第92話 長影
朝、納屋の戸を開けると、河の方から冷たい風が入ってきた。
昨夜のうちに水を満たしておいた袋が、足元に九つ並んでいる。ガルムは自分のものを持ち上げ、肩に掛けた背負い枠がずれないかを確かめた。ノンノも荷を背負ったが、腰へ結んだ水袋が脚に当たり、二歩進んだところで止まる。
「エルさん、水袋はどこにつけてますか」
「腰だ。……そっちは、少し低いな」
「昨日は袋の中に入れてたんですけど、飲むたびに荷を下ろすのが大変だったので」
エルディアスは水袋の紐をほどき、手のひら一つ分ほど高いところへ結び直した。
「これで歩いてみろ」
ノンノは戸口まで歩き、また戻ってきた。今度は脚に当たらない。腰へ手を伸ばすと、荷を下ろさず水袋を外せた。
「あ、取れます。こっちの方がずっと楽ですね」
「戻す時も、同じ長さで結べばいい」
「はい。ありがとうございます」
ノンノは紐の長さを指で確かめてから、教わった位置へ結び直した。エルディアスが荷を背負うのを待ち、今度は二人で戸口へ向かう。先に出ていたリュシアが、二人のために扉を押さえていた。
納屋の持ち主の女は坂の途中で待っており、昨夜教えた道を朝の明るさの中でもう一度示した。
「大きな木が見えたら、下の道へは入らないこと。水が引き始めていても、地面まで乾いたとは限らないからね」
「分かった。上を行く」
ラウルが礼を言った。女は九人が順に出るのを見届け、納屋の鍵を受け取る。
「ハディルなら、歩いて今日のうちに着ける。途中の畑で水を汲むなら、人に一声掛けて」
「あの木を過ぎても、道は一本のままか」
ラウルが尋ねると、女は荷を抱え直してから首を振った。
「畑へ下りる道が幾つかあるよ。大きな道から離れず、河を右に見て歩きな。夕方には壁が見える」
「荷が多いから、ぬかるみに入ると戻るのも大変だな」
護衛の一人が自分の靴底を見た。昨日ついた泥が、縁にまだ残っている。
「だから下へ降りるなって言ってるの。昨夜も聞いたろう?」
「聞いた。もう一度確かめたかっただけだ」
女は呆れたように笑った。ノンノも頭を下げ、皆と高い方の道へ出る。家の脇では、昨日板を打っていた男が窓を開けている。河から吹く風で、新しい板の端が少し鳴った。
◇
集落を離れてしばらくは、右手に河の音が続いた。
高い道から水面は見えない。木々の間が切れるたび、流れの白い筋が遠くに覗く。昨夜までは暗闇から響いてきた低い音が、今朝は進む方角を教えるようについて来た。
道の左側には、細い畑が斜面に沿って並んでいる。石を積んだ縁の内側に土を入れ、そこへ水を引いていた。集落を出る時に見た溝より、何本にも枝分かれしている。土の上にはまだ人の踏んだ新しい跡があった。
「河から離れると、また砂ばかりになると思ってました」
ノンノが畝の先を見ながら言った。
「この辺りまでは水を運べるんでしょう。その外は、やはり砂地ですよ」
リュシアが示すと、畑の背後には乾いた斜面が広がっていた。緑は河と水路の周りに沿って細く続き、少し高くなっただけで、地面の色は砂漠へ戻る。
「河のすぐそばだけ緑が続くんですね。道の左は、もう砂漠なのに」
「俺は河を見たい。ここまで歩いて、まだ木の隙間からしか見えてない」
ガルムが前を行く護衛の間から河を探す。セルマは彼の荷が枝へ当たりそうなのに気づき、肩を引いた。
「見るなら足元も見て。昨日の水路みたいな場所が、またあるかもしれないわよ」
「分かってる。これ以上、背負い枠を直したくないしな」
九人は荷の幅があるところで一列になり、道が広がると二人ずつ並んだ。調査員は時折、畑の水路と道の位置を見比べる。これほど河の近くを歩いていても、高い場所と低い場所の行き来は簡単ではない。
