聞いていないように見えて、後から一番よく覚えているのも、あいつだ」


「先を見てくる役か」


 ラウルが聞き、ハーゼンは頷いた。


「そうだ。ベルトは身体が大きくて、剣を使う。荷を押す時には頼りになる。ただ、腹が減った、足が疲れたと、文句も一番多い。言いながらも手は出してくれる奴だった」


 セルマが僅かに笑った。ハーゼンも口元を緩める。


「ペトは、買い物と飯の支度がうまい。荷を守る仕事もするが、道中の食事はそいつに任せていた。自分もよく食うから、人の腹が減っていることには気づくんだ」


「もう一人は?」


 ガルムが尋ねる。


「トーマだ。一番若くて、加わったのも最後だった。剣を使えるところを見せたがっていたが、気が張りすぎることも多かったな。教えれば真面目にやるから、俺たちも放っておけなかった」


 五人の話を終えると、ハーゼンは足元の短い剣を手元へ引いた。袋へ当たらない位置へずらし、また膝へ手を戻す。


「それで俺を入れて、六人だ。俺は、車の傍へいることが多かった」


「荷を守る方か」


「そうだ。カヤが先を確かめている間、ベルトと俺で車の前後を見る。ほかの三人も、道に合わせて位置を替えた」


 ラウルは頷いた。名前を覚えようとするより、どんな形で歩いていたかを思い浮かべているようだった。


 ノンノも、リュシアの隣から耳を傾けていた。


「荷車と一緒だと、歩くのはゆっくりですよね」


「道がよければ、それなりに進む。悪ければ、一日歩いても大して変わらん」


「わたしたちも、砂漠で一緒に歩きました。岩のところで、車がなかなか通れなくて」


「歩く足が通れば、車輪も通るとは限らんからな」


 ハーゼンは膝の上へ手を置いた。


「そういう時に、先を見てくるのがいた。見たままを、ちゃんと伝える奴がな」


 ガルムが顔を上げた。


「俺たちにもいる。先へ出て、戻ってきてから、どこに何があったか話すのがうまい。ただ、夢中になると黙って先へ行くから、こっちは時々気になるんだが」


 セルマが僅かに笑った。


「普段は、冗談ばかり言っているのにね」


「ああ。口数は一番多い。だが、道の話だけは無駄がない」


 エルディアスは、二人の方を見た。


 ニルスのことだろう。ガルムは名を出さなかったが、話している顔を見れば分かった。さっきまで必死に探していた相手を、今は仲間として話している。


 ハーゼンは、それを自然に聞いた。


「戻ってきて話せる奴なら、助かる。自分だけ先へ行って、車を待たないのもいるからな」


「それはしない。夢中になって戻りが遅れることはあるが、俺たちを置いていきはしない。遅ければ、俺が引き戻しに行く」


 ガルムはすぐに答えた。


 それから、階段へ目を向けた。誰も下りてきていなかった。


     ◇


「危ない仕事も、多かったんですか?」


 護衛の一人が尋ねた。ハーゼンは少し考え、首を傾げる。


「危ないと分かって受けた仕事もある。楽だと思って行って、困った仕事もある。その反対もな」


「反対?」


 ガルムが尋ねると、ハーゼンは頷いた。


「出る前には皆が嫌がったのに、行ってみたら何もなかった」


 ガルムが、自分の包みを袋へ戻した。


「そんな旅の方が、少ないんじゃないか」


「少ない。何もなかったと言っても、歩かずに済んだわけじゃないからな。腹も減るし、靴も減る」


 ハーゼンは、脇に置いた靴を見る。


「十三日かけて荷を運んだことがある。車は二台。行きは粉と布、帰りは金物だった。鉱山へ道具を送る商会の仕事だ」


「往復で十三日?」


 ラウルが確かめた。


「ああ。帰りの荷を受け取るまでに、一日待った。それを入れて十三日」


 ハーゼンは指を折るようには数えなかった。日数が、そのまま頭へ残っているらしい。


「途中の森で獣が出るという話があった。追われた車もいると。荷主は早く運びたがっていたが、オルドは六人全員で行くと言った。四人に減らしても代金は変わらんと持ち掛けられたんだがな」


「断ったのか」


「四人のつもりで行って、途中から六人には増やせんだろう」


 ラウルが短く頷いた。


「出る朝には、荷を積む倉庫の前へ六人で集まった。オルドが荷の量と車を確かめて、俺は車輪と綱を見た。粉の袋を濡らせば使い物にならんから、内側へ積んだよ。布も、荷台の板へ直接置かず、下に木を挟んだ。雨が入っても、すぐに染み込まんようにな」


