第100話 同卓
ハーゼンは、腰掛けの背から少し身体を起こした。
「飯が来たら、トーマもようやく目を開けた。女将が椀へよそっている間、ずっと匙を握って待っていたよ」
「食い終わるまでは、起きていられたか」
ガルムが言う。
「途中で一度、匙が止まった。カヤが、寝るなら残りをもらうと言ったら、すぐに椀を引き寄せた。起きている、これは自分の分だとな」
ノンノも口元を緩めた。隣ではアニカが外套を掛けて休んでいるため、声を出しては笑わなかった。
ハーゼンは、その方を一度見てから続ける。
「ペトが、誰も取らんからゆっくり食えと言った。ところが、トーマは皆の椀を見て、まだお代わりはあるかと聞いたんだ」
「眠くても、腹は減っていたんだな」
ガルムが言うと、ハーゼンは頷いた。
「ああ。ペトが二杯目を食っているのを見て、鍋が空になると心配したらしい」
「それなら、急いで食べるわね」
セルマが笑う。
「女将が聞いていて、まだあるから椀を空けておいでと言った。それで安心したのか、残りも食ったよ。ペトと二人で、お代わりを頼んだ」
話を聞きながら、ガルムは肩を壁へ預けた。
階段は、ここからも見えた。上から人が来れば気づける。今は靴音もなく、聞こえているのは船の機関と、近くで低く交わされる乗客の声だけだった。
ハーゼンの手が膝の上で動く。器を支え、匙を持つ時の形だった。
「宿の椀は、道で使うのより大きかった。手へ持つと熱いから、皆、卓へ置いて食っていた。トーマだけは、持ったまま手放さなかったな」
「熱くなかったんですか?」
ノンノが尋ねると、ハーゼンは少し笑った。
「縁を持っていた。それでも途中で手を替えていたな。卓へ置けばいいと言ったんだが、また眠るからと。食い終わるまで、しっかり持っていた」
男は、目の前に卓があるように少し身を屈めた。
「器の周りに手があって、肘があって、パンの皿がある。剣は背中の壁へ寄せた。袋は椅子の下だ。全員、そこに座っていた」
◇
「煮込みは、道で食っていたものと似ていた。豆と根菜に、肉が少し。ただ、宿では長く火へ掛けておけるから、根菜が軟らかかった。匙を入れるだけで崩れて、汁に混じる。ペトが一口食って、これは朝から煮てあったなと言ったよ」
ハーゼンは膝の上で、匙を動かすように手首を返した。
「カヤは、それなら、その鍋をこっちへ置いてほしいと頼んだ。女将は、卓へ載せたらお前たちが底を空にするだろうと言ったよ。後から来る客もいるんだから、と」
「皆さん、そんなに食べたんですか」
ノンノが目を丸くする。
「よく歩いたからな。ただ、一番食っていたのはペトだった。道では自分がよそう側だったから、皆の分を見た後、自分の量を決めていたんだ」
「自分の分を、少なくしていたのね」
セルマが言った。
「毎回じゃないが、足りん時にはそうしていた。俺たちが気づくと、もう腹は減っていないと言う。宿では、減ってるか聞く前に二杯目を頼んだよ」
ハーゼンは少し笑った。
「だから、誰も止めなかった。女将も、ペトの器には先に足してくれた。あの宿から出る朝にも、同じ卓で飯を食っていた。女将は俺たち五人を前から知っていたが、トーマとはまだ馴染みがなくてな。初めに顔を出した時、ほかの奴はすぐ椅子へ座ったのに、あいつだけ立っていたよ」
ハーゼンは自分の座っている腰掛けへ手を置いた。
「オルドが空いているところへ座れと言っても、皆の並びを見ていた。決まった席があると思ったんだろう」
「なかったのか?」
ガルムが聞く。
「俺は戸が見えるところへ座りたかった。カヤは窓の近く、ベルトは足を伸ばせるところ。だから、似た並びにはなった。だが、そこへ座るなという決まりはない」
