第90話 大河
岩陰へ入った先頭の荷車が、すぐに止まった。そこだけ左右から岩が張り出し、荷車一台がようやく抜けられる幅になっている。若い御者が車を降り、左の車輪と岩の間を確かめた。昨日、街の鍛冶場で付け直した金具が、朝の光を受けていた。
「通れないんですか」
ノンノが車の後ろから尋ねる。
「通れるよ。いつもここを通ってる。ただ、車輪を岩に当てないよう、少し向きを直したい」
ノンノが道を覗こうと一歩進むと、エルディアスが肩紐を軽く引いた。
「動かす間はここで待とう」
「はい。皆が通ってから行きます」
荷の組の長が車の右側へ回り、御者に位置を示した。後ろの二台も間を空けて止まる。
「右へ寄せるぞ。後ろの者は車輪に足を出さないでくれ」
御者の声に、ラウルが一行を岩の脇へ寄せた。ガルムは金具を覗き込み、男の合図に合わせて車体の側面を押す。すぐ後ろの護衛も手を添えた。
「力を入れ過ぎるな。車を横倒しにしたら、積み荷を全部ほどくことになる」
「分かってる。少しだけだな」
「そう、それでいい」
車輪が石を擦らずに通り抜ける。若い御者は息をつき、ガルムに礼を言った。
「街で直してもらって助かった。前の金具なら、ここで引っ掛けてたかもしれない」
「鍛冶屋に伝えたいなら、帰りに寄れよ」
「帰りにもここを通るんだ。覚えておく」
後ろの二台も同じ場所を抜けた。ノンノは車輪が岩から離れたのを見て、ようやく歩き出す。人なら並んで通れる道幅でも、荷を積んだ車には少しの余裕しかなかった。
◇
陽が高くなる頃、車輪の跡は二手に分かれた。
一方は岩を回って北へ伸び、もう一方は低い砂地へ下っている。近くに道標はなく、どちらの轍も最近ついたように見えた。年嵩の男が荷車を止め、先頭で待っていた調査員たちを呼んだ。
「昨日話した分かれ道だ。あっちは採石場の跡。石を取りに行く者が今も通るから、轍だけ見ればそちらの方が太い」
「水場へ行くのは、こちらですね」
女性の調査員が南側を指す。
「そうだ。しばらくは低い方を行く。戻る時に迷うなら、ここから振り返って岩の形を見ておけ」
ラウルが振り返ると、先ほど抜けた岩の重なりが遠くに見えた。行きには壁のようだったものが、ここからは二つの山に分かれている。
「帰りに使う者へ伝える時にも役立ちそうだな」
「どこかへ知らせるなら、方角だけよりはいい。だが砂に車輪跡が残るとは思うなよ。昨日の風でも形が変わる」
男は南側へ手を振り、荷車を動かした。調査員は立った位置を板に記してから列へ戻る。ノンノは後ろを振り返り、岩の山が重ならない角度を探した。
「ここを通ったと、あとで分かるんでしょうか」
「地図を描いてる。俺たちが今いる間に覚える必要はない」
エルディアスの返事に、ノンノはすぐ前を向いた。
「そうですね。車も、まだあそこですし」
先頭の車が下りを終えるまで、一行は速度を緩めた。途中、車の積み荷を覆う布が風で持ち上がり、若い御者が手綱を片手へまとめて結び直した。布の下から覗いたのは、街で見かけたものと同じ穀物の袋だった。
「河の方では、これが足りないのか」
ガルムが尋ねると、御者は笑った。
「河沿いでも採れるよ。これはそのまま運ぶんじゃない。向こうから来た荷に混ぜて、倉で数を合わせる分だ」
「荷を戻したり、持って行ったり。よく間違えないな」
「間違えたら、うちの親方に怒られる」
「向こうの倉にいる人にも、でしょうね」
セルマの一言に、御者は肩をすくめた。
「そっちの方が怖い。数が一つ違っても、その場で全部下ろせと言う」
荷の組の長が振り返り、聞こえているぞという顔をした。御者は口を閉じたが、車が岩を越えたところでまた話し始める。
「昨日までいた街は、小さいと思ったかい」
「門から池まで、すぐでした」
ノンノが答えた。
「あれでも道の途中じゃ大きい方だ。水が湧く場所に宿と店が揃ってる。ここから先の水場には、寝る場所を売る人もいないよ」
「じゃあ、今夜はまた野営ですね」
「そういうこと。昨日の寝台が恋しくなるだろ」
「もう少し寝ておけばよかったです」
ノンノの返事に、ガルムが笑った。
「お前は朝もちゃんと食ってただろ」
「食べたのと寝たのは別です」
