第89話 分岐
夜明け前、宿の一階で木の戸を動かす音がした。
エルディアスが目を開けると、窓の向こうはまだ薄暗い。池を囲む木々の輪郭だけが見え、階下では女将が火を起こしているらしく、薪のはぜる音が床板を通して届いた。向かいの寝台にはガルムが横を向いて寝ている。ラウルはすでに起きていて、小卓の上で昨夜の紙を折り直していた。
「早いな」
「荷の組が今朝、東へ出るかもしれない。出発してから探しても遅い」
声を抑えて答えたラウルの前には、地図とは別に短い書き込みのある紙が置かれている。砂漠のオアシスからこの街までの記録と、酒場で聞いた河の話。その境で筆跡が止まっていた。
「もう書いたのか」
「調査員と夜のうちに揃えた。俺たちが見たものと、商人に聞いたものは分けてある」
エルディアスは頷き、寝台の下から靴を引き出した。昨夜は落とし切ったつもりの砂が、踵の内側からまた少し出てきた。外では水を汲みに行く者の足音がし始めている。
階下に降りると、女将が鍋の脇でパンを並べていた。まだ客のいない卓の端には、空の水袋が幾つかまとめて置かれている。
「昨日言ってた荷の組なら、もう起きてるよ。水場の向こうの荷置き場だ。朝のうちに積み替えるんだと」
「助かる。東へ戻るか聞いてくる」
「腹に何か入れてからにしな。帰ってきた頃には、鍋も温まってる」
ラウルはパンを二つ買い、一つをエルディアスに渡した。戸口へ向かうと、朝の空気はひんやりしていたが、通りの向こうに見える砂地には、すでに陽が触れ始めている。
◇
荷置き場は池を回った東側の門に近かった。低い石の台に木箱と布袋が並び、二人の男が箱の角へ縄を掛けている。その先に、小さな荷車が三台あった。車には一頭ずつラバがつながれている。馬に似た身体に長い耳を立て、蹄で地面の砂を掻いていた。額に白い毛のある一頭が水槽へ鼻を寄せると、若い御者が耳の間を撫でた。
ラウルが宿と酒場で聞いた話を告げると、荷の組の長は濡れた手を布で拭った。
「河へ戻るのは明日の朝だ。今日のうちに荷を下ろして、帰りの品を積む。日が昇ったらラバに水を飲ませて出るから、一緒に行きたいなら、その前にここへ来てくれ」
「途中の水場を外したくない。同行しても構わないか」
「こちらの荷とラバの世話を妨げなければ。河沿いの荷渡し場までなら一緒に行ける。その先は自分たちで歩いてくれ」
「ハディルという街へは行かないのか」
「行かん。俺たちは河で荷を渡して、こっちへ戻る。あの街はそこから上流だ。いつ戻るかは向こうの積み荷次第だが、あんたたちを待つつもりはないよ」
男は荷の上から外へ目を向けた。門の向こうには、今は近くの岩が見えるだけで、河の方角はまだ分からない。
「明日は陽が上がり切る前に出る。昼には岩陰を使う。道の途中に水場が一つあるが、あそこへ着くまで飲む分はここで持て。木箱を積んでいる俺たちから分けられるとは思わないでくれ」
「分かった。道が分かれているところは?」
「初日は途中で車輪跡が二つになる。北へ折れた方は、古い採石場の跡だ。水場へ行くなら南側。昼の休みの時に見せるよ」
年嵩の男が顎で若い御者を示すと、御者は足元の箱を一つ持ち上げた。人が話している間も積み替えは続いている。ラウルはそれ以上作業を止めず、明朝の待ち合わせ場所を確かめた。
宿へ戻る途中、エルディアスは荷車の轍を振り返った。街へ入ってくる道は何本もあった。見える跡の数だけで、どれが河まで続いているかは分からない。案内を得られたことで、河までの迷いは減る。ハディルへ向かう道は、河に着いてから確かめなければならない。
「全員で先へ行くつもりか」
尋ねると、ラウルはすぐには答えなかった。
「昨夜から考えていた。ここまでの記録を先に届けたい。砂漠を抜けて街があり、水が補えると分かった。河とハディルの話も、聞いた情報として伝えられる。俺たちが河まで行ってから引き返すと、そのぶん報告が遅れる」
「誰かを戻すのか」
「ああ。宿で人数を決める」
街の中央では、汲み場の前に桶の列ができ始めていた。今ここで買える食料の量や、帰り道に水を得られる場所も確かめなければならない。ラウルは二つ目のパンを食べ終え、包んでいた布を畳んだ。