ハーゼンは自分の革袋を見た。
「帰った晩は、トーマが先に座った。俺のよく座る椅子だったが、眠っていたから、そのままにした」
「ハーゼンさんは、違うところへ?」
「ああ。ベルトが足を載せようとしていた椅子だ。それしか空いていなかったからな」
ノンノは、先ほど聞いた椅子の話を思い出して頷いた。
「飯を食っていると、女将が戻ってきて、今度の仕事はどうだったと聞いた。オルドは、予定より一日遅れたが、荷は全部届けたと答えたよ。ベルトは橋の話をして、カヤは道に残っていた水溜まりの話をした」
ハーゼンはラウルの方へ顔を向けた。
「途中で女将が、獣は出たのかと聞いた。出なかった、と全員で答えたよ。声が揃ったから、女将が笑った。そんなことまで同時に言わなくていい、と」
「噂になっていたんだろう。荷主も気にしていただろうな」
ラウルが言った。
「ああ。荷を引き渡す時にも、襲われなかったかと聞かれた。オルドは、何も来なかったと答えた。荷主は、護衛を六人にしたから近づかなかったのかもしれんと」
「それは、分からんな」
ラウルの言葉に、ハーゼンも頷いた。
「分からん。だが、俺たちも、何があれば襲われたか試すわけにはいかんからな」
ラウルは頷いた。
「女将は、無事ならいいと話を終えて、空いたパンの皿を台所へ持っていった。すぐに、もう一皿来たよ。最初に手を出したのはトーマだった。起きてからは、よく食っていた。ペトに追いつくくらいな。ベルトが、明日の分まで食うなと言ったら、明日も腹は減ると返した」
「当たり前だけど、言い返せるようになったのね」
セルマの声に、ハーゼンは頷いた。
「それまでは、すまんか、分かったか、その二つが多かった。帰りには、前よりよく話すようになっていた」
彼は少し考えてから付け足した。
「疲れて、黙るところも覚えたがな」
◇
「飯の途中で、オルドが代金を分けた。さっき数えていた金だ。宿代、食料、道具を直した分は先に引いて、その残りを六人で分ける。いつまでも一人の袋へ入れておくと、使うたびに声を掛けなくてはいけない。だから早めに済ませた」
ハーゼンは、自分の革袋の口へ指を添えた。
「トーマは、金を受け取ってからオルドの顔を見た。自分も同じ額でいいのかと言ってな。車を押して、荷を見て、歩いた。それしかしていない、と」
「それが仕事だろう」
ガルムの返事は早かった。
「ああ。オルドもそう言った。途中で投げ出したわけじゃない。自分の番に起きて、見張りもした。荷も届いた。だから、取っておけと」
ハーゼンは、足元へ置いた自分の剣を見た。
「トーマは、一度も抜かなかったと気にしていた。見張りの間、あんなに柄を握っていたのにな。俺は、抜く前に手が疲れたら困ると教えただけで、抜かなかったことは責めんよ」
「それでも、気になったんですね」
リュシアが言った。
「ああ。若い頃には、出来ることを見せたくなる。皆がそれを期待していると思うんだろう。トーマは、一緒に行っても足手まといにならんことを、分かってほしかったんだ」
少し離れたところにいた護衛の一人が、こちらへ顔を向けた。彼も話を聞いていたらしい。
「何も起きずに終わるのが、いい護衛の仕事なんだがな」
「そうだ。ただ、やったことが見えにくい仕事でもある」
ハーゼンは若者の手を思い出すように、自分の右手を開いた。
「カヤが、水溜まりを先に見つけたのはお前だと言った。あのまま入っていたら、荷を下ろして車を出す羽目になったかもしれない。そうなれば、一日遅れでは済まん」
「先を見たのが、役に立ったんですね」
ノンノが言う。