前の車が揺れ、結んだ荷の縄が短く鳴った。エルディアスも宿の寝台を思い出したが、背中に食い込む荷の位置を直して歩き続けた。
◇
昼の休みには、岩が重なってできた陰を使った。
荷の組はラバを日陰の深い側へ寄せ、脚に砂が詰まっていないかを確かめる。ラウルたちは少し離れて座り、水と食料を口にした。ノンノが街で買った薄いパンを割ると、昨日より硬い音がした。
「確かに、持ち運ぶには便利ですね。潰れてません」
「口の中の水まで持っていくけどな」
エルディアスが水袋を渡すと、ノンノは一口だけ飲んだ。
「分かってます。飲み過ぎないように、さっきは我慢しました」
「必要な分は飲め。あの水場までまだ歩く」
「さっきも飲みましたよ」
「ならいい」
セルマはそのやり取りを聞きながら、昨日買った干した果物の包みを開いた。ノンノの前へ一つ置く。
「これ、昨夜は食べずに寝たでしょう」
「取っておいてくれたんですか」
「私も忘れてたの。今ならみんなで分けられるわ」
ガルムが手を伸ばすと、セルマは一つだけ渡した。
「食べるのが早い人は、それで終わり」
「まだ何も言ってないぞ」
「言う前に取ったでしょう」
ガルムは口を開けたが、そのまま果物を噛んだ。リュシアは自分の分を少しずつ食べ、干し方で残る甘みが違うのだとノンノに話す。宿で買った香草の袋も荷に入っている。夜、火を使える場所なら湯を沸かそうという話になった。
少し離れた荷車では、若い御者がラバに水を飲ませていた。槽などないので、深い桶を降ろし、一頭ずつ鼻先へ運ぶ。ラバの一頭は先に水へ口をつけたがり、隣の桶へ首を伸ばした。
「こら、順番だ」
御者が肩を押し戻す。ノンノが見ていると、彼は桶の重さに気づいて一度手を止めた。
「触ってみるか。噛みつきはしないよ」
「いいんですか」
「耳は急に掴まないで。首の横なら」
ノンノは近づいて掌を差し出した。額に白い毛のあるラバは一度匂いを嗅ぎ、すぐ桶の方へ顔を戻す。昨日、荷置き場でパンの包みに鼻を寄せた一頭だ。ノンノは首筋の短い毛に触れた。
「馬より、少し毛が硬いですね」
「よく働くし、荷も曳く。気に入ったなら、あんたも水の桶を持ってくれ」
「今のうちに言うと思いました」
ノンノは笑い、空いた桶を持ち上げた。水袋から注ぐのは御者の仕事だ。ラバが急に前へ出ないよう側に立ち、桶を安定させる。リュシアが少し離れた所から見守っていたが、ラバは水を飲み終えるとおとなしく鼻を離した。
「できたじゃない」
「桶を持ってただけです。……でも、あの子は顔が近いと大きいですね」
「ラクダに乗った時も似たようなことを言ってませんでした?」
「ラクダはもっと高かったです。近くで見ると、どの子も思ったより大きいんです」
リュシアは頷き、ノンノの手についた水を拭く布を渡した。荷を曳くラバが再び歩けるのを確かめ、隊も陰を出た。
◇
午後の道は、石の間に砂が溜まり始めた。
荷車の幅ほどしかない窪みに、風で運ばれた砂が斜めに積もっている。先頭の車は勢いをつけずに入り、ラバが引く力に合わせてゆっくり進んだ。二台目が続いたところで、片側の車輪だけが深く沈む。前へ引こうとすると、荷が傾いた。
「止めろ」
年嵩の男が短く言った。御者が手綱を緩め、ラバも足を止める。車体を無理に起こせば、荷の縄が外れるかもしれない。
「ここ、昨日の風で埋まったな。砂をどける。誰か、車輪の下へ板を入れたい」
ガルムが背負い枠を外し、荷車の横へしゃがんだ。エルディアスと護衛も手を貸す。積み荷の角が片側へ寄っているのを見て、セルマが御者に確認した。
「これを降ろせば、軽くなる?」
「二つだけ頼む。布を切らないように持ってくれ」
ガルムが荷箱を受け、セルマと護衛で平らな岩の上へ運んだ。御者は車輪の前の砂を掻き、薄い板を押し込む。ラバはじれたように足を動かした。
「今は引かせないで」
ノンノが言うと、御者も気づいて手綱を短く持った。
「分かってる。車輪の下に手があるうちは動かさん」
ノンノはラバの正面を避けて脇に立った。昼に水を飲ませた、額に白い毛のあるラバとは別の一頭だ。鼻を鳴らしながらも、御者が合図しない間は前へ出なかった。