◇
《泉の灯》では、朝食の鍋がすでに卓へ運ばれていた。薄く煮た豆と、昨夜より塩の少ない肉。先に降りていたノンノが湯気を避けて皿を持ち、リュシアの隣に座っている。
「荷の人たち、いたんですか」
「明日の朝、河へ向かう。道を一緒に行けることになった」
ラウルの返事に、ノンノの耳が立った。ガルムも階段から降りてきたところで足を止める。
「なら今日は水と食料か。俺は先に革屋へ行ってくる」
「飯は食べてからにしなよ」
女将に言われ、ガルムは空いた席へ収まった。セルマがその前へパンを置く。
「昨夜、朝いちばんに行くって言ったでしょう」
「飯を食うなとは言ってないだろ」
そのやり取りを聞きながら、ラウルは自分の皿に手をつける前に、卓の反対側にいた調査員の二人へ声を掛けた。
「記録を届ける組を分けたい。こちらの街までの測量を一人、報告に持って帰ってもらう。先はもう一人が記録を続ける」
男性の調査員が筆記具を置いた。
「戻る方は私が行きます。オアシスまでの測定値は、私の板に残っています。向こうの班に説明するなら、道中でどこを測り直したかも話せます」
女性の調査員は彼の板を見てから頷いた。
「この先の空白は私が引き受けます。街から出る方角と、途中の水場を先に確かめますね」
「護衛を三人つける。こちらは二人が残る」
隣の卓にいた護衛たちが顔を上げた。ラウルは名前を呼んで組を決め、それぞれが持つ水袋の数を調べた。報告組は四人。残るのは、エルディアス、リュシア、ノンノ、ラウル、ガルム、セルマと、調査員一人、護衛二人の九人になる。
「四人で帰るなら、来た道を辿れるか」
エルディアスが尋ねると、戻ることになった調査員は板を開いた。
「こことオアシスの間は位置を記録してあります。昨日の風で目印が埋まっているところもあるでしょうから、岩場の印と方角を合わせます。水は全員、街で満たしてから出ます」
「砂甲蠍を倒した岩の窪地も避けて行け」
ガルムが言った。護衛の一人が、昨日ついた腕の浅い傷を見せる。
「覚えてる。南側の岩を回れば、あそこには下りずに済む」
見通しが悪くなれば無理に進まず、この街へ戻って泊まり直す。四人はそう決め、翌朝ではなく、今日は物資を整えて休み、明日の朝に西へ出ることになった。東へ向かう荷車と出発が重なるが、門は反対側だ。
ノンノは二つの組を指で数えたあと、男性の調査員を見た。
「戻ったら、塔まで知らせるんですか」
「まず転移紋のあるオアシスに寄って、そこにいる王都の者に記録を渡す。それから塔を通ってセレイスへ送る報告も揃えるよ」
「この街があったことも、ちゃんと伝わるんですね」
「君が遠くから見つけた塔のことも、書いてある」
ノンノは思いがけなかったようにまばたきし、それから皿へ目を戻した。記録を持ち帰る者が自分の見たものを知っている。それが嬉しかったのか、次にパンを割る手つきが少し軽くなっている。
ラウルは東へ行く調査員にも、聞いた話の紙を渡した。河と大きな街については、実際に見てから記録へ入れる。宿の女将が水差しを置きに来るのを待って、明日は日の出に合わせて支度を始めると全員で確かめた。
「街へ戻ってくる日を決めておくのか」
セルマの問いに、ラウルは首を振った。
「先へ行く組の予定は、河を見てから考える。報告組はオアシスへ戻れば仕事が続く。こちらを待つために、この街へ引き返す必要はない」
四人のうちの一人が頷いた。二組は明日から別の場所で、それぞれの仕事を進める。
◇
朝食のあと、宿の壁際に並んだ荷が床の中央へ移された。
昨夜までは誰の荷がどの寝台の下にあるかだけ分かればよかった。今日は九人の荷と四人の荷を分け、その上で足りないものを調べる。調査員の記録板は似た布に包まれていたので、男性の方が留め紐の端へ赤い糸を巻いた。護衛たちは食料と水袋を各自の前に置く。
「その袋、先へ行く分の干し肉が入っている」
「こっちは帰り用だ。取り違えるところだった」
袋を交換した二人は中身を数え直した。女将は卓を一つ空けてくれたが、すべてを広げるには足りず、床にも布が敷かれる。