 ハーゼンは革袋の底へ手を添えた。


「トーマは、俺たちが荷を積んでいる間も、自分の袋を開けていた。前の晩から詰め直していたそうだ。何があれば困らないかと考えて、何でも入れた。水袋をもう一つ、替えの服を二組、縄も予備がいると言ってな」


「重くなりそうですね」


 ノンノが自分の袋へ目を向ける。


「持ち上げることは出来たよ。ただ、立ち上がったところで後ろへ下がった。それをベルトに見られた」


「減らしたんですか?」


「歩いてみろと言われた。荷を背負って、倉庫の前を一往復した。戻ってきた時には、替えの服を一組出していた」


 ハーゼンは笑った。


「俺たちも、初めから少なく持てたわけじゃない。荷を分けて、足りない分は車へ載せられるか聞いた。荷主も、自分の荷を守る奴が道で潰れたら困るから、空いた場所へ入れてくれた。最後に来たペトが、食料を持っていた。同じ金で買っても、あいつは俺より腹持ちするものを揃えてくる。六人分をそのまま持って歩くわけじゃないから、倉庫の前で分けた。ただ、いつも一つ、自分の好物を混ぜるんだ。干した酸っぱい実だよ。俺は、あれをそのまま食うのが苦手だった」


「皆の分にも入っていたのね」


 セルマが言う。


「入っていた。いらんなら自分に寄越せと言う。初めから自分で持てばいいだろうと言っても、旅の途中で食いたくなるかもしれん、と」


「食いたくなったのか?」


 ガルムが尋ねた。


「ならん。毎回返していた」


 男たちが小さく笑った。近くで眠っている客がいるため、声は大きくしなかった。


「出てからは、二人が前、二人が車の傍、二人が後ろについた。カヤは道が見通せるところまで先へ行って、戻るとオルドに、何があるかを話す。初めは晴れていて、車もよく進んだよ」


 ハーゼンは片手を膝の上で前へ動かし、途中で止めた。


「森へ入ると、そうはいかん。土が軟らかくて、車輪が沈んだ。根の張ったところも避けなくてはいけない。馬に無理に引かせず、俺たちも後ろから押した。初日の昼には、もうトーマの機嫌が悪くなった。獣が出ると聞いて来たのに、車を押してばかりだと」


「仕事に慣れてなかったのか」


 ガルムが言った。


「ああ。剣を使えるところを見せたかったんだろう。オルドは、車が動いているなら仕事をしていると言った。それで、口では納得したんだがな」


 ハーゼンは、若者の顔を思い出すように、少し目を細めた。


「しばらくして、今度は前へ出たがった。先を見てくると。カヤが、道を見て戻れるならいいと言った。どこを見ればいいか聞かれたから、今通っている道から、見える範囲でいいと返した」


「一人で行かせたんですか?」


 ノンノが尋ねる。


「最初は、カヤと一緒だ。藪へ入る必要もない。車が向かう先を、二人で歩いて見た。戻ってきたトーマが、少し先に水溜まりがあると言った。見に行くと浅そうなんだが、カヤが端へ枝を差したら、随分深く入ったよ。車輪を落とせば、六人いても簡単には出せん。二台とも手前で止めて、固い地面が続いている側へ寄せて通した」


 ハーゼンは、ノンノが膝へ置いている手を見てから、顔へ視線を戻した。


「その後、トーマは車を押す時に文句を言わなくなった。自分で先を見てきたから、どうしてそこを通すのか分かったんだろう」


 ノンノが頷いた。


 エルディアスも、ノンノの横顔を見ていた。彼女はハーゼンの方へ耳を向け、話が途切れると、続きを待っている。


     ◇


「森では、獣には遭わんかった。遠くで鳴き声を聞く夜はあったが、近くへ来るものはいない。道を選んで、荷を見て、夕方になれば車を止める場所を探す。その繰り返しだった」


 ハーゼンは手を膝へ戻した。


「夜の見張りは二人ずつだ。俺はトーマと組んだ。最初の夜は、火の前へ座ったまま、あいつがずっと剣の柄を握っていたよ。持っている手に力が入って、鞘から抜く前に疲れそうだった」