「ああ。だが、トーマは、カヤが一緒に見てくれたからだと返した。自分一人では、深さまで確かめなかったと言って。カヤは、その通りだと答えた。一人で全部出来たとは言わなくていい。ただ、次は水を見つけた後で、車が通れるかも見る。見て分からなければ戻ってくる。教えるのは自分の仕事で、先を見に行ったのはトーマの仕事だとな」
ハーゼンは右手を膝へ戻した。
「二人でやったから、二人とも代金をもらう。それでいいでしょうと、カヤが言った。オルドは、早くしまえと言ったよ。金を見ていても、飯は冷めるからな。それで、ようやく袋を開けた。金を入れて紐を結んだんだが、強く締めすぎて、一度ほどき直していたよ。その間にもペトがパンを取るもんだから、しまい終わるとすぐ皿へ手を伸ばした」
ハーゼンは小さく笑い、革袋から手を離した。
「飯の後で、もう一度金を数えていた。何に使うか、考えていたんだろうな」
「剣を買ったんですか?」
ノンノが尋ねる。
「靴だ。あと、飯を食った。剣はまだ使えるから、金がもっと貯まってからにした」
ガルムが笑った。
「十三日歩けば、先に替えるものも分かるな」
「ああ。出る前には、剣が古いことばかり気にしていたんだがな」
ハーゼンは、布の上へ置いた自分の靴を軽く押した。
「俺も、帰った晩には底を見た。修理に出すと何日掛かるか、皆で話していた。足を休めるより、次に歩けるかを先に考えていたよ」
◇
「明日は休もうと言い出したのは、ベルトだった。椀を空にして、椅子を後ろへ引いたところでな。立ち上がるつもりだったらしいが、やめて座り直した。足が、思っていたより疲れていたんだろう」
「十三日ですものね」
リュシアが言った。
「道では立つ。車が止まっても、荷を見たり、足元を確かめたりする。夜も、誰かが見張る。全員が好きなだけ座っていられるのは、あの卓へ着いてからだった。ベルトは、明日は昼まで寝ると言った。ペトは、朝飯の時間には起きると言う。カヤは靴を直しに行くから、店が開く頃には出る。トーマは、起きられたら起きると答えたよ。まだ眠そうな顔でな」
ハーゼンはラウルの膝にある外套へ、一度目を向けた。
「そこでオルドが帳面を開きかけた。ベルトに、休む話をしているのに何でそれを出すんだと止められたよ。オルドは、明日の仕事を探しているんじゃない、今日受け取った分を書くだけだと返した」
「皆、休むつもりではあったんですね」
セルマが言う。
「ああ。俺も、剣を拭いたら寝るつもりだった。翌朝は靴を出して、その後、何をするかは考えていなかった。女将が来て、明日は朝の鐘が鳴ったら起こすかと聞いた。ベルトは起こさなくていい、ペトは飯が出来たら呼んでくれ。カヤは自分で起きると言った。トーマは、皆が起きたら起こしてほしいと頼んだよ」
ハーゼンは肩を僅かに揺らした。
「女将は俺たちを見回して、それなら最初に起きた者が、ほかの奴を呼べば済むねと言った。ベルトが、それじゃ昼まで寝られんと文句を言う。ペトに、飯を抜くのかと聞かれて、返事をしなかった」
「結局、起きたの?」
セルマが尋ねる。
「起きた。朝飯が出来たと言われたら、ベルトも階段を下りてきた。眠いから少しだけでいいと言ったのに、パンを二つ食っていた」
小さな笑いが起きた。
ハーゼンも笑ったが、すぐに先を続けなかった。手を膝へ置き、昔の卓にいる一人ずつの顔を確かめるように、視線を少し動かす。
「旅の途中なら、飯の後も仕事がある。荷を見に行ったり、見張りを替わったりな。だが、その晩は誰も席を立たなくてよかった。カヤが窓の外へ顔を向けても、すぐ戻して、またパンを取っていた」
ハーゼンの指が、膝の上でゆっくり開いた。
