第91話 増水
荷渡し場の屋根の下には、濡れた縄の匂いが籠もっていた。
さきほど荷を下ろした者が床へ水を撒いたのかと思ったが、石の継ぎ目まで黒ずんでいる。木箱は直接地面へ置かず、低い台の上に積まれていた。河に近い柱には古い水跡が何本も残り、一番上の線の脇に日付らしい印が刻まれている。
ラウルは荷の帳面を持つ男に声を掛けた。男は三台の荷車から来た箱を数えながら、顔だけをこちらへ向ける。
「上流のハディルへ向かいたい。舟を使うなら、どこで聞けばいい」
「ここで聞ける。ただ、今朝の客舟は出してない」
男が指した先には、桟橋へ続く通路があった。細い舟が数艘、岸に寄せて綱で留めてある。陸から見た時には水辺まで緩い斜面があったのに、今は舟べりのすぐ下まで水が来ていた。
「明日なら出るのか」
「河次第だ。船頭に聞いた方が早い。向こうの網を干してる女なら、今いる」
ラウルが礼を言うと、男は帳面へ戻った。荷の出入りが途切れるたびに、柱の印と河面を見比べている。エルディアスはその視線を追った。水は石段の下から二段目に触れ、波が来るたび縁を濡らしていた。
「さっき見た時より、上がっていませんか」
ノンノが石段を指す。
「このくらいの波でも濡れる。水位が上がったかどうかは、ここにいる人に聞こう」
リュシアの言葉に、ノンノは頷いて一段下がった。九人が荷を背負ったまま桟橋へ向かうと、網を広げていた女が手を止める。網の下には細い木の浮きが並び、まだ水を含んで重そうだった。
「舟に乗りたいのかい」
「上流へ行きたい。九人と、この荷だ」
ラウルが答えると、女は桟橋の先を見た。縄につながれた舟は、岸に並んだまま、流れに押されて先端を少しずつ動かしている。
「九人なら、うちの一艘には乗らない。二艘に分けるとしても、今は上流へ出さんよ」
「流れが強い?」
「二日前に上の方で大雨が降った。こっちは晴れてたが、昨日の夜から水が増えてる。今朝も石段を一つ飲んだところだ」
女は、乾いていたはずの段を靴先で示した。ノンノが見た波だけの濡れ方ではない。段の表面は広く水を含み、縁へ細かな泥が張りついていた。
「さっき、舟が動いているのを見ました」
ノンノが言った。
「あれは下の岸までだ。流れに乗って行って、戻りは岸へ寄せて人に曳いてもらう。上流へ客を乗せていく舟とは別さ」
「いつなら遡れる?」
「水が落ち着いてから。今日なのか三日後なのか、ここで約束する者はいないよ」
女は網の端を持ち直し、桟橋の杭へ視線を送った。杭には縄の擦れた白い帯が何本もあり、今日の舟はそのうち高いところに結び直されている。
「無理に出れば、途中の低い橋や浮いた木を避けなきゃならない。まして九人も乗せて、この荷だろ。行くなら陸の上道を使いな」
「岸沿いに道があるのか」
「ある。下の道は今は通れん。荷の帳面をつけてる男に、高い方へ上がる場所を聞いてくれ。河に沿って歩けば、小さな集落まで辿れる」
「水際の方へ、下りてはいけないんですね」
ノンノが確かめると、女は頷いた。
「この先、乾いた道が上へ続いてる。それを行けばいい」
ラウルは女に礼を言った。ノンノは並んだ舟を見つめ、舟に乗れるものだと思っていたことを隠さず口にする。
「あんなに広い河なのに、まだ水が増えるんですね」
「増えるよ。狭くなるのは陸の方だ」
女は網を引き上げながら言った。岸に立っている者には短い返事だったが、ノンノは舟が揺れるたび、河面から目を離せなかった。
◇
屋根へ戻ると、荷の組はまだ箱を下ろしていた。若い御者が白い額のラバを柱の陰へつなぎ直す。ノンノが通るのに気づいて、片手を上げた。
「舟は見つかったか」
「増水していて、上流へは出られないそうです」
「そうか。こっちの舟まで止まると荷が溜まるな」
「あなたたちは、どうやって帰るんですか」
「車で西へ戻るよ。まだ積み替えに時間がかかるけどね」
