第95話 麦香
汽笛の音が遠ざかっても、甲板の床には低い振動が残っていた。
港の灯りは船尾の向こうで小さくなり、やがて幾つかの光が重なって、街と河の境が分からなくなった。手摺の下では白い波が立っている。その先へ目を向けても、水が流れているのか、船がどれほど速く進んでいるのか、暗さの中では確かめようがなかった。
ノンノは手摺から片手を離し、頬へ張りついた髪を耳の後ろへ払った。
「向こうの岸、もう見えませんね」
「灯りのないところは、さっきから見えてない」
「はい。でも、街の灯りがあった時は、あの辺りが岸だって分かったので」
エルディアスも船尾へ目を向けた。最後まで残っていた灯りが、河の曲がり角に隠れたのか、今は一つも見えない。
代わりに、船の窓から漏れた明かりが、すぐ下の波を照らしていた。光の中へ浮かんだ水が後ろへ流れ、次の波がまた同じ場所へ入る。その繰り返しを見ているうちに、ノンノが少し顔を上げた。
「中へ戻ってもいいですか。ずっと下を見ていると、変な感じがします」
「戻りましょう。風も冷たくなってきましたから」
リュシアが答え、甲板の奥にいるラウルへ声を掛けた。
ガルムとセルマは、船員の作業を避けながら、そこにいる乗客の顔を確かめていた。年配の男が振り返るとガルムが足を止め、違うと分かると、また先へ進む。期待しては外すことを、何度も繰り返している。
「ここにはいないな」
ラウルは三人が寄ってくるのを待ち、扉へ目を向けた。
「もう一度、中を見よう。さっきは客が動いていて、見落としたかもしれない」
「ああ。座ったなら、顔も見られる」
ガルムが答えた。セルマは自分の腕を軽く擦り、ノンノの隣へ並ぶ。
「寒かった?」
「少しです。砂漠では、日が沈んでももっと暑かったのに」
「船だと風を受けるからね。無理して外にいなくていいのよ」
ノンノが頷く。護衛の二人と調査員も続き、九人は船内へ戻った。
◇
扉を閉めると、水音と風が遠くなった。
通路は乗船直後より歩きやすくなっていた。腰掛けに座った人々の足元には袋や籠が寄せられ、肩に掛けていた外套を畳んで膝へ載せる者もいる。子どもに靴を脱がせている女の傍を、湯の入った器を持つ男がゆっくりと通った。
ガルムは腰掛けの列を見ながら歩き、男と女の二人連れには特に目を留めた。ラウルもその隣で、人々の顔を一つずつ確かめている。
通路の端で船員に二人の名を伝えたが、心当たりはないという返事だった。船室を一つずつ尋ねて回ることもできず、客の集まる場所を教えてもらう。
「この先に食事をする部屋があります。まだ召し上がっていなければ、そちらへどうぞ」
「今からでも食えるのか」
「はい。鍋を下げるまででしたら」
船員の示した方から、器の触れ合う音が届いていた。
ラウルはそちらへ向きかけ、ガルムを見る。
「食堂も見よう。それでいなければ、一度休む」
「俺はまだ歩ける」
「歩けるのは分かってる。だが、同じところを何度も回っても、客が動かなければ見つからん」
ガルムは通路を振り返った。さっき顔を確かめた老人が、外套を枕にして横になりかけている。次の列にも、もう眠っている者がいた。
「……そうだな。食堂を見てからにしよう」
セルマも頷き、三人は先へ進んだ。
途中で荷を置いた場所へ戻ると、調査員は記録の包みを、護衛二人は背負い枠を持ち上げた。食堂が使える間は、そちらへ荷も寄せてよいと船員に聞いたらしい。エルディアスたちも袋を背負い、列の後ろにつく。
部屋の入口へ近づくにつれ、温かな匂いが濃くなった。肉と野菜を煮た汁の匂いに、焼いた麦の匂いが混じっている。
ノンノの耳が、少しだけ前へ向いた。
「パンもありますね」
「よく分かったな」
「匂いがします。エルさんも分かりませんか?」
「今、分かった」