エルディアスはリュシアとノンノの水袋を確かめた。砂漠に入ってから継ぎ足して使ったものは口の革が硬くなっている。水を満たす前に修理するか、街で替えた方がよい。
「これ、わたしのです。まだ漏れてません」
ノンノが自分の袋を持ち上げた。
「今はな。日なたで歩いている時に漏れたら困る」
「じゃあ、革屋さんにも見せます」
「私の分もお願いします」
リュシアが同じように袋を渡した。ノンノが両腕に抱えて出ようとすると、エルディアスも立ち上がる。
「一緒に行く。ガルムの修理も終わったか確かめたい」
ガルムは戸口で待っていた。手には壊れた背負い枠がある。まだ修理に出していなかったらしく、エルディアスが見ているのに気づくと笑った。
「飯を食ったら行くと言っただろ」
革屋の女は、三人を見て針を置いた。ガルムが背負い枠を差し出すと、女は昨夜指した紐をすぐに引っ張った。
「これ、よく荷を落とさなかったね」
「昨日、ここまでは持った」
「今日も持つかは別だよ。縫い付けるから、昼過ぎに取りにおいで」
ノンノが水袋を見せると、女は口の革を裏返し、縁を親指で押した。リュシアの袋はまだ使えるが、ノンノの袋は綴じ目が少し浮いている。女は新しい水袋を一つ棚から下ろした。
「同じ形なら、紐を付け替えればいい。古い方も直せるけど、明日持って出るならこっちにしな」
ノンノは値を聞いてからエルディアスを見た。
「必要なものだ。買っておけ」
「はい。……パンも買うつもりだったんですけど、先にこっちですね」
「パンを買う分は残るだろ」
「残ります。先に言ってもらえると、少し安心します」
店を出ると、パン屋の前には焼き上がりを待つ者が並んでいた。通りの反対側では、別の店が穀物を量り、荷車へ袋を載せている。小さな街でも朝に動く品は多い。ノンノは順番を待つ間、革屋から渡された新しい水袋の栓を確かめていた。
パン屋の戸口に、小麦の粉が細くこぼれていた。列に並んでいるのは旅人ばかりではない。素焼きの皿を抱えた子どもが、前の女の籠を覗き込んでいる。窯の中から長い柄の板が引き出されるたび、焼けた生地の匂いが通りへ流れた。
「さっきのは、宿で食べたのと形が違いますね」
ノンノが指したのは、手のひらより一回り大きい、平たく焼かれたパンだった。丸いものは厚く、こちらは指で曲げられるほど薄い。店の女が焼き上がりを布の上へ滑らせながら答える。
「薄い方は、干して持っていく人にも売る。厚いのは昼までに食べるならいいけど、外へ持ち出すと潰れやすいよ」
「明日持っていきます。今日食べる分も欲しいです」
「それなら分けて包もうか」
ノンノは頷き、手持ちの銅貨を見た。横で待っていたエルディアスは、先ほど買った水袋の代金を思い出して口を挟みかけたが、もうノンノは数を揃えている。
「自分の分は買えそうだな」
「買えます。エルさんの分も、もし要るなら」
「俺はいい。九人分の食料は別に買う」
「じゃあ、これはわたしのおやつです」
はっきり言ってから、ノンノは受け取った包みを袋の外側へ結んだ。焼きたての方を一枚だけ取り出し、ちぎった端を口に入れる。熱さに目を細めたところへ、ガルムが背後から戻ってきた。
「一人で食ってるのか」
「一人分を買ったので」
「言い切ったな」
ガルムは笑って自分の分を買った。焼き場の奥では若い男が次の生地を広げている。待ち客の皿が空になるより早く、窯の方に新しいパンが並んだ。
荷置き場の前を通ると、若い御者が三頭のラバの手綱を順にほどいていた。荷を積み替える間、日陰へ連れていくらしい。額に白い毛のある一頭が、ノンノの持つパンの包みへ鼻を向けた。
「それはあげられません。わたしの分なので」
ノンノが包みを背中へ隠すと、御者が笑った。
「欲しいのはパンじゃない。包みの音が気になったんだ。こいつには飼葉をやったばかりだから」
「ラバって、馬に似ていますね。耳はずっと長いけど」
「馬とロバの間に生まれるからな。この道は岩の間で車を曲げる場所がある。こいつらは何度も通ってるし、手綱の合図も覚えてる」