御者はラバの綱の長さを確かめ、餌を入れた桶を地面へ置いた。先日から一緒に歩いた三台は、屋根の反対側へ寄せられている。一行が向かう上流へ、この車が進むことはない。
荷の帳面をつける男は、ラウルの報告を聞くと、紙の裏側へ簡単な線を引いた。荷渡し場から河の上流へ続く線と、岸に近いところでそこから分かれるもう一本。
「上道は、屋根の裏を回って畑の上に出る。この低い方は、荷を舟へ運ぶ時に使う道だ。今はすぐ先が水に浸かっている」
「小さな集落までは、歩きでどれくらいだ」
「日がまだ高いうちに出るなら、夕方には着く。荷を背負った九人なら、何度か休む時間も入れておけ」
「その先がハディルか」
「先の道は集落で確かめてくれ。河が増えても通れる道はあるが、岸へ寄る場所は毎年少し変わる」
女性の調査員は男の線を自分の板へ写さず、紙を受け取った。まだ見ていない地面を一本の道として決めるには、ここから先の岸は広すぎる。
「まずそこまで歩く。泊まれる場所はあるか」
「屋根を借りられる家が何軒かある。人が九人なら、別々になるかもしれん。見張りを立てるなら、集落の外の高い所を使う手もある」
ラウルは頷き、まず九人へ道の話を伝えた。ガルムは河へ目を向け、留めてある舟の数を数える。
「せっかく舟のあるところまで来たのに、また歩くのか」
「水の上の方が速そうに見えましたけど……今日は違うんですね」
ノンノの声に、セルマが肩の荷を持ち上げた。
「あれに乗ってから『やっぱり怖い』と言っても、降りられないわよ」
「怖いとは言ってません」
「舟を見てる時、耳が下がってた」
「水がすごいから、見てたんです」
「二人とも、歩くなら今のうちに出よう」
リュシアが声を掛けると、ノンノは荷を背負い直した。ラウルは道を教えてくれた男に礼を言い、エルディアスは屋根の柱へ残る一番高い水跡をもう一度見た。いま濡れている段はその印より下にある。それでも、自分の見ている水面がこれから上がるか下がるか、ここに着いたばかりの者には分からない。
◇
上道は、荷渡し場の裏から畑へ登る細い坂で始まった。
最初の家を過ぎると、掘った溝が畑の間へ水を引いていた。土は表面が乾いていても、その下に湿り気が残る。刈った茎が束ねて置かれ、道の脇には踏まれないよう石で囲った苗が並んでいる。街のオアシスの庭より畑が広く、一本の河から引いた水が、溝を通って遠くまで届いていた。
「こんなに広い場所を耕しているんですね」
ノンノは苗へ近寄りかけ、足を道の中へ戻した。畑で作業していた男が手を上げ、踏まずにいてくれたことに気づいたらしい。
「昨日より水の音が大きいでしょう」
男が声を掛けてきた。足元の溝では、濁った水が小さな水門の前に溜まっている。
「上流で雨が降ったと聞きました」
ラウルが答える。
「ええ。今は入れ過ぎないよう塞いでる。畑に必要な分だけならいいが、勢いよく来ると苗が持っていかれるからね」
男は木の板の端を押し、水門の隙間を狭めた。水が押し返すので、板が収まるまで少し力を使う。ガルムが後ろから支えようとすると、男は首を振った。
「慣れてる。あんたたちは上の道を行きな。下に白い石が並んで見えても、そっちは畑の縁だ。道じゃないよ」
「助かる。小さな集落を目指している」
「このまま畑を抜けて、木の多い方へ。途中で河へ下りる道があるけど、それには入らないように」
ノンノが礼を言い、皆が歩き始める。畑の溝はそのまま長く続かず、ひとつずつ水門を通って別の畝へ分かれた。リュシアは振り返り、男が板から手を離しても水が越えないのを見た。
「河があれほど大きければ、水に困らないと思ってました」
「多すぎても困る、ということか」
エルディアスが言うと、リュシアは頷いた。
――あの小さな水門まで、人の手で確かめているんですね。
――城壁のある街より、こっちの方が水に近いからな。
念話はそれだけで終わった。前を歩くノンノは畑の先に生えた木を見ており、二人の会話には気づかない。