扉の先には長い卓が何列も並んでいた。丸い灯具が天井から下がり、窓際の卓には、外が見えるよう顔を向けている客もいる。窓の向こうは暗かったが、室内では汁をすする音や、旅の話をする声が重なっていた。
入口に近い一角には、食事の済んだ器を返す台がある。その奥で、白い布を頭へ巻いた女が鍋から汁をよそい、隣の男が籠からパンを取っていた。
ガルムは卓の間を見回し、一番奥まで顔を確かめた。セルマも窓際へ目を向ける。
「いないわね」
「ああ」
ガルムの返事は短かった。ラウルは空いている卓を見つけ、荷を壁際へ寄せる。
「座ろう。食べながら、ここへ来る客を見ればいい」
ガルムも今度は反対しなかった。
◇
食事は乗船料に含まれていた。順に器を受け取り、パンを一つずつ取って卓へ戻る。
煮込みには小さく切った根菜と豆、それに肉が入っていた。運んでいる間にも表面へ薄い膜ができ、匙を入れると、その下から湯気が上がる。パンは平たい楕円形で、上に浅い切れ目が一本あった。
ノンノが椀を両手で抱え、匂いを吸い込むように顔を寄せた。
「温かいもの、食べられると思ってませんでした」
「港では宿を探すだけだったからな」
エルディアスも腰を下ろした。隣でリュシアがパンを割る。薄い皮がぱり、と音を立て、柔らかな中身から僅かに湯気が出た。
その音に、向かい側から目が向けられた。
卓の端には、先に食事をしていた男が一人いた。年は五十を過ぎたくらいだろうか。短い髪には白いものが混じり、袖を捲った腕は太い。彼の前にも同じパンが置かれていたが、切れ目に沿って開いたまま、まだ食べていなかった。
男はリュシアの手元を見てから、自分のパンの底を指で押した。
「そっちは、ちゃんと焼けてるな」
リュシアが顔を上げる。
「こちらですか?」
「ああ。俺のは少し下が詰まってる。同じ籠から取ったんだが」
男はパンを傾けて見せた。エルディアスには、言われなければ分からない違いだった。リュシアは断面を見て、少し頷く。
「少し、湿っていますね。でも、食べにくいほどではなさそうです」
「それはそうだ。焦げてもいないしな」
男は皮を小さく割り、口へ入れた。ゆっくり噛んで飲み込んでから、またパンの底を見る。
「窯の奥と手前で、焼け方が違うんだろう。途中で位置を替えればいいんだが、これだけ客がいれば、手も回らんか」
「パンを焼くお仕事なんですか?」
ノンノが尋ねると、男は自分の指についた粉を親指で払った。
「長いことな。ドランだ。あんたらは一緒の旅かい」
「はい。わたしはノンノです。こちらはエルさんと、リュシアさん」
三人が名を伝えると、ラウルたちも続いた。ドランは九人の顔へ順に目を向け、調査員の記録板を見たが、何を書いているかまでは尋ねなかった。
「大所帯だな。食事も九人分となれば大変だ」
「今は、一人分ずつ用意してもらえますから」
リュシアが答え、椀へ匙を入れる。
「普段は、あんたが作るのか」
「三人で仕事をする時は、私が作ることもあります」
「なるほど。それで切り口を見たのか」
ドランは納得したように頷いた。自分のパンを二つに割り、詰まっていると言った部分を煮込みへ浸す。
ノンノはその様子を見ていたが、手元のパンを持ち上げてドランへ差し出した。
「わたしのと替えますか。わたしは、そんなに気になりませんから」
「いや、こいつでいい」
「でも、さっき」
「焼き方が気になっただけだ。食えないと言ったんじゃないよ」
ドランは汁を吸った一口を食べた。
「ほら。こうすれば柔らかい。麦の味もする」
「……じゃあ、わたしもそうします」
「最初はそのまま食べてみな。せっかく、そっちはよく焼けてるんだから」
ノンノは差し出しかけたパンを戻し、小さくちぎった。噛むと、頬の動きが少しゆっくりになる。
「皮のところ、香ばしいです」
「そこがうまいんだよ」
ドランの声が僅かに弾んだ。