「ニペクは呼ばないのか?」
ガルムが砂から顔を上げた。
「この子は、今は止まってくれてます。使役するより、御者さんに頼む方が早いです」
「それもそうか」
ガルムは手元の砂をもう一度払う。エルディアスが反対側から車体を支え、御者が板の位置を確かめた。
「引いていい。少しずつだ」
ラバが踏み出すと、車輪は一度板の上へ乗り、ゆっくりと窪みを越えた。沈んでいた側が持ち上がり、車体が水平へ戻る。御者は安全なところで車を止め、ラウルたちが荷箱を積み直すのを待った。
「助かった。九人も歩いてきた意味があったな」
「荷を運んだのは、ほとんど俺だ」
ガルムが肩を回す。
「二つだけでしょう」
セルマがすぐに言い、御者が笑った。傷のある車輪も、板の上を越えただけで金具は外れていない。皆が荷の縄を確認し終えると、年嵩の男が先頭へ戻った。
「今日はこの先の水場で止める。遅れても、明るいうちに着けるよ」
ノンノは荷車が進むのを見届け、そっとラバの首の横へ掌を当てた。すぐに離して、リュシアの隣へ戻る。
「今の子も、ちゃんと待ってくれました」
「御者さんが止めていてくれましたからね」
「はい。ニペクを使う出番は、ありませんでした」
エルディアスは歩きながら、ノンノの返事を聞いた。できることがあると分かっていても、それを使わずに済むなら誰も困らない。荷車はまた、朝と同じ間隔を空けて進んでいった。
◇
夕方の水場は、遠くから見るとただの岩のくぼみに見えた。
近づくと、岩肌の陰から細い水が滲み出し、石で囲んだ浅い槽へ溜まっている。槽のまわりには古い足跡が重なり、少し離れた平らな地面には、以前火を使った黒い跡が幾つかあった。家も畑もない。街の池と違って、ここに留まる人はいないらしい。
「水があると言われていたのに、見つけられませんでした」
ノンノが槽を見下ろす。
「岩の裏だからな。遠目に探すと通り過ぎる」
若い御者は水の量を確かめ、一台ずつ車を寄せた。汲む者が重ならないように順を決める。ラウルたちも必要な分だけ袋へ移し、ラバが飲む場所を空けた。
「この水場、いつもこれだけ出るのか」
ラウルが荷の組の長へ尋ねた。
「風で砂が入れば、口が細くなる。戻る時には下をさらうこともある。今日は足りるよ」
「明日、河まで行けるんだな」
「歩ければな。途中で長く足を止めなければ、陽が落ちる前には荷渡し場へ着く」
男は槽のそばから離れ、夜に車を並べる場所を示した。ラウルは護衛と見張りの順を決め、エルディアスたちへ知らせる。荷の組にも夜番がいるが、水場の周りは互いの荷が近い。先に異変に気づいた者が全員へ声を掛けることになった。
薄暗くなってから、リュシアが小鍋で湯を沸かした。塩と干し肉を入れ、昼に残ったパンを浸す。宿で買った香草の袋を開くと、昼の砂と革の匂いに混じって、街の台所を思わせる香りがした。
「お、昨日の飯に似た匂いだ」
ガルムが鍋へ顔を寄せる。
「同じ葉かもしれません。入れ過ぎると強いそうなので、少しだけです」
「俺の分には多く入れてもいいぞ」
「最初から別に作るほど鍋はありません」
「じゃあ、食ってから考える」
セルマが後ろからガルムの肩を押した。
「皆に行き渡ってからでしょう。昨日も先に覗いてたわよ」
「先に食うとは言ってない」
「顔は言ってる」
若い御者まで焚き火越しに笑い、ガルムは諦めたように少し離れた岩へ座った。九人の皿へ湯を分けると、リュシアは自分の分を最後に取った。薄いスープだが、干した肉の塩気が湯に溶け、硬いパンが少しずつ柔らかくなる。
「明日、河が見えるんですよね」
ノンノが器を両手で包んだ。
「天気がよければな」
若い御者の返事を聞いて、ガルムが眉を上げた。
「河を見落とすこともあるのか」
「近づくまで地面の高低に隠れる。見落とすって話じゃないよ。曇っていると、遠くから水の色が分かりにくい」
「ハディルという街も、河のそばにあるんですよね」
ノンノが尋ねると、御者は頷いた。
「上流だ。俺は荷渡し場までしか行かない。あの街のことなら、河沿いで舟を出す人たちに聞くといい」
「そこまで歩くには、まだ何日もかかるのか」
エルディアスが言う。