「同じように明日の話をしていた。でも、起きたら誰が先へ出るか、見張りをどんな順で替えるか、その話はしなくてよかった」
ハーゼンは言った。
「俺は、ベルトがうるさいから早く寝ろと思っていた。ペトが食い続けるから、もう鍋は空じゃないかと聞いた。カヤが笑って、空でも女将なら何か出してくれると言ったよ」
「出してくれました?」
ノンノの問いに、男は頷いた。
「出した。残っていた芋を、塩で焼いてな。ペトが、それも食った」
「本当に、お腹が空いていたんですね」
「ああ。食って、喋って、また食った」
その声が、少し低くなった。
「俺たちは、無事に帰ったと、一度だけ言った。それからは、飯の量や靴のことばかりだった。次の日にも、次の仕事にも、皆がいるつもりで話していたんだ」
◇
ガルムは、ハーゼンの方を見ていた。
階段の上から声が聞こえた時にも、すぐには顔を向けなかった。セルマが一度見て、違うと分かると、そのまま男の話へ戻る。
「その後も、六人で仕事をしたんだろう」
ガルムが尋ねた。
「ああ。何度もした。次の朝に、オルドがまた荷主へ会った。出るのは数日先だったから、その日は休めたよ」
「休むと言った次の日に、もう仕事を取ったのか」
「皆に言われた。オルドは、今日出るとは言っていない、靴を直す間に次を決めただけだと返した」
ハーゼンが笑う。
「俺も、悪くないと思った。先の仕事が決まれば、休んでいる間の飯も安心して食える。ペトも同じことを言っていた」
それから、男は窓の方へ目を向けた。
「六人で歩いた道は、ほかにもある。獣が来たことも、荷が壊れたことも、急いで引き返したこともな。あの仕事より、高い代金をもらったこともある」
「それでも、その晩をよく覚えているんですね」
リュシアが言った。
「ああ」
ハーゼンは頷いた。
「大したことがないから、長く話すつもりはなかったんだが。話し始めると、一つずつ出てくる。トーマが器を持ったまま眠りかけていたこと。カヤが靴の紐を結び直して、寝るだけなら結ばなくていいと笑われたこと。ペトが、鍋の底を見に台所まで行ったことも」
男の口元に、また小さな笑いが残った。
「女将は、まだあるから座っていろと怒った。オルドは金を数えながら、静かにしてくれと頼んだ。俺は隣のベルトと、どっちが卓の脚へ足をぶつけたか言い合っていた」
「どっちだったんだ?」
ガルムが聞く。
「俺だ」
セルマが笑った。ハーゼンも笑い、すぐに静かになった。
「分かっていたよ。俺の膝が先に動いたから。ただ、ベルトの足もそこにあったと言い返した」
「長く一緒にいると、そんなことまで言うのよね」
セルマが言った。
「ああ。言っても、次の日には忘れる。忘れたまま、また一緒に歩く」
ハーゼンは短い剣を見た。
「そのうち、歩く組も変わった。ベルトは膝を悪くして、街の門で仕事をするようになった。俺たちを見送る側になったんだ」
ガルムの表情が僅かに変わる。
「一緒に、来なくなったのか」
「遠くへはな。街の仕事なら、何度か組んだ。門で会えば、また同じように文句を言ったよ。今日は歩かなくていいくせに、早く戻ってこいとな」
ハーゼンは水袋を引き寄せ、一口飲んだ。ガルムは続きを待っている。
「カヤは、別の組を率いるようになった。道を見るだけじゃなく、荷主と話して、自分で人を集める。俺たちが宿へ戻った時、あいつらはもう出た後、ということも増えたよ。ペトは宿の台所へ入った。道で飯を作るより、腰を落ち着けて働きたくなったんだろう」
ハーゼンは、向かいに座るドランへ顔を向けた。
「ペトのところへ食いに行くと、今度は金を取られた。道では無料で食わせたと文句を言ったら、その分も取ればよかったと返された」