「使う前に、疲れるぞ」


 ガルムが言った。


「そう言ったよ。トーマは、抜くのが遅れたら困ると言う。握るなとは言わんが、一度開けと教えた。俺が手を出してみせたら、ようやく真似をした」


 ハーゼンは右手を開いた。大きな掌に、古い傷が幾つかある。


「火ばかり見ていても困る。明るい方を見続けると、暗いところへ目を戻しても、すぐには分からん。少し顔を上げて、木の間を見ろと言った」


 ノンノも、自分の掌を開いていた。気づいたリュシアが目を向けると、僅かに笑ってから膝へ戻す。


「その晩は、ペトが豆を煮た。肉も入っていたが、先は長いから、一度に使う量は決まっていた。トーマが椀の中をかき回して、肉が見当たらないと言ったよ。ペトは、探したところで増えんだろうと返した」


「誰かが多く取ったんじゃないか?」


 ガルムが言った。


「ベルトの器を、皆で見た。あいつは身体が大きかったからな。だが、入っていたのは豆ばかりだ。ベルトは、取っていないと答えるより先に、自分の分にも肉がないと言い出した。ペトは六人分に分けたから入っているはずだと言う。そこでカヤが、小さい一切れを匙へ載せて見せた。ペトは、ほら見ろと頷いたよ」


 ハーゼンは口元を緩めた。


「一切れでも入っていれば、入れたことにはなる。文句があるなら明日は自分で煮ろと言われて、全員黙った」


「誰も、作らなかったんですね」


 リュシアが言った。


「俺も煮るだけなら出来るが、同じ豆なら、ペトの方がうまかった。代わる気にはならん」


「それなら、文句は言わない方がいいですね」


「ああ。だが、次の晩にはまた言っていた。ペトも、黙って食えと返したよ」


 セルマが顔を少し伏せた。笑いを抑えているらしい。ガルムも口元を緩め、ラウルは聞きながら肩を壁から離した。


 ハーゼンは三人の方を見て、話を続けた。船の機関が、腰掛けを通じて低く響いている。


「朝になれば、また荷車について歩く。トーマも、日が経つと口数が減った。具合が悪いわけじゃない。荷主に呼ばれれば返事をするし、押す時にはちゃんと手を出す。ただ、初めのようには喋らなくなった」


 ハーゼンは、ガルムの足元の袋へ一度目を向けた。


「ようやく、歩く方へ力を使うようになったんだろう。荷物も一度広げて、オルドへ見せた。何を先に取り出せるところへ入れるか、自分から聞いたよ」


 ガルムが足元の袋を見た。


 さっき入れ直した包みは、袋の口へ近いところにある。ハーゼンはそれへ気づいていたが、若者と比べるようなことは言わなかった。


     ◇


「荷を届けた先で、一日待つことになった。帰りに積む金物が、まだ揃っていなくてな。俺たちだけ帰すわけにもいかんから、荷主が飯と泊まる場所を用意した」


「休めたのね」


 セルマが言う。


「車の傍から離れずに済む宿だった。囲った庭へ車を入れられたから、荷を見張るのも楽だったよ。ただ、昼に寝る気にはなれなかった」


「何をしたんだ」


 ラウルが尋ねた。


「剣を拭いた。靴を干した。濡れてはいなかったが、ずっと履いていたからな。ベルトは靴下まで全部洗って、帰りに使う分が乾かないと困っていた」


「一組くらい、残せばいいのに」


「皆に言われた。洗ってからな」


 ハーゼンは笑った。


「カヤは市場へ行った。戻ってくると、干した魚を皆に配ったよ。ペトが一口かじって、豆へ入れればいい味が出ると言ったら、今食べるために買ったんだと叱られた」


 ノンノが小さく笑った。ハーゼンは彼女へ目を向け、続きを話した。


「オルドはその横で、帰りの道と日数を帳面で確かめていた。トーマは靴を片方だけ膝へ載せて、底の泥を落としていたよ。使っていた枝が折れたので、俺の持っていた木片を渡した。俺のやり方を見て、自分でも同じようにしてな。前は泥がついていても、そのまま履いていたんだが」


「長く歩くと、気になるか」


 ガルムが言う。


「ああ。帰りも歩くと分かっているから、余計にな。午後には、帰りの荷を受け取った。金物は、見た目より重い。荷主は行きと同じだけ載ると言ったが、オルドが、同じ大きさでも同じ重さじゃないと止めた。箱の位置を決め直して、二台へ分けたよ」


 ハーゼンは身体を少しずらし、腰掛けの背へ寄りかかった。


「積み直して、最後の綱を締めた頃には日が傾いていた。荷主は、すぐ出れば少しは進めると言った。オルドは、その晩も宿へ残ると答えたよ。暗くなってから車を止める場所を探すより、朝に出た方がいい。待たされた分の代金も払ってもらう話だったから、そこで無理をする必要はなかった」