昼前、枝を河の方へ張り出した大きな木が見えた。一本だけ背が高く、周りの木より薄い葉を広げている。昨日、集落の女が教えた木だった。
「あれですね」
ノンノが真っ先に指す。
「ああ。あの先で道が内側へ曲がると言ってた」
ラウルが応じた。木の下へ着くと、土が二つの方向へ踏まれている。河へ下る方には古い車輪跡もあったが、奥の地面にはまだ湿った色が残っていた。ラウルは高い方を選び、後ろにも声を掛ける。
「車輪の跡があるなら、あっちも道なんだろうな」
ガルムが低い方を見た。
「昨日までは通れたのかもしれない。でも、今は水が残ってる」
セルマが答える。ノンノも道の分かれ目を覗いた。
「車輪の跡が、途中から見えなくなってますね」
「水で土が流れたんだろう。見た目より深い場所があるかもしれない」
ラウルは先頭の護衛が高い道へ進んだのを確かめてから、二人を呼んだ。
「向こうへ降りれば、河がもっとよく見えそうです」
ノンノが言った。
「昨日、下へ降りるなと言われただろ。道から離れずに行こう」
「分かってます。見えると思っただけです」
エルディアスは、ノンノが下の道へ足を踏み出していないのを確かめてから頷いた。木の幹には古い縄の跡があり、荷を結んだ者が休んだのかもしれない。今日、その下に人はいなかった。
◇
陽が高くなった頃、畑の中に人影が見えた。
老いた男が水路の縁にしゃがみ、木の板を外している。上流から増えた水を流し過ぎないようにしていたらしく、溝の底には泥が薄く溜まっていた。ラウルが道から声を掛けると、男は顔を上げた。
「ハディルへ行く。この辺りで水を補ってもいいか」
「飲むなら、畑の溝じゃなく家の方へ回れ。汲み口がある」
「助かる」
男が示した小屋の脇には、石を積んだ水槽があった。水は蓋のある樋を通ってきており、畑へ流れる方とは口が分かれている。九人で順に手を洗い、必要な分だけ水袋へ足した。
ノンノは水槽の横に置かれた桶へ目を向けた。畑用のものには泥がついている。汲み口の方にある柄杓を取ると、後ろで待っていた調査員に渡した。
「先にどうぞ」
「ありがとう。ここからなら、夕方にはハディルへ着けそうですよ」
「それでも、街に入るまで飲む分は持っておきます」
調査員は笑って、柄杓を水へ入れた。エルディアスも栓を締め、槽の縁を濡らさないよう一歩下がる。
老いた男は道まで来ると、九人の人数を数えた。
「こんなに歩いて行くのか。車を使わないんだな」
「河が増えていて、上流へ向かう舟に乗れなかった」
ラウルが答える。男は河の方へ目を細めた。
「舟ならまだしばらく待つだろうな。畑も昨日は止めた。今日は様子を見て、水を入れ直してる」
「街の方も、河が増えているか」
「そりゃ、同じ河だ。港の下の道へ行くなら気をつけな。あんたたちは上を歩いてるから、ここからは迷わんと思う」
「街へ入る門も、この道の先か」
「そうだよ。壁が見えたら、上り坂の方から門へ行ける。港は街へ入ってから下ればいい」
「ありがとう。まずは門を目指す」
男はそれ以上仕事を止めず、板を抱えて畑へ戻っていった。ラウルが出発を告げると、ノンノは蓋をした水槽を一度振り返り、リュシアの隣へ続いた。
午後、道は河から少しずつ離れた。水の音が小さくなり、その代わり地面を踏む音と、草の間を通る風がはっきり聞こえる。ゆるい上りを越えるたび、左右に畑が増えた。屋根が一つ見えても、次の家まではまだ歩く。水を運べる範囲が広がっているのだろう。
「最初に寄ったオアシスの街より、人が多そうですね」
ノンノは遠くの煙を見て言った。斜面の向こうに細い柱のようなものが何本か立ち、その一つから淡い煙が上がっている。
「煙だけでは、まだハディルか分からない」