「ラクダに荷車を曳かせることはないんですか」
「ラクダで荷を運ぶ組もいるよ。うちはこの三頭で、ここと河を往復してる。明日も岩場では車から離れ過ぎないでくれよ」
ノンノは頷き、ラバを見送った。使役した一頭に乗せてもらったラクダとは違い、三頭とも御者の声に従って歩いている。エルディアスは街の東門へ目を向けた。車が発つのは明朝。今は荷の準備をする者たちの隣で、街の朝がいつものように進んでいた。
◇
リュシアはセルマと一緒に、宿の女将が教えた食料品店へ来ていた。豆と干し肉だけなら宿の分を頼めるが、同じ道を歩く九人で持つ量を決めるには、実物を見た方が早い。
店の奥には、穀物の袋と小さな木箱が隙間なく並ぶ。箱の一つを開けると、乾かした葉と細かい種がそれぞれ布袋に入っていた。リュシアが葉の方を指すと、店主は少しだけ掌に出してくれた。
「煮物に入れるんですか」
「入れてもいい。火を止める前に少しだけ。昨日、宿で食べたのにも入っていたはずだ」
指で擦ると、乾いた葉から強い香りが立った。リュシアは昨日の皿を思い出す。辛さの後に残った匂いは、これだったのかもしれない。
「塩を少し減らして、これで食べられそうですね」
「砂漠の道で料理する気なの?」
セルマが横から覗き込む。
「火を使える場所なら。毎回干し肉をそのまま齧るのも飽きるでしょう」
「ガルムなら飽きないんじゃない?」
「ガルムさんの分も作りますよ」
「それを聞いたら、本人は一番大きな鍋を探すわね」
リュシアは小さな袋を一つ買った。店主は干し肉を包む布とは分けて渡す。セルマは日持ちする豆を見繕い、調査員と護衛の分も含めて店の秤に載せた。ふだんならそれぞれが背負う品も、九人分になると袋が幾つも積み上がる。
「昨日まで十三人で食べていたのに、すぐ数が変わるのね」
セルマが数え直した袋を横へ寄せた。リュシアは四人分を外した小さな山を見る。
「向こうには向こうの水と食料があります。私たちは、こっちを持っていきましょう」
「ええ。晩飯までに、誰がどれを背負うか決めるわ」
店先の庇の下では、砂を払ったばかりの秤皿が光っていた。セルマが店主と値を詰める間、リュシアは買った香草を袋の奥へしまった。
◇
昼を過ぎると、池の周りの石畳が陽を受けて白くなった。
人々は水を汲みに出る時間をずらしたらしい。午前中に並んでいた桶は減り、汲み場の石槽の縁だけが濡れている。そこへエルディアスたちが水袋を持って来ると、槽の傍に座っていた老人が目を上げた。
「初めて見る顔だな。池の水を汲むなら、あっちの溝を使いな」
「飲む分を入れたい。宿で、ここへ来るように聞いた」
エルディアスが答えると、老人は槽の奥を指した。岩の割れ目から引いた水が先に細い石管を通り、桶を受ける口へ落ちる。その残りが脇の溝を流れて池へ入っていた。
「そっちの口から。底へ袋を突っ込むと砂が入る。木の柄杓を使ってくれ」
「ありがとうございます」
ノンノが頭を下げた。買ったばかりの袋を差し出すと、老人は栓の具合を見て、柄杓を手渡す。ノンノは一杯ずつ水を移した。革が膨らむにつれ、さっきまで軽かった袋が腕を下へ引く。
「満たすと、こんなに重いんですね」
「持って歩く水だからな」
エルディアスは自分の袋の栓を締め、底を持ち上げて漏れを見た。ノンノも同じように新しい袋の底を確かめる。横では護衛の二人が順番を待ち、今度はラウルが空の袋を幾つも抱えてきた。
池の対岸では、子どもが木の椀を洗い、家の前の低い鉢へ水を運んでいた。鉢には葉の小さな草が生えている。大人がその子から椀を受け取り、池から少し離れた家へ入っていく。
「この水がなくなったら、街も困りますね」
ノンノがぽつりと言った。
「だから、汲み場と池で使い分けてるんだろう」
エルディアスは、順を待つ人たちに場所を譲った。池の周りに家があるのは景色のためではない。人が毎日水を持って歩き、飲み、洗い、また水を取りに来る。昨日は街へ着いたことで気づかなかった往復が、昼のあちこちに見えていた。