木陰へ入ると、地面が踏み固められていた。河べりの湿った風が葉を揺らす。道は常に水を見下ろせるわけではなく、木の間に見えるのは光る面の一部だけだった。しばらく水が見えなくなると、音の方が道しるべのように聞こえる。
「水際に沿えば、間違わずに行けると思ったのに」
ノンノが言う。
「ここは上道だ。岸が曲がっても、同じようには曲がらない」
エルディアスは答え、道の前を見た。荷渡し場の男が描いてくれた線も、この林の中までは詳しくない。だからこそ、途中で出会った畑の男に道を尋ねられてよかった。
「じゃあ、河を見失っても道は合ってるんですね」
「今のところは。人が通ってる跡もある」
落ち葉の下に小さな蹄の跡が残り、荷を吊るした棒を運んだらしい二筋の擦れもあった。二人の護衛が列の前後を確かめ、調査員は足を止めた場所と、そこまでの道の様子を板へ記した。
◇
道が河へ近づいたのは、陽が少し傾いてからだった。
草の間から階段状の石が見え、舟を引き上げるための斜路が下へ続いている。そちらへ歩いた足跡もいくつかあったが、斜路の先は茶色い水に消えていた。低い枝には泥を含んだ草が絡まり、乾いていない。
「ここ、普段は歩けるんでしょうか」
ノンノが斜路を見て言った。
「舟を上げ下ろしするためだな。今日は近づくなよ」
ラウルは一行を道の反対側へ寄せた。ガルムは水に浸かった石の数を見ようと少し屈んだが、すぐ立ち上がる。
「何段あるか分からん。昨日なら、あの枝の下まで地面だったのか」
「この泥は上から流れてきたものかもしれない」
セルマは枝についた草を見た。風で引っ掛かっただけには見えず、水がそこまで来た時に残された跡らしい。河の幅が広いぶん、水際のどこが昨日と同じか分からない。
女性の調査員は少し離れた場所に立ち、見える範囲だけを記した。水面の位置と枝に残る泥の高さは別のものだ。今歩いている道へ直接水が届いているわけではないが、この斜路を通って岸へ下りる気にはならなかった。
その先で、道は小さな窪みを横切った。河から引いた水路が石の下をくぐっている。水は普段より多いらしく、石の隙間から泡を吐いていた。ラウルは先頭の護衛と一緒に足場を見て、一人ずつ渡す。
「ここなら通れる。石の端は踏むな」
「荷が引っ掛かりますか」
ノンノが自分の袋を持ち上げた。
「足が滑る。真ん中を歩け」
ガルムが先に越え、向こう側から手を伸ばす。ノンノは石の中央を踏んで渡りきったが、手は取らなかった。
「一人で渡れました」
「見てりゃ分かる。次の人の荷を受けるつもりだった」
「あ、そうでしたか」
ガルムの手には調査員の板を包んだ荷が渡された。女性の調査員が石を越えて受け取り、少し笑う。セルマが最後の護衛に足元を伝えた頃には、一行全員が向こう側に揃っていた。
休憩を取った木陰では、河の向こうから鳥の声が聞こえた。船頭の言った通り、舟は見えない。時折、流れてくる枝が中洲の端をかすめていく。ノンノは昼に配られた薄いパンを割り、今度は先に水袋へ手を伸ばした。
「少し慣れたな」
エルディアスが言うと、ノンノは飲んでから答える。
「何にですか。歩く方ですか、パンの方ですか」
「どっちも」
「それなら、どっちもです。水は飲んでますよ」
「それも見てる」
リュシアはパンの欠片を受け取り、ノンノに分けてもらった干した果物を返した。街で買った時には宿の部屋で食べきると思っていたものが、今は河沿いの木陰にある。セルマも隣へ座り、上道があとどれくらい続くか、畑の男の指した方角を思い出していた。
「今日のうちに集落に着くと言われたけど、屋根はまだ見えないわね」
「木があるからな。人が住んでる場所なら、何か音が聞こえてくる」
ガルムは口元のパン屑を払った。ノンノが耳を立てたところで、遠くから木を叩く乾いた音が二つ続く。ガルムの言葉に合わせたような音だった。
「聞こえました。あっちです」
「何を叩いてるんだろうな」
「行けば分かるでしょう」
セルマに促され、一行は荷を背負って立ち上がった。