 エルディアスは、ラウルの方を見た。


 ラウルは腕を組み、話を聞いていた。ハーゼンの声が途切れると、顔を上げて尋ねた。


「荷主は納得したか」


「渋い顔はしたよ。だが、帰りの荷を遅くまで揃えられなかったのは、自分たちの方だからな。結局、その晩も飯を出してくれた」


「肉は入っていたのか?」


 ガルムが尋ねた。


「入っていた。ペトが、何も言わずに自分の分を食っていたから、皆も黙った」


 ノンノが笑い、すぐに眠っているアニカの方を見る。女は目を開けなかった。


     ◇


「帰りも、獣には遭わんかった。行きに避けた水溜まりは、まだ残っていたよ。カヤとトーマが別の側へ回れるか見に行ったが、結局、前と同じ地面を通した。確かめていない方へ、重い車を入れる気にはならん」


 ラウルが頷いた。ハーゼンは足元へ目を落とし、また話し始めた。


「一度、橋の前で止まった。低い橋で、車二台が並ぶ幅はない。先に俺たちが渡って、板の浮いたところや欠けたところを見た。オルドは続けて車を入れず、一台ずつ渡すと言ったよ。俺とベルトが前の車についた。ほかの四人は、次の車を手前で止めていた。渡り終わってから俺たちが戻って、今度は後ろの車につく」


 ノンノはその動きを、床の上へ指で小さく描いていた。


「二台目が動く時には、橋の上は空いているんですね」


「そうだ。急げば一度で済むが、途中で止まったら、後ろも動けん。帰りの荷は重かったしな」


「壊れたりはしなかった?」


 セルマが問い、ハーゼンは頷いた。


「しなかった。渡って、綱を見て、また歩いた。それだけだ。その次の日には、雨が降った。長くは続かんかったから、木の下で止むまで待ったよ。荷へ覆いを掛けて、水が溜まらんように端を持ち上げる。俺たちも外套を着て、木の下へ寄った」


 ハーゼンは、木の鉤へ目を向けた。濡れた上着を掛けている客もいる。


「トーマが、昨日、剣の手入れをしておいてよかったと言った。ベルトは、雨が上がったらまた拭くんだぞと教えたよ」


「一度拭けば、終わりじゃないからな」


 ガルムは自分の斧へ目を向けた。


「ああ。それで、宿へ戻ったら皆で拭こうと話した。ペトは、その前に飯だと言った。カヤは靴を脱ぐ方が先だと言う。誰も、帰り着いた時にはどうでもよくなるとは思っていなかった」