「そこでも、仲間に会えたんですね」
ノンノが言った。
「会えた。皆がいなくなったわけじゃない。ただ、一度に六人揃うことは、少なくなった」
ハーゼンは、向かいの腰掛けへ目を向けた。
「トーマが、若いのを連れて仕事へ出るようになった頃には、俺も長く歩かなくなっていた。あいつの連れが、剣を抜く機会がなかったと気にしているのを聞いて、トーマと二人で笑ったよ」
「同じことを、言ったんですね」
ノンノが言うと、ハーゼンは目を細めた。
「ああ。俺たちに言われた通り、荷は届いたか、番には起きたかと聞いていた。その若いのは、ちゃんとやったと答えた」
ハーゼンは、そこで深く息をついた。
「よく覚えているなと言ったら、忘れたら同じ組で歩けんと返された。俺も、そんなことを言ったんだろうな」
◇
ドランが、自分の包みをもう一度開いた。
「今なら、少し食うか」
ハーゼンがそちらへ顔を向けた。ドランはパンの端を持ち上げていた。
「話し続けていると、口が乾くだろう。水もある」
「乾いているところへ、パンか」
「水もあると言っただろう」
ハーゼンが笑った。
「そうだな。少し、もらおう」
ドランは残った半分から、小さくちぎった。ハーゼンはそれを受け取り、すぐには食べず、両手で一度割った。
ラウルが水袋を差し出したが、ハーゼンは自分の分があると答える。水を飲み、それからパンを口へ入れた。
ガルムは、その手元を見ていた。
「皆が、別の仕事へ移ったんだな」
「ああ。飯を食う仕事が、変わっただけだ。そちらの方が合う時もある。ベルトは膝を痛めたが、門なら長く続けられた」
「あの晩は、いずれ別々の仕事をするなんて、思わなかったんだな」
「ああ。思いもしなかった」
ハーゼンははっきり答えた。
「その夜は、次も六人で出るつもりだった。実際、また出た。だから、あの卓へ座れたことを、一度きりのようには思っていなかった」
パンを食べ終え、指についた屑を払った。
「店が変わる。仕事が変わる。誰かが休んで、代わりに別の奴が来る。会おうと思えば会えると、長いこと思っていた。それは本当でもあったからな」
ノンノはアニカの籠へ目を向けた。その傍には、ドランが包みを膝へ載せて座っている。二人とも、ハーゼンが話し始めた時と同じ場所にいる。
ハーゼンの足元には、脱いだ靴が揃えてあった。
「でも、戻ってきた晩のことは、あの晩のままなんですね」
ノンノが言う。
男は彼女を見た。
「ああ」
その返事は、短かった。
「俺が思い出すと、トーマはいつも眠そうで、ペトはいつも食っている。ベルトは足の置き場を探して、オルドは金を数えている。カヤは、俺たちを見て笑ってる」
ハーゼンの視線が、最後に自分の膝へ落ちる。
「俺は、その中に座ってる」
ノンノは、次を尋ねなかった。
ガルムも黙っていた。笑いながら聞いていた時より、身体が前へ寄っている。セルマは畳んだ外套へ手を載せ、階段を見ることも忘れていた。
ハーゼンが、剣を持ち上げた。
身体をずらすためだった。腰掛けの端へ少し寄り、自分の袋を足元へ収める。動きが終わると、また膝へ手を置いた。
「いろいろあったが、あの旅では、一度も誰かの場所を空けなくて済んだ」
男は言った。
「十三日歩いて、六人で同じ卓へ座った。俺は帰る間、早く終われと思っていたんだ。飯を食ったら寝る。翌朝には靴を直す。その程度の晩だった」
唇の端が、少しだけ上がった。
「いい晩だったよ」
◇
ガルムが、水袋を持った。
口をつける前に、セルマの方を見る。セルマも視線を返したが、何も言わなかった。
水を飲んでから、ガルムはハーゼンへ顔を戻した。
「俺たちも、似たような飯の食い方をしていた」