◇
木を叩く音は、家の外に並べた板を留める音だった。
集落には低い家が十数軒、河から少し上がった斜面に並んでいる。屋根は木の骨に布や葉を重ね、足元の石段は土に埋まらないよう縁を固めてあった。家々の間には魚を干す枠があり、その下で子どもが束ねた縄をほどいている。どの家も水辺からは距離を取っていた。
入口の道で作業していた男は、九人が一列で来るのを見て槌を下ろした。板を窓の外へ打ちつけている。
「どこから来た」
「下の荷渡し場からだ。舟が上流へ出ないので歩いて来た」
ラウルが答えると、男は河の方へ顎を向けた。
「出ないだろうな。昨日の夜から、この辺りも水が速い。上の雨をここで見た者はいないが、枝がどんどん流れてくる」
「今夜泊まれる場所はあるか。九人いる」
「空いてる納屋なら貸せる。寝台はない。屋根が欲しいなら、あの家の婆さんに声を掛けてくれ。水はこっちの汲み場を使っていい」
「板は、水が来るから打ってるのか」
エルディアスが尋ねた。
「窓から風が入るんだ。水はここまで来たことがない。下の網小屋は昨日のうちに空にしたけどな」
男は槌を持った手で窓を示した。新しい板の隙間から、家の中の明かりが少し漏れている。リュシアは、斜面の上と下とで水への備えが違うことに気づいた。
教えられた家へ行くと、白髪の女が戸口から出てきた。九人と聞いて一度だけ眉を上げたが、男から話を聞いたらしく納屋の鍵を持っている。
「泊まるならあっちだよ。藁は敷いてあるけど、寝具は自分たちのを使って。火を使うなら外の石の中で。水は坂の上の汲み場から」
「代金は」
「九人分まとめてでいい。納屋を汚したら片づけていっておくれ」
ラウルが支払いを済ませる。納屋には干した草の香りがあり、片側へ籠を寄せれば人数分の荷を置けた。全員が横になるには窮屈だが、外で見張りを交代するなら足りる。
ガルムが壁を軽く叩き、首を縦に振った。
「雨が降っても屋根はある。昨日の岩陰よりいいな」
「昼は晴れてたけどね」
セルマが言う。
「晴れてても地面は硬い」
「なら今夜の床をきれいに掃いておいて」
「はいはい」
二人が荷を運び込む間、ラウルは白髪の女へハディルまでの道を聞いた。女は納屋の前から、河の上流へ向かう高い道を指す。
「ここからなら歩いて一日。朝出れば、日が落ちる前には着くよ。荷を背負ってるなら、昼に休む分も見ておきな」
「水は道中で補えるか」
「河には近づかない方がいい。うちの汲み場で満たしていけば、途中でも小さな畑の家を通る。気になるなら、そこで聞いて汲ませてもらいな」
「下の道は?」
「舟場へ寄る道だ。今日は濡れてる。ハディルへ行くなら、この道から離れないこと」
女は一行の中から調査員を見つけ、その手にある板へちらりと目を向ける。
「昼のうちに高い木が一本見える。枝が河へ張り出してるやつだ。その先で道が少し内側へ曲がる。どこかで水を見たいと思っても、そこでは下へ降りないでおくれ」
「分かりました。朝、出る前にもう一度聞きます」
ラウルが礼を言った。女は頷き、槌の音が続く家の方へ歩いていった。
ノンノは納屋の戸口から上流を見た。木の向こうに河面はほとんど見えない。昼に見た幅の広い水が、見えないまま斜面の下を流れている。
「あと一日なんですね」
「ああ。ここまで歩いて来た日数に比べれば、近い」
エルディアスは答えたが、ノンノは納屋に置いた水袋を見た。
「近くても、ちゃんと持っていきます。今日はいっぱい飲んだので」
「それでいい」
夕暮れが近づき、家々の戸口に灯りがともる。向こうの家で板を打つ音が止むと、風の下に河の流れる低い音が残った。ラウルは明朝、日が昇ったら出発すると決め、護衛たちと見張りの順を話し始める。ノンノは汲み場へ行くために袋を持ち上げ、リュシアも自分の分を持って並んだ。
今夜、舟はどれも上流へは出ない。それでも二人が歩いてきた道は、納屋の前からハディルの方へ続いていた。