「陸をずっと行くなら、ここから河へ出るのとはまた違う。舟なら流れに逆らって上る分、下る時より時間がかかる。明日、荷渡し場で聞いてくれ。俺が適当に言って違ったら困る」
「分かった。今は、あんたたちについて河へ行く」
ラウルが話を収めた。ノンノはスープへ息を吹きかけ、空いた片手で東の暗闇を指した。
「昨日、街が見えた時は、塔だけが先に見えました。河は、どこから見えるんでしょう」
「明日になれば分かる」
御者はそれ以上教えず、自分の皿を取りに行った。ノンノは少し不服そうだったが、食べ終える頃にはあくびを隠していた。
夜番に立った時、エルディアスには街で聞いた話が何度か思い出された。海へ出る蒸気船の話まで続く大河が、この岩の向こうにあるという。背後の水場からは、細い水の落ちる音しか聞こえない。見えるのは、荷車の黒い輪郭と、順番に薪を足す焚き火の光だった。
――どんな河でしょうね。
リュシアが眠る前に、念話で尋ねてきた。
――見てから考える。聞いた通りなら、かなり大きい。
――おやすみなさい。見張り、交代の時に起こしてください。
エルディアスは火の傍にいる護衛へ目を向けた。夜明けまではまだ長いが、風は落ち着いている。あの街の池の水面とは違う音を、明日には聞けるのだろう。
◇
翌朝、水場を離れる時、若い御者が槽の縁を手で払った。
「次に来る時まで、砂で埋まらなきゃいいけど」
「帰りに通るんだろ」
ガルムが尋ねる。
「そうだ。でも向こうで積み荷を待てば、数日は空くからね」
三台の車が順に動き出した。前日より足元には砂が多い。それでも車輪の跡は途切れず、時折、逆方向へ向かった車の跡が交差する。風の弱い窪地では、古い轍も重なっていた。
昼近く、前方で白い鳥が二羽、岩から飛び立った。ノンノが真っ先に気づき、空を見上げる。
「昨日の鳥とは、違いますね」
「水の近くにいるやつだ」
御者が手綱を持ち直した。
「河が近い?」
「もう少しだ。地面が下がったところに出る」
ノンノは鳥の行き先を目で追ったが、岩の向こうへ消えるまで、水らしい色は見えなかった。
次に変わったのは風だった。乾いた砂を吹きつけるだけだった空気に、湿った土の匂いが混じる。街のオアシスへ着いた時とも違う。ひと息吸い込む間に、鼻の奥へ冷たいものが残った。
「匂いがします」
「何の?」
セルマが尋ねた。
「水と、濡れた木みたいな……でも、まだ見えません」
リュシアも顔を上げた。風は前方の低地から来ている。エルディアスには初め、濡れた木より土の匂いが強く感じられた。荷車の轍の脇へ草の細い葉が増え始めている。
「聞こえないか」
ラウルが足を緩めた。車輪の音が途切れる一瞬、低く続く音が前から届く。風が岩を鳴らすのに似ているが、息継ぎがない。
「水の音……ですか?」
「そうだと思う」
エルディアスが答えると、若い御者が振り返った。
「ここから先は、先に行って見てもいい。坂の先で道が分かれることはないよ」
ノンノはラウルとエルディアスの顔を交互に見た。
「行っていいですか」
「離れ過ぎるなよ」
「はい!」
ノンノはリュシアの袖を軽く引いた。二人が車の少し前へ出て、坂の上まで歩く。エルディアスとラウルも後に続いた。
目の前の岩が途切れた。
その先には、今まで見ていた砂と同じ色の地面が、急に低く落ち込んでいた。斜面の下には、細く畑のような緑がある。さらにその向こう一面で光が揺れている。
ノンノは足を止めた。
「……どこから、どこまでが河なんですか」
斜面を下りた先に水際があった。その向こうに、筋を幾つも重ねた水の流れが広がっている。対岸は見える。だが、砂漠で歩いてきた道の先を眺める時のように遠く、向こう岸の木々は薄い線にしか見えない。河の途中には低い中洲があり、その両側を別々の速さで水が進んでいた。
「全部だよ」
追いついた若い御者が、斜面の下から向こう岸までを指した。
「中の緑は島だ。雨が多い時には、あれも形が変わる」
「街の池が、何個あればあの幅になるんでしょう」
ノンノの問いに、御者もすぐには答えなかった。
「数えたことないな。俺は最初に見た時、向こう岸が陸地だと分からなかったよ」
