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第93話 再見

 最初の宿は、門から二本目の通りにあった。


 一階に明かりがつき、戸口の脇に泊まり客用の荷置きがある。九人で入ると、帳場の男が目を上げた。後ろでは、二階へ向かう階段を客が荷物を抱えて上がっていく。


「今夜、部屋は空いているか。九人いる」


 ラウルが尋ねると、男はすぐに首を振った。


「ごめんなさいね。一人分もない。さっき最後の寝台が埋まったところだ」


「床を借りるだけでもいいんだが」


「通路へ荷を並べるわけにはいかない。うちより奥の、大きな宿を当たってみてください」


「あちらも混んでいるのか」


「さっきうちへ来た人は、別の宿もいっぱいだと言っていた。空きがあるかは分からないけど、九人なら早めに聞いた方がいい」


「分かった。ほかへ行ってみる」


 男は気まずそうに帳面を閉じた。背後の食堂ではまだ空いた席があるのに、二階の寝台だけは本当に埋まっているらしい。


 外へ出ると、通りに吊るされた灯具が一つずつ点き始めていた。陽は建物の向こうに残っている。道には人が多く、並んで歩けるのは二人がやっとだった。


「大きな宿って、どっちでしょう」


 ノンノが道の左右を見比べる。


「店の人に聞こう。ここを勝手に探すより早い」


 リュシアは近くの布屋へ声を掛けた。店の女は畳んでいた布から手を離し、通りの先を指す。


「角に食べ物を売る店があるだろう。その向こうを右。二階に窓がたくさん並んでるから分かるよ」


「ありがとう」


「今夜は空いてるといいけどね」


「ほかの宿も、そんなに混んでいるんですか」


 ノンノの問いに、女は大通りの人の流れを見た。


「ここ何日かは旅の人が多いね。大勢で入れる部屋となると、余計に難しいかもしれない」


「ありがとうございます。先に聞いてきます」


 女は布を抱えて店の内へ戻った。ノンノは最後の言葉を聞いてリュシアを見る。


「ここも、埋まっているかもしれませんね」


「まだ聞いていませんから。先へ行きましょう」


     ◇


 二軒目の宿は確かに大きかった。


 外壁に窓が二列並び、戸口の前には宿泊客が荷を下ろせる長椅子が置かれている。建物へ入る前から料理の匂いが漂い、階段の奥を人が行き来する声も聞こえた。


「よさそうじゃないか」


 ガルムが長椅子へ手を掛ける。しかし帳場に座っていた女は、九人を見て眉を寄せた。


「夕食なら出せる。泊まりは……一人だけなら空いているよ」


「一人か」


 ラウルが繰り返す。


「九人が別々でも、近くに寝る場所はないか」


「ここで空いてるのが一つ。道の向こうも、昼から荷の人たちが入ってる。今から探すなら、港寄りの宿へ行ってみな」


 女は空いている寝台の札を指で裏返したが、ラウルが要らないと伝えると戻した。


 通りへ出ると、ガルムが息を吐いた。


「一人だけ泊まってもな。残りが外なら、俺も外にいる」


「あなたなら、床でも平気でしょうけど」


 セルマの言葉に、ガルムは顔をしかめた。


「俺だって、寝台があれば使う」


「一つしかないんだから、今夜は全員で別を探しましょ」


「一人分だけなら、あの人が使えばいいんじゃないですか」


 ノンノが女性の調査員へ目を向けると、当人は首を横に振った。


「皆さんが荷を持って外で寝るのに、私だけここには残れません。先を当たりましょう」


「だよな。九人で入れるところを探す」


 ガルムがようやく長椅子から手を離した。


 ノンノが小さく笑った。荷を背負ったまま三軒目を探す気力が少し戻ったらしい。通りの端には夕食のための台が並び、鍋から湯気が上がっていた。人々は宿を探す九人と擦れ違いながら、品の値を尋ねたり、皿を受け取ったりしている。