食事を始めても、ガルムは入口へ目を向け続けていた。次の客が入るたびに匙が止まり、違うと分かれば、また椀へ戻る。ドランもその視線を追い、扉へ顔を向けた。
「連れが、まだ来てないのか」
「二人、探している。乗るところを見たんだが、中で見失った」
ガルムが答える。ドランは少し身を起こした。
「男と女か?」
「ああ。ニルスとクラリスという。俺たちと同じくらいの年だ」
「名前は聞いてないな。こっちへ来てから何組かは見たが」
ガルムは、二人の背丈や顔の特徴を伝えた。ドランは一つずつ聞き、やがて首を横に振る。
「すまん。覚えがない。見かけたら、あんたらがここにいると伝えよう」
「頼む」
「席へ着く時も、顔を見ておくよ」
ドランはそれだけ言うと、食事へ戻った。余計な事情を聞かれなかったためか、ガルムも椀を持ち直した。
ラウルが低く礼を言い、セルマはガルムの近くへパンの籠を寄せる。空いていた椀の中へ、ようやく匙が続けて入った。
◇
ドランは、自分のパンを最後まで食べた。
器の底に残った汁も、小さなかけらで拭うようにして口へ運ぶ。そうして指を布で拭いた後、ノンノがパンの皮を残していないことへ気づき、嬉しそうに頷いた。
「いい食べっぷりだ」
「お腹が空いていたので」
「そういう客が来ると、こっちも張り合いがある」
「ドランさんのお店でも、こういうパンを売っているんですか?」
「もっと丸くて、大きいのを焼いてた。一つ買えば家族で食えるくらいのな。あとは細長いのと、粉を替えた黒いの。甘いのは、毎日は作らん」
「甘いパンも作れるんですね」
「そりゃあ、作れるよ。作れるが、材料が高い」
ノンノは空になった椀を脇へ寄せ、少し前へ身を乗り出した。
ドランは食事を終えた指を広げた。爪は短く切られ、関節は太い。指先で卓を押すと、薄く残っていたパン屑が小さく動いた。
「蜂蜜を入れて、乳と油脂を使う。いつもの生地と同じに扱うと、外だけ焼けて中が重くなる。火を見ながら待たないといけない」
「沢山買ってくれるお客さんがいる時に、焼くんですか?」
「ああ。祝い事で頼まれたりな。うちの娘が嫁に行く時にも焼いた」
その言葉で、ドランは少し顎を上げた。
「それは、大きなものを?」
リュシアが尋ねる。
「大きくした。大きくしすぎたな」
男は両手で、卓の上に輪を作ってみせた。九人の椀を幾つも並べられそうな幅だった。
「それ、窯に入るんですか」
ノンノが輪とドランの顔を見比べる。
「ぎりぎりだ。出し入れする板も、いつものじゃ足りん。大工に頼んで作ってもらった」
「パン一つのために?」
「あの時は、ほかのものを作る気にならなかった」
ドランは自分で可笑しくなったのか、鼻から短く息を抜いた。
「先に板を作ったものだから、失敗しても小さくできなくてな。窯へ入る幅を測って、紙に線を引いて、毎晩そいつを見てた」
「毎晩?」
「昼は売り物を焼かなきゃならん。店を閉めてからだよ。試し焼きも、その後だ」
「娘さんも、手伝ってくれたんですか?」
「最初は知らん顔をしてた。祝いの席で出すものだから、見せたくなくてな。ところが、店を閉めた後も煙が出てるだろう。何をやってるか、すぐ分かったらしい」
ドランは少し声を変え、娘の言葉を真似た。
「父さん、家の台所へ来ないでどこで夕飯を食べてるの、ってな」
「食べていなかったんですか?」
リュシアが尋ねると、男は僅かに目を逸らした。
「試しに焼いたのを食ってた」
「それだけでは、疲れてしまいますよ」
「娘にも同じことを言われたよ。おまけに、あの子は失敗したやつまで持って帰った。よく焼けてる、なんて言いながら」
「失敗したのに?」
「中が生だったわけじゃない。形が気に入らなかったんだ。片方だけ大きく膨らんだり、飾りが割れたりな。切れば同じだと言われたが、祝いの席で切る前から不格好じゃ、俺が困る」
ガルムがそこで、椀から顔を上げた。