宿へ戻る途中、鍛冶場の前で足を止めた。戸が開いており、槌で打たれた小さな輪が台の上に置かれている。奥の男は剣ではなく、荷車の車輪につける金具を留めていた。横で見ている若い者が釘の長さを間違え、男が手の甲で台を叩いて別の束を示す。
「武器より、こっちの仕事が多いんですか」
ノンノの声が届いたらしく、男が顔を上げた。
「今日はな。あんたらの後から来た車が、車輪を一つ傷めた。直してやらんと明日出られん」
ノンノは門の方を振り返った。旅人が街へ来るだけで、パン屋にも革屋にも鍛冶場にも仕事が増える。街の小ささを見ていた目で、今度は行き来する荷車の数を確かめた。
「朝、三台ありました。あれの一つかもしれませんね」
「なら、明日までに直ってほしいな」
エルディアスの返事を聞いて、鍛冶屋は槌を上げた。
「出すさ。後ろにつく連中もいるんだろ」
火の前へ戻った男を見送り、二人は水袋を持って宿へ歩いた。背中では、金具を叩く一定の音が通りの角を曲がるまで聞こえていた。
◇
午後には、宿の部屋の使い方まで変わった。
男性の調査員と護衛三人が五人部屋の片側へ荷を集め、翌朝持ち出すものを一列に並べた。残る護衛の一人は同じ部屋の反対側へ袋を寄せ、もう一人はエルディアスたちの四人部屋で荷を確かめる。寝台を替えるほどの時間ではないが、夜のうちに荷を取り違えないためだった。
廊下を挟んだ部屋では、女性の調査員が記録の写しを作っていた。ノンノは窓を開け、紙が風でめくれないよう小卓の端を押さえる。調査員は書き終えた紙を重ね、角を揃えた。
「ここから先は、まだ白いですね」
ノンノは地図の端に目を向けた。
「そう。昨日、酒場で聞いた河の位置を、今ここに決めてしまうと、歩いて見た時に線を直さなきゃならなくなる。明日は、まず水場までを記すつもり」
「わたし、遠いものなら早めに見つけられるかもしれません」
「その時は教えて。塔の時みたいに、皆で見えるところまで近づいて確かめよう」
ノンノは頷いた。紙を押さえていた手を離すと、調査員は礼を言い、窓からの風を受けないよう写しを布に包んだ。
夕方、修理された背負い枠が戻った。裏に当てた革は新しく、ガルムが重い荷を掛けても紐はずれない。セルマが横から縫い目を覗く。
「もう一度、引っ張ってみたら?」
「店でもやった。お前もやるか」
「私が引いたら、あなたの肩紐ごと取れそう」
「そこまで弱くない」
二人の声が階段を下りていくのを聞きながら、リュシアは荷袋の口を締めた。明日の朝は早い。水袋は汲み場で満たし、出発前に必要な分を継ぎ足すことにした。女将にも、日が昇ったら支度をして宿を出ると伝えてある。
窓の外から短い呼び声がした。ノンノが立ち上がって覗くと、池の脇で二人の子どもが洗った布を抱えている。片方が落とした布を、もう片方が拾って渡していた。傍では大人が低い物干し竿を立てている。
「夕方も、まだ洗い物をするんですね」
「日中は陽が強いですから。このくらいの時間が動きやすいのでしょう」
リュシアも窓辺へ寄った。水面には西からの光が残っているのに、街の外の砂地はすでに影へ沈み始めていた。池の周囲では戸口ごとに人が出てくる。屋根の下で靴から砂を払う者、桶を逆さにして乾かす者、店先の品を布で覆う者。朝とは違う手順で通りが片づいていく。
「皆、帰るところが近いんですね」
ノンノが小さく言った。昼間に見た人たちが、一人ずつ水場を離れ、屋根の下へ戻っていく。
「私たちも今夜は、この部屋へ戻れますよ」
「はい。でも、明日はもう出るから。宿の人たちは、明日も同じ朝なんでしょうね」
リュシアは答える代わりに、開けていた窓を少し狭めた。風が紙をさらわない程度にすると、外の声はまだ聞こえる。ノンノは窓際の寝台へ腰を下ろし、買った薄いパンを膝の上へ置いた。
「これ、焼いた時みたいには柔らかくない」
「明日持っていく分でしょう。今、全部食べてしまわないでくださいね」
「一枚だけです」
ノンノは端を割ってリュシアにも差し出した。リュシアは受け取り、少し噛んでから頷く。冷めた分だけ香ばしさが強い。乾いた道で食べれば、水が欲しくなりそうだった。
「明日は、食べる時に水も忘れずに」
「はい。新しい袋、いっぱいにしてあります」