ガルムが坂の上へ出て、口笛を吹きかけてやめた。セルマは水面へ目を細める。河の上を風が走るたびに、光の筋が端から端へ渡っていく。
「ここの流れで、船は上へ行けるの?」
「岸の近くと真ん中じゃ速さが違う。舟を出す人が道を知ってるさ。大きい船が通るところはもっと深い」
御者は轍の続く方向へ顎を向けた。斜面の下には小さな建物と、河へ突き出した木の桟橋が見える。屋根の周りには荷車が数台集まり、岸では人の声が上がっていた。舟が一艘、桟橋から離れて流れへ向きを変える。遠くに見えるうちは小さな点のようだったが、何人かが乗っているらしい。
「対岸まで、渡るんですか」
ノンノが目で舟を追う。
「あれは下流の岸へ荷を運ぶ。向こう岸へ行く舟は、もっと上手から出るよ」
舟は水に押されて少し下り、漕ぐ者が向きを直した。遠いのに、流れへ逆らう動きは分かる。先ほど岩の向こうで聞いた音は、水が中洲の端へぶつかって続いているものだった。
「海へ出る船が入れるって聞いてたけど、こんなに広いとは」
エルディアスが言うと、リュシアも頷いた。
「森の中にいた時より、遠くまで見えるはずなのに。向こう岸がとても遠いですね」
地図を持った女性の調査員が斜面の縁へ来た。筆記具を出しかけ、しばらくは動かさずに河を見ていた。ようやく水際の位置を確かめてから、板を膝に載せる。
「聞いていた『河』は、ここだったんですね」
「ああ。まず河に着いた。上流の街は、まだここからだ」
ラウルは水を眺めたまま答えた。ノンノは二日前の夕暮れに見た街の塔を思い出したのか、視線を上流へ動かす。河はそこでも幅を狭めず、緑の縁と砂の地面を連れて遠くへ続いていた。
◇
荷渡し場には、石を敷いた広い地面と、荷を濡らさないための屋根があった。
年嵩の男が車を止めると、屋根の下から別の男が出てきた。巻いた紙を手にしている。三台から降ろす箱の数を二人で確かめ、若い御者がラバを日陰へ連れていった。荷を下ろすにはまだしばらく掛かりそうだった。
ラウルは通路を塞がない場所へ九人を寄せ、商人へ礼を言った。
「ここまで案内してもらえて助かった。水場も、あんたたちがいなければ通り過ぎたかもしれない」
「次に通る時は、岩の陰を覚えておくといい。まあ、あんたらは上流を目指すんだったな」
「ハディルまでの行き方を、ここで聞いてから決める」
「舟を探すなら、あの屋根の裏だ。陸の道を聞くなら、荷の帳面をつけてる男に聞いてくれ。ここから先の客や荷を見ている」
男が、紙を持った人物を示す。自分は荷を降ろす方へ戻りかけ、ふと思い出したようにノンノを見る。
「桶を持ってくれたのも助かった。あいつは知らない人がいると、水を飲むのが遅いんだがな」
「ちゃんと飲んでましたよ。たくさん」
「それならよかった」
ノンノは、日陰に移ったラバの方へ目を向けた。昼には御者が綱を解き、脚を休ませるだろう。明日以降、同じ道を西へ戻るとしても、その時こちらの九人は一緒ではない。
若い御者も顔を出した。
「ハディルへ着いたら、昨日の街より店はずっと多いよ。パンを買うだけで道を間違えないようにな」
「昨日の街でも、ちゃんと買えました」
「じゃあ大丈夫だ」
彼は笑い、積み荷を受け取る側へ戻っていった。ラウルは改めて人数を確かめ、調査員と護衛を連れて、屋根の下にいる男の方へ向かう。ガルムとセルマも続いた。
エルディアスは一歩遅れて、河を振り返った。荷車の軋む音や人の声の向こうで、水の音だけが途切れずに続いている。リュシアが傍へ並び、ノンノは前を行くラウルたちと河の間で迷った末、二人のところへ戻った。
「近くで見ても、大きいですね」
「ここからでも、まだ向こう岸まで遠い」
「海はもっと大きいんですよね」
「そう聞く」
ノンノはその返事を確かめるように、広い水面を見た。エルディアスも、向こう岸を走る細い緑の線から目を離せない。今朝まで地図の端に書かれていた河が、目の前では対岸を霞ませるほどの幅を持って流れていた。
上流には、ハディルという大きな街がある。そこへどうやって行くかは、ここで人に聞いて決めることになる。エルディアスはリュシアとノンノを促し、水音を背に荷渡し場の屋根へ向かった。