「客が食う前に、自分が気に食わんのか」
「商売柄、そうなる。あんたも、斧を研ぐなら、欠けが残っていてもいいとは言わんだろ」
「まあな」
「それと同じだよ」
ガルムは頷き、脇へ置いた自分の斧へ一度目を向けた。ドランの大きな手が、卓の上で丸いパンを作るように動く。
「本番のは、きれいに焼けた。上に花を付けたんだ。生地を薄く延ばして、重ねてな。娘の連れ合いが、食べていいのか分からんと言っていた」
「食べてよかったんですよね?」
「食わなきゃ困る。飾っておくために、あんな大きなものを焼いたんじゃない」
ノンノが笑う。セルマも、まだ少し残っていたパンを手に取った。
「娘さんは、喜んだでしょうね」
「ああ。よく笑ってた」
ドランの手が止まった。
「最初に俺の分を切ってくれた。だから、自分が食ってから人に配れと言った。父さんがまだ味を見てないから、って返されたよ」
「味見はしていたんですか?」
「試しのはな。本番のは切れんだろう」
「じゃあ、娘さんの言う通りですね」
「そうだな」
ドランは素直に頷いた。
エルディアスは卓の向こうを見た。食事を終えた客が二人、空いた器を重ねて立ち上がる。その隣では新しく来た家族が席を探していた。ガルムも顔を確かめたが、今度はすぐに視線を戻した。
卓の上で、ノンノがドランの作った輪を真似ていた。
「わたし、それを食べてみたかったです」
「あの大きさでは、しばらく焼きたくないな」
「小さいのでいいんです。お花も、一つで」
「花がなくても、味は変わらんぞ」
「でも、見てみたいです。そんなに練習したんですから」
ドランは困ったように口の端を上げた。
「娘も言ってた。次に焼く時は、全部の花を同じ大きさにしなくていいと。少しずつ違った方が、庭に咲いてるみたいだそうだ」
「その方が楽になりますか?」
「いや。どこまで違ってもいいか、また悩む」
今度はリュシアも笑った。
◇
食事の済んだ器を返しに行く時、ドランは自分の椀だけでなく、手の届くところにある空の椀も集めた。
リュシアが立ち上がり、重ねすぎないよう二つを受け取る。ノンノも自分の椀を持った。
「ここで置いておいても、後で片づけるそうですよ」
「分かってる。だが、向こうも忙しそうだからな」
ドランが台の方へ顎を向けた。汁をよそっていた女は鍋の底へ匙を入れ、残りの量を確かめている。パンを渡していた男も、空になった籠を奥へ下げていた。
「俺の店でも、皿を返してくれる客はありがたかった。全部の卓を一人で回らなくて済む」
「お店で食べることもできたんですか?」
「入口の脇に、細い台があった。立って食う奴がほとんどだ。朝は、そこで焼き上がりを待つ客もいた」
三人は器を台へ置き、卓へ戻った。ガルムたちは、まだ席にいる。ラウルが、入口から入ってきた船員へ次の食事の時間を尋ねていた。
ドランは椅子へ座り直し、空になった籠の底に残る屑を見た。
「娘も、よく台の下へ潜ってた。客の足元にいると危ないから、奥へ行けと言うんだが、焼けた匂いがすると戻ってくる」
「小さい頃から、パンが好きだったんですね」
「どうだかな。出来上がるまで、こっちを見てた」
「待てなかったんじゃないですか?」
「そう思って、焼けたのを渡したこともある。ところが、持って帰らずに食い始める。店先で食べるなら台へ載せろと言えば、そこじゃないと言い出す」
ドランは膝へ目を落とした。
「座って食いたかったらしい。俺が帳面をつける椅子が一つあったが、そこへ一人で座るのも嫌がった」
「どうしたんですか?」
「膝へ載せた。こっちは仕事が残ってたから、片手で帳面を書く羽目になった」
言いながら、男の腕が腹の前へ回った。そこに何かを支えるように肘が曲がり、右手だけが卓へ出る。ずっと昔のことを話しているはずなのに、その動きには迷いがなかった。