廊下からセルマの足音が近づき、二人がパンを分けているのを見ると、手にした小袋を掲げた。
「夕食の前なのに、先に食べてるの?」
「ほんの少しです。セルマさんも?」
「あなたが買ったものでしょう。私は店で、別のものを貰ってきたから」
セルマの小袋には、食料品店で買った干した果物が入っていた。ノンノが中を覗くと、セルマは小袋の口を閉じる。
「甘いものなら、先に言ってください」
「夕食のあと。ちゃんと取っておくわよ」
ノンノは自分のパンを包み直し、三人で階段へ向かった。
夕食にはまた豆の煮込みが出たが、今日は辛味の強い油を後から足すようになっていた。ノンノは自分の皿へほんの少し落とし、昨日よりもゆっくり食べた。隣では報告に戻る調査員が、封をした紙を膝の上で押さえている。
「落とさない方がいいですよ、それ」
ノンノが言うと、男は笑った。
「さっきから何度も確かめている。宿の二階でも、ここでもね」
「わたしも朝、水袋を何度も見てました」
「明日は互いに、自分の持ち物を忘れずに済みそうだ」
離れていた卓でも護衛たちが荷の話をしている。いつもなら同じ方角を確かめ合うところで、今は二つの道の時間を話していた。西へ戻る四人は日の出とともに門を出る。東へ行く九人も、荷の組がラバに水を飲ませ終える頃に出る。
◇
翌朝、宿の戸を開けると、通りはまだ青みがかっていた。
報告組の四人が先に荷を背負う。男性の調査員は記録板を背中の高い位置へ留め、紙の入った筒を護衛の一人へ渡した。昨日確かめた水袋が、それぞれの腰で揺れる。
ラウルは最後に四人の顔を見た。
「オアシスに着いたら、街の位置と水場のことを先に伝えてくれ。河から先は、商人から聞いた話だと分かるように」
「分かっています。そちらの記録は、別の便で送ってください」
調査員はそう答えた。ラウルが頷き、二人は握手を交わす。ガルムは傷のある腕を上げて護衛たちを見送った。セルマも短く声を掛ける。
「陽が高くなる前に、岩場まで行けるといいわね」
「そっちも荷車に置いて行かれるなよ」
一人が言い返すと、ガルムが笑った。四人は池の西側を回り、昨日入ってきた門へ向かった。塔の影が落ちる手前で一度こちらを振り返り、手を上げる。そのまま門の外へ出ていった。
ノンノはしばらく門の方を見ていたが、東側から車輪を引きずる音がすると顔を戻した。荷置き場ではすでに三頭のラバがそれぞれの車につながれ、積み荷を縛った縄が朝の光に白く見える。
「行きましょうか」
リュシアが言った。ノンノは頷き、足元へ落ちた肩紐を掛け直す。エルディアスは自分の荷を持ち上げ、ラウルたちと東へ歩いた。
東門の前で荷の組と合流すると、年嵩の男が人数を数えた。
「九人だな。うちは車が三台。道が狭いところでは前へ詰めず、一台分空けて歩いてくれ」
「分かった」
車輪が動き、石を踏む音がした。街の壁を出ると、湧き水のそばに集まっていた家々が背後に小さくなっていく。風の中から煮物や薪の匂いが消え、砂と乾いた岩の匂いに変わった。
先頭の荷車は緩い斜面を選んで進む。轍の端には昨日のものと、もっと古いものが重なっていた。少し離れた岩の上に鳥が一羽止まり、車の列を見送ってから飛び立つ。ノンノは目で追いかけたが、足は止めなかった。
歩き始めてしばらくすると、御者が振り返った。
「今日は岩が続く。この先で道が二つに見えても、まだ車について来てくれ。昼の休みの時に、向こうの地形を教える」
ラウルが礼を言い、後ろへ声を渡す。二人の護衛が列の前後を確かめ、女性の調査員は揺れる車輪を避けながら方角を書いた。
エルディアスは肩越しに街を見た。西門から出た四人の姿は、街を挟んだ向こう側にもう見えない。こちらには荷車の跡が河の方へ伸びている。
――あの人たちが知らせを届ける頃には、私たちも河に近づいているでしょうか。
リュシアの念話が届いた。
――まずは水場だ。あの商人も、そこまでは外すなと言ってた。
前方で最初の車が岩の陰に入り、続く車輪の音が少し低くなる。エルディアスは足元の固い砂を確かめ、リュシアたちとともにその後へ続いた。