 屋台で焼いた肉を買う者がいて、ノンノは鼻を動かした。


「食べてから探してもいいですか」


「見つけてからの方がいい。荷を下ろせるから」


 エルディアスが答える。


「三軒目もいっぱいだったら?」


「その時は食べながら、別の寝床を考える」


「それなら、三軒目まで頑張ります」


 リュシアが二人を振り向いた。


「人が多いところでは、立ち止まるだけでも大変です。もう一軒聞いてからにしましょう」


 ノンノは頷き、通りの人を避けて彼女の後へついた。


 周囲には、荷を下ろしたばかりに見える者も、手ぶらで急ぐ者もいた。河で荷を受ける街だからか、往来が夜の前に収まる気配はない。狭い路地の向こうでは、開いた窓から歌声が聞こえてくる。門の外で列にいた人たちの静けさを、ノンノはもう少しで忘れそうになった。


     ◇


 港寄りの宿でも、泊まる場所はなかった。


 主人は入口の札を指してから、九人へ申し訳なさそうに頭を下げた。裏の小部屋も埋まり、食堂の床には明日の朝に出発する客の荷が並んでいるという。


「急に客が増えたのか」


 ラウルが尋ねると、主人は首を傾げた。


「船が出るまで滞在する人が多いんだろうね。船着き場を通ってみれば分かるよ」


「船の出航が遅れているのか」


「この数日は河が高いからね。今夜出ると言っている大きな船がある。あれに乗る予定の人が、街を歩いているのさ」


「小さな舟は止まっていた。この大きな船だけは出るのか」


 エルディアスが尋ねると、主人は再び首を傾げた。


「そこまでは知らないよ。毎日出る、出ないと話が変わってる。今夜と言い始めたのも、今日になってからだ」


「行先は聞いているか」


「客は船がいつ出るかばかり聞くもんでね。船着き場で確かめておくれ」


 船を待つ者と宿の満室がつながる。ラウルは主人へ港への道を聞いた。通りを下っていけば、大きな船は人に聞かずとも見えるという。


「どれほど大きい?」


 ガルムが尋ねたが、主人は手を横へ振った。


「ここから話すより、見れば早い。屋根より上に煙突が出てるよ」


 宿を離れると、セルマが港へ向かう道の人混みを眺めた。


「もう暗くなるわ。港まで行ってから泊まる場所を探し直すの?」


「まず船の行先と、今から乗れるかを聞こう。乗れないなら、港の近くで宿を探し直す」


 ラウルは護衛の二人にも確認した。夕方から動けなくなるほど疲れた者はいない。ただ、一日背負った荷をいったん下ろしたい気持ちは全員同じだ。


「この街から、どこへ行く船なんでしょうね」


「港に着けば分かるだろ」


 ノンノは頷き、リュシアと共に港へ向かう人の流れに加わった。


 通りの傾きが変わると、建物の間から河の明るさが覗いた。昼に歩いてきた高い道とは違い、街の中には石で固めた広い坂がある。車が通れるように角を大きく曲がり、河へ向かって下っていた。荷のない車は上り、木箱を積んだ車が下りていく。


「こんな坂を、荷を積んだまま下りるんですね」


「港へ続く道だからな。車を通せるよう広くしてある」


 ガルムが答えた。斜面の途中からは河幅が広く見え、港の屋根が横に続く。そのさらに奥に、見たことのない高さの黒いものが立っていた。


     ◇


 港の喧騒は、階段を下りる前から聞こえた。


 人が呼び合い、荷を持ち上げる声が重なる。船着き場の端に並ぶ小さな舟は、今は高い位置の杭へ綱を掛けてあった。増えた水が桟橋の木の下を叩き、濡れた板の匂いが風に混じる。


 その向こうに、蒸気船がいた。


 船腹は港の倉の屋根より高く、河岸に沿って黒い壁が続いている。大きな窓が何段にも並び、船の上部を明るい色の手摺が囲む。一本ではない煙突から煙が流れ、薄暮の空へ広がっていた。手前には通常の桟橋より幅の広い乗船路が架かり、人の列が船の入口へ吸い込まれていく。