「粉のついた服へ、パン屑までこぼすんだよ。掃除が済んだ後だというのに」
「怒りました?」
「掃いたばかりだぞ、とは言った。あの子は、食べ終わったら掃くからと言ったな」
「ちゃんと掃いてくれたんですか?」
「箒は持った。ただ、箒の方が大きかった」
ノンノの視線が、卓の下へ落ちた。小さな子が、柄の長い箒を動かすところを思い浮かべたのだろう。耳が横へ少し広がる。
「屑が、あっちへ行ったり、こっちへ戻ったりな。途中で俺がやると言うと、自分がこぼした分だからと譲らん。結局、二人でやった」
ドランは卓の屑を指先で寄せた。小さな山ができる。
「店を閉める頃には、眠そうだったんだがな。パンを食い終わるまで、帰ろうとしなかった」
「お店のパンなら、家にもあったんでしょう?」
ノンノの問いに、ドランはすぐには答えなかった。
椅子の背へ身体を預け、食堂の向こうへ目を向ける。子どもを抱いた男が、家族の待つ席へ歩いていた。腕の中の子は眠りかけ、父親の襟を小さな手で握っている。
「あったよ。家へ持って帰る分は、毎日取っておいた」
ドランはその親子から視線を戻した。
「だから俺も、そう言ったんだ。家なら母さんと食えるだろうって」
「何て言われたんですか?」
「その時は、ここで食べるのがいいとしか言わなかった」
彼の指が、小さな屑の山を崩した。
「婚礼の日に、その話をされたよ。菓子パンを焼いた時のことより、そっちの方を長くな」
ラウルが卓へ戻ってきた。船員は、食事の終わった客へ順に休める場所を案内している。九人も一度荷の傍で休み、その後、客の動きが落ち着いたところをもう一度探すことになった。
ガルムが袋を持ち上げ、セルマも立ち上がる。ノンノはドランへ目を向けたまま、椅子を引いた。
「そのお話、また聞いてもいいですか?」
「娘が、婚礼で何を言ったか?」
「はい。ここのパンと、家のパンで、何が違ったんだろうと思って」
ドランは少し笑った。
「パンは同じだよ」
「そうなんですか?」
「ああ。同じ窯で、俺が焼いた」
ノンノが考える間に、リュシアが背負い袋を渡した。ドランも椅子の脇に置いていた小さな包みを取り、立ち上がる。
「俺も通路へ戻る。場所が近ければ、そこで話そう。あんたらの探している二人も、見られるしな」
「ありがとうございます」
ガルムが礼を言った。ドランは片手を上げ、器を返す台の脇を通った時には、食事を出していた女にも声を掛ける。
「うまかったよ。ごちそうさん」
女が顔を上げ、空になった鍋の向こうから笑った。
ノンノはドランの少し後ろを歩いていた。食堂を出る前に一度振り返り、彼の座っていた椅子を見る。その下にはパン屑が僅かに落ちていたが、もう卓の上には何も残っていない。
通路へ出ると、煮込みの匂いが薄れた。床の振動は変わらず、壁の向こうからは水の流れる音が聞こえる。窓へ目を向けても、外は暗いままだった。
ドランは通路の端へ寄り、後ろから来る人を先に通した。その間、小さな包みを抱え直す。布の隅が開き、中に入っていたパンの端が見えた。
「それ、食堂のですか?」
ノンノが尋ねる。
「ああ。残っているパンは持っていっていいと言われた。後で腹が減るかもしれん」
「もう一つ、もらったんですね」
「一つは全部食ったからな」
男は布を閉じた。パンが潰れないよう、指を添えて包みの底を支える。
エルディアスは、その手つきを見ていた。食堂で膝へ載せていたものを思い出すように曲がった腕と、よく似た形だった。
前から来た乗客のためにラウルが足を止める。ガルムとセルマが顔を確かめ、二人ではないと分かってから、また歩き出した。
ドランもその後へ続く。ノンノは隣へ並び、まだ尋ねたいことを一つずつ考えているようだった。
船の壁の向こうでは、水音が続いていた。ノンノがドランの隣へ寄ると、布包みから、焼いた麦の匂いが僅かに届いた。