エルディアスが目を細めた。建物の屋根は、今いる場所から見えない。高いところに煙突のようなものがあるというだけだ。
「でも、あんなに大きな煙突なら、ハディルのものじゃありませんか」
「そうかもしれない。壁が見えるまで、道を確かめながら行こう」
「はい。ハディルが見えたら、すぐ教えます」
リュシアが笑うと、ノンノは耳を起こした。
ガルムは煙よりさらに右を見ていた。
「港があるなら、あっちだな。河へ向かって地面が下がってる」
「高い煙突だけ見て、勝手に降りないでよ」
セルマに言われ、ガルムは振り向く。
「今はお前の後ろにいるだろ」
「いつも先に走るから言ってるの」
ラウルは二人に返さず、陽の傾きを見た。朝から歩き、昼に休みも取った。街まであとどれくらいかは、まだ屋根が見えない以上、決めつけられない。
◇
日が西へ傾いた頃、道の先に石の壁が見えた。
最初は畑を囲むものかと思ったが、歩いても端が見えない。高く積んだ壁が緩い地形に沿って続き、その向こうに屋根が重なっている。昼に見た煙突は、そのさらに奥から伸びていた。河の側には太い塔が立ち、上半分だけが夕日を受けている。
「ハディルだ」
ラウルが足を止めた。
砂漠のオアシスを囲んだ街の壁とは、長さが違う。通りはまだ見えないのに、壁の内側だけで家が幾列も並ぶのが分かった。外側にも荷の置き場らしい建物が続き、人の住む範囲が門の一箇所へ収まっていない。
「最初に寄ったオアシスの街なら、端から端まで見えたのに」
ノンノが言い、ガルムも頷いた。
「酒場で聞いた通りの大きさだな。宿も多そうだ」
「門に着く前に日が暮れそうですよ」
「急ごう。暗くなる前に宿を探したい」
ガルムが荷を上げ直した。エルディアスも胸の前で肩紐を引き、再び歩き始める。
門へ向かう道が下りに変わると、陽が塔の陰へ隠れた。行く手には長い影が何本も伸び、石畳の上で互いに交わる。少し前まで明るかった壁の下半分が青く沈んだが、屋根の高いところにはまだ金色の光が残っていた。
門の前に、列ができていた。
人だけでなく、小さな手押し車や、荷を抱えた者も並んでいる。人数を数えるには長すぎる。見張りの立つところから道へ折れ、外の壁に沿って列が続いていた。
「……ここへ入る人、みんな並んでるんですか」
ノンノが速度を落とす。列の最後にいた女が後ろへ少し寄り、九人が並べる場所を作ってくれた。
「ありがとう。ずっとこうなのか」
ラウルが尋ねると、女は門へ目を向けたまま小さく答えた。
「今日はね」
それ以上は言わなかった。列が一歩動くと、女も荷を抱え直し、前へ進む。向こうでは幼い子を抱いた男が、膝を曲げて荷の位置を直していた。子どもも静かだった。
ハディルの外壁は大きい。門の上を人が歩けば、靴音まで届いてもよさそうなのに、列の中では革袋が擦れる音ばかり聞こえた。誰かが咳払いをし、また黙る。強い陽の下を一日歩いてきた九人でさえ、水を回して飲む時には自然と声を潜めた。
「何かあったのかしら」
セルマが門を見た。近くにいた人は顔を上げたが、答える代わりにまた前へ向き直る。
「人数が多いから、確認が遅いのかもしれない」
ラウルも断言はしない。門の手前では、一組ずつ立ち止まっているようだった。荷の口を開ける様子は見えない。前の者と門番が短く話し、通された後に次が動く。
「子どもまで黙っていますね」
ノンノが列の前を見た。抱かれた子は父親の肩に頬をつけ、門へ顔を向けている。
「疲れているのかもしれません。私たちも朝から歩いてきましたから」
リュシアはそう答えたが、ノンノは首を傾げた。
「それにしては、門の前だけ静かです。街の中からは声が聞こえるのに」
「入るまで様子を見よう。何も分からないうちに決めつけても仕方ない」