 ハーゼンは少し口元を上げた。


「俺も、早く帰って寝たいと思っていた。道が乾くのを待つだけの時間が、長く感じたよ」


「でも、何事もなく戻れたんだな」


 ラウルが言った。


「戻れた。車輪も壊れんし、荷も減らん。誰かを運ぶために荷台を空けることもなかった」


 ハーゼンは、床に置いてある自分の袋へ目を向けた。


「靴だけは減った。十三日歩けば、そうなる」


     ◇


 話の途中で、ガルムがまた階段を見た。


 上から若い男が一人下りてきたが、その顔を見るとすぐに視線を戻した。男は空いている腰掛けを探し、少し離れた場所へ座る。


 ハーゼンもそちらへ目を向けた。


「まだ、会えんか」


「ああ」


 ガルムは答え、膝の上で手を開いた。斧を握ってはいなかったが、指が少し固くなっていたようだった。


「俺たちも、仕事が終わったら何を食うかは、よく話す。道を歩いている間からな」


「帰るまでに、腹が減るからな」


「言い出した奴が、一番先に寝ることもある」


 セルマが隣で頷いた。


「食べる時には起きているけれど、待っている間に寝るのよね。起こすと、寝ていないって言うの」


「寝てる。呼んでも、最初は返事をしない」


 ガルムはそう言い、笑いかけた。


 途中で、表情が少し止まった。


 ハーゼンはその顔を見たが、誰のことかを聞かなかった。


「俺たちも、帰った晩にはそうなったよ」


 男は静かに言った。


「十三日目に荷を引き渡して、六人で宿へ戻った。濡れた外套を下げて、靴を脱いで、剣を拭く。やるつもりだったことは、全部あったんだが」


「先に、飯にしたのか」


 ガルムが尋ねると、ハーゼンは首を横に振った。


「先に、椅子へ座った」


 ハーゼンの口元が緩む。


「そこで、トーマが動かなくなった。剣を腰に下げたまま、椅子へ座っていた。ベルトが、腰が痛くなるから外せと言うと、頷く。だが、手は動かん」


「眠っていたんですね」


 ノンノが言った。


「半分な。外套を取り上げたら、引っ張り返された。それでも、何を取られたか分かっていなかった」


 ガルムが短く笑った。


 ハーゼンは、その笑いを見てから、話を続けた。


「オルドは代金を数えていた。皆に分ける前に、何度もな。ペトは鍋の匂いを嗅いで、宿の女将に、今日は何を煮ているか聞いた。カヤは椅子へ腰を下ろした後で、自分の靴の紐を解いた」


「ベルトは?」


 ラウルが尋ねた。


「空いた椅子が一つあったから、足を載せようとした。そこへ俺が座ったので、文句を言われた」


「六人分しか、なかったのか」


「ああ。長い卓だったが、空いていたのは六つだ。足のために、俺が立っているわけにはいかんだろう」


 セルマが声を抑えて笑った。


 ハーゼンは、その卓の幅を測るように、腰掛けの端へ手を置いた。何かを数えるためではなく、隣の椅子があった場所を思い出すような仕草だった。


「女将が器を持ってきた。まだ飯は入っていない。六つ重ねて、卓へ置いたんだ」


 ノンノは男の手元を見た。


 今、そこには器はない。革袋と、脱いだ靴、それに小さな布包みがあるだけだった。


「先に水を飲めと言われたよ。飯はすぐ出すから、飲んで待っていろ、と。オルドが代金をしまって、トーマを起こした。ペトはもう椀を持っていた」


 ハーゼンは、そこで少し黙った。


 ガルムも、その間には階段を見なかった。


「何を食ったんだ?」


 しばらくして、ガルムが尋ねる。


「煮込みだ。豆と、肉と、根菜。道で食ったものと、大して違わん。だが、宿の鍋は大きかった。もう一度よそっても、まだ残っていた」


「それなら、足りたな」


「ああ。誰も、残りを明日に回すから少なく食えとは言わなかった」


 男は壁へ背を預けた。


「六人で、腹が減ったと話していた。十三日も歩いて、ようやくそれだけになったんだ」


 ラウルは顔を上げたまま聞いていた。


 ガルムも、もう自分の荷物へは触れていない。


 エルディアスは二人を見て、それからハーゼンへ視線を戻した。ラウルもガルムも、続きを促さずに待っていた。


 ハーゼンが、向かいに座るドランの布包みへ目を向けた。


「話していたら、また腹が減るな」


「食うか。少し残ってる」


 ドランが包みを持ち上げる。


「いや。さっき、上で食ったばかりだ。話している口が、食いたくなっただけだよ」


 ハーゼンは笑って、片手を上げた。


 ドランも頷き、パンを膝へ戻す。


「いい晩だったんだな」


 ガルムが言った。


 ハーゼンはすぐには答えなかった。腰掛けの空いたところを一度見てから、ゆっくり頷く。


「ああ」


 その声には、さっきまでの軽さがなかった。


「俺は、まだ次の仕事のことを考えていた。靴を直してから出るなら、何日空けるか。休んでいる間に、オルドは次の荷主を見つけるつもりなのか。飯を食いながら、そんなことばかり気にしていた」


 ノンノが少し顔を上げた。


「休むことは、決めていなかったんですか?」


「明日は休もうと、皆で言ったよ」


「じゃあ、休めたんですね」


 ハーゼンは、僅かに笑った。


「休めたよ。ただ、休む話をしている間も、トーマは半分寝ていた。まずは目の前の飯を食わせないとな。それが済むまでは、明日の話にもならんかった」


 ノンノも笑った。ガルムが腰掛けへ少し深く座り直す。セルマも外套を畳み、話の続きを待っていた。


 その時、上の通路で誰かが声を掛けた。ガルムの目が階段へ向く。すぐに別の客の返事が聞こえ、探している二人ではないと分かった。


 彼は視線を戻した。


 ハーゼンは急かさず、ガルムがこちらを見るまで待っていた。


 船の壁の向こうでは水音が続いていた。外套を掛ける木の鉤が、一つだけ空いている。そこへ、ハーゼンが自分の外套を下げた。


 剣は抜かれず、靴は床へ揃えられた。


 男は両手を膝へ置き、昔の宿の卓へ戻るように、話の続きを始めようとしていた。


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