「これが……河を下るんですか」


 ノンノが声を落とす。


「向こうに船尾の灯りが見える。ここからだと船首はまだ見えないな」


 ガルムは遠くに見える灯りを指したが、エルディアスには船首まで一度に見渡せなかった。途中で倉の建物が突き出し、船の前半が隠れている。


「街の方に建ってるのかと思った」


 セルマが煙突を見上げる。


「建物の陰まで船が続いていますね」


 リュシアも足を止めた。セレイスの港で見たどの船より、甲板の高さがある。これほど大きな船が、河を下るのだろうか。


 エルディアスは向かいの岸を探した。夕闇と煙が水の上で重なり、木々の輪郭は昼よりさらに薄い。上流から来る流れは速くても、船腹は桟橋につないだ太い綱で動かずにいた。


「こんな船なら、九人も乗れそうですけどね」


 ノンノの言葉に、ラウルはすぐには答えない。宿がいっぱいで、その船が今夜出るらしいことは聞いた。それでも行先も、乗せてもらえるかどうかも分からない。


「先に、行先を聞こう」


「その前に、今からでも乗れるか確かめませんか」


 ノンノが列を見て言った。ラウルは案内台のある方を探しながら頷く。


「両方聞く。宿に戻るとしても、船がいつ出るかは知っておきたい」


 皆が頷いた。乗船する人たちは、小さな札や紙を手にしている。順番待ちの列は乗船路の手前で折れ、港の屋根の下まで続いていた。ラウルは係員のいる場所を探し、一行を通路の端へ寄せた。


 その時、ガルムが腕を伸ばした。


「待て」


 声が低かった。セルマが振り向くより先に、ガルムは乗船路の方へ顔を向けたまま、もう一度言う。


「今、あそこを歩いてた」


「誰が?」


「ニルスだ。クラリスもいた。二人で船に乗るところだ」


 ラウルがその横に並んだ。ガルムの指す先では、背負い袋を持った男が一人、船の入口で札を見せていた。隣には女がいる。二人が係員の方へ顔を向けた時、エルディアスにも人の肩越しにその姿が一瞬だけ見えた。


「まさか」


 エルディアスの口から、思わず声が漏れた。隣のリュシアも、船の入口を見つめている。ラウルはその声にも振り向かず、ガルムが示した先へ目を凝らした。


「どこだ」


「今、札を見せてる。ほら、右から二人目だ」


 ガルムが示す。ラウルは前へ進みかけたが、乗り込む人たちが途切れず、すぐには近づけない。


「ニルス!」


 呼ぶ声は港の人混みに紛れた。男はこちらへ振り向かなかった。女も何かを言いながら船の内側へ進む。二人の姿が入口へ隠れるまで、ガルムは指した腕を下ろせなかった。


「見たのか、ラウル」


「背中は見えた。だが、顔を確かめる前に入った」


「俺は、二人の顔を見た。札を見せていた時だ。見間違えるはずがない」


「クラリスも、こっちを見たの?」


 セルマが尋ねる。ガルムは唇を噛んだ。


「いや。二人とも係員の方を向いていた。俺が気づいたのは、乗船路へ上がってからだ」


「じゃあ、私たちがここにいることも知らないのね」


「声を掛けたんだが、届かなかった」


 セルマは一歩、乗船路に近づいた。ラウルが後ろから呼ぶと、振り向いて戻る。彼女の視線だけが入口に残った。


 セルマはラウルの隣へ戻っても、船の入口を見続けていた。エルディアスには、今かける言葉が見つからない。


 ――二人は死んでいる。


 エルディアスが念話で告げると、リュシアから返事が届いた。


 ――はい。私たちが知っている事実は変わりません。


 ――俺にも見えた。あれは、何だ。


 ――分かりません。けれど、ラウルたちに見間違いだとは言えませんね。


 エルディアスは答えを返せなかった。ラウルたちが二人を探してきたことも、何が起きたか知らないことも分かっている。その目の前で、ガルムは確かに二人を指した。


「エル、今のを見たか」


 ラウルが尋ねた。


「一瞬だけな。入口へ入るところだった」


「二人に見えたか」


 ラウルの問いに、エルディアスはすぐには答えられなかった。


「顔は見えた。だが、人越しに一瞬だ」


「そうか。ガルムほどは確かめられていないんだな」


「俺もそうだ。だから、近くで確かめたい」


 エルディアスは船から目を離し、リュシアを見た。彼女は頷かず、ただラウルの次の言葉を待っている。ノンノは名前しか知らない二人を探して、皆の視線の先と顔を順に見比べていた。


「俺たちも乗れるか聞こう。中に入らないと、顔を確かめられない」


 ラウルの声は静かだった。ガルムはすぐに頷き、乗船路の入口を探す。エルディアスとリュシアも、二人から離れずに後を追った。


 煙突から流れる煙が、最後に残った夕日の光を遮った。船の入口には、まだ大勢が並んでいる。あの中へ入った二人の姿は、もう見えなかった。


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