エルディアスの言葉に、ノンノは頷いた。それでも前の列が動くたび、門の向こうを見ようと背を伸ばす。
エルディアスはリュシアへ目を向けた。彼女も列の向こうを見ている。
――変な静けさですね。
――門の中は人がいる。まず入って確かめよう。
リュシアの表情は変わらず、エルディアスも前へ歩いた。まだこの街について分かったことは何もない。増水のせいで、入る者が集中している可能性もある。
列が進む間、街の影は一段ずつ長くなった。九人の靴の脇にも、背負った荷の形が細長く伸びる。ノンノは足元の影を踏まれないよう避けかけ、すぐ自分でおかしくなったように笑ったが、近くの人たちは誰も見なかった。
◇
ようやく順番が来ると、門番はラウルの顔を見た。
中年の男だった。旅人を見る仕事に慣れているらしく、全員の人数を一度に確かめる。動きに迷いはないが、声は低く、表情もほとんど変わらない。
「九人か。どこから来た」
「下流の集落から歩いてきた。元は西の森の方角だ。河と、この街を調べている」
「泊まるのか」
「そうしたい。港も見たい」
門番は一度だけ港の方へ顔を向けた。壁越しには、港は見えない。
「荷は、皆それぞれ持っているものか」
「ああ。調査具と携行品だ」
女性の調査員が記録板の包みを少し開けて見せる。護衛二人も前へ出て、武器を携えていることを隠さず告げた。門番は剣の柄を見たが、鞘を抜かせることはしなかった。
「中で騒ぎを起こさなければいい」
「そのつもりはない」
ラウルが答えると、門番は脇に立って道を空けた。
「行っていい。今夜は人が多い。泊まるところは、早めに探せ」
「助かる」
列の後ろから次の者が進んでくる。九人は門をくぐり、日陰の短い通路を抜けた。
街の内側へ出ると、音が変わった。
人を呼ぶ声が左右から重なり、荷車の車輪が敷石を刻む。通りに張り出した庇の下では布が売られ、向かいの店からは焼いた肉の匂いが漂ってくる。路地の奥まで灯りが続き、客を呼び込む声と値を言い合う声が途切れない。戸口に人が立つたび、その後ろにも別の通りが見えた。
「外と、全然違いますね」
ノンノが呟いた。
「これだけの人がいたら、声も大きくなる」
「でも、さっきまで並んでいた人たちですよね」
「街に入って、用事を思い出したんじゃないか」
ガルムは人の流れを避けてセルマの隣へ寄る。つい先ほどまで同じ壁の外で待っていた人たちも、街に入るとそれぞれ行き先を持って歩き出した。静かな列の名残はない。
「あの女の人も、もう見えませんね」
ノンノが最後尾で場所を空けてくれた女を探す。セルマが肩をすくめた。
「どこかの店に入ったんでしょう。立ち止まるなら、こっちへ寄って」
九人は荷を背負ったまま往来の端へ移った。列に並んでいた頃とは違い、近くの声が別々の方角から届く。
リュシアは店先へ吊るされた鍋や袋を見た。食べる物を売る店だけでも、ここからいくつも見える。小さなオアシスの街で一軒ずつ確かめた通りとは違った。
「まず宿ですね。ここでばらばらになると、探し直すだけで時間が掛かりそうです」
「そうだな。九人で入れるところを探そう」
ラウルが護衛の二人を呼び寄せる。調査員も記録板を抱え直し、列から離れない。ノンノは店の明かりへ向いていた耳を戻した。
「一日歩いてきたのに、まだ何か起きそうな街ですね」
「宿に荷を置けば、落ち着いて見られますよ」
リュシアの声を聞き、ノンノは頷いた。頭上には高い建物が立ち、路地にかけられた布の下を人が途切れず歩いていく。エルディアスも足を止めかけたが、今は先へ進むラウルの背を追った。
壁の外で長く伸びた九人の影は、灯りの多い通りへ入ると、足元で幾つにも重なった。