「ああ。さっきも言ってたな」
「帰り道では、肉を食うと決めていた。店へ着いて頼んだら、ニルスが一口くれと言うんだ。自分も同じものを頼めばいいのに」
セルマが小さく笑った。
「違うものも食べてみたかったのよ。あなたも、あの人の皿から取っていたでしょう」
「俺は先に聞いた。あいつは、返事を待たずに取った」
「それで、まだ覚えているの?」
「一口だけだと言って、一番大きい肉を食われたからな」
ラウルがそこで、僅かに笑った。
「お前が目を離したからだろう」
「それで取る方が、悪い」
三人の会話は短かった。
ハーゼンは笑いながら聞いていた。エルディアスは黙ったまま、ガルムの顔を見ていた。
ガルムは膝へ手を戻した。
「今度会ったら、まだその話をしてやるつもりだ。あいつは、自分が食ったことくらい忘れてるかもしれんが」
セルマは頷いた。
「覚えていたら、今度も一口頼むかもしれないわね」
「断る」
ガルムはすぐ答えた。
その声に、ノンノの顔も少し緩んだ。
ラウルが視線を上げ、階段を見た。上から船員が一人下りてくる。寝ている客の多い部屋へ入る前に足を止め、起きている者へだけ届く声で話し始めた。
「この先で、一度港へ入ります。降りる方への案内は、着く前にお知らせします」
ガルムが立ち上がった。
「途中で、止まるのか」
「はい。支度の必要な方は、荷をまとめておいてください」
「この部屋にいない客にも、知らせるんだな」
「順に回っています。上の通路でもお伝えします」
船員は奥へ進み、起きている客へ同じように知らせた。
ラウルがガルムの隣へ立った。
「降りる客が動く。その時に、もう一度探そう」
「ああ。今まで船室にいたなら、出てくるかもしれん」
セルマも外套を持った。ノンノは眠っているアニカを見て、すぐには声を掛けなかった。
ドランが自分の包みを閉じる。
ハーゼンは床へ置いた靴を引き寄せた。片方へ足を入れ、踵を収める。もう片方も履いてから、紐を結んだ。
「ハーゼンさんも、上へ行くんですか?」
ノンノが尋ねる。
「少し、港を見てこようと思う」
男は答え、膝の上に手を置いたまま腰掛けから立った。さっき話していた若い自分とは違い、その動きには少し時間が掛かった。
だが、立ち上がった後は真っ直ぐだった。
「話を聞いてくれて、ありがとうな」
「俺たちの方こそ」
ガルムが答える。
「六人のことが、よく分かった。トーマが靴を買った話もな」
ハーゼンは笑い、外套を木の鉤から外した。
階段の前では、別の客も立ち上がり始めていた。袋を持つ者、家族へ声を掛ける者、まだ座ったまま支度を待つ者。その間を、船員がゆっくり歩いていく。
アニカが目を開いた。
周囲の動きへ顔を向け、ノンノを見つける。
「何かあったの?」
「この先で、港へ入るそうです。降りる方には、また知らせるって」
「そう」
アニカはすぐには起き上がらなかった。外套の端を胸元へ寄せ、少しの間、話を聞いた顔のまま横になっていた。
ドランは包みを膝へ載せている。
ハーゼンは紐を結んだ靴で、階段へ向かった。
エルディアスは三人の様子を見てから、ラウルたちへ続いた。リュシアも隣へ並ぶ。
上の通路へ出ると、船員に知らされた客が何人も窓へ顔を向けていた。外はまだ暗い。灯りを背にし、ガラスへ近づくと、向こうに小さな光が見えた。
一つではなかった。低い位置へ並んだ光の間に、水面へ映るものがある。
「港だな」
ガルムが言った。
その傍で、ハーゼンは何も言わずに外を見ていた。
六つの器の話は、そこで終わった。誰かの声を聞きたくなったように、ガルムが窓から離れ、動き始めた乗客の方へ顔を向けた。




