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第88話 舟路

 門の内側で荷を確かめてもらう間にも、通りを行く者は途切れなかった。空の桶を提げた女が水場へ向かい、その後ろを、車輪の軸に油を差したばかりの荷車がゆっくり進んでいく。車を押す男に道を空けると、男はラウルたちの背負い枠を一度見て、軽く顎を引いた。


「これだけの人数で泊まれるところはあるか」


 ラウルが尋ねると、見張りは通りの先を指した。


「水場の手前で右に曲がれ。二階に木の手摺がある家だ。《泉の灯》という。飯も出す」


「十三人だが」


「部屋は幾つかある。今夜どれだけ空いているかは、女将に聞いてくれ」


 見張りは荷の口を閉じてよいと合図し、ガルムの足元に置かれた水袋へ目を向けた。


「飲む水なら、池へ降りずに汲み場へ行け。湧き口から引いた方だ。宿にも水はある」


「分かった。助かった」


 荷を背負い直すと、肩に食い込む革の感触が戻った。もう長く歩く必要はない。それでも、いったん下ろした荷を持ち上げる時の方が重く感じる。ノンノも唇を結び、肩紐を引いて位置を直した。


 街の通りは、荷車と人がどうにかすれ違えるほどだった。家の壁は白く塗られているが、足元に近いところには砂が付着し、戸口ごとに色が違う。張り出した庇の下へ入ると、頭に当たっていた陽が切れた。ノンノは布を少し緩め、ようやく耳を起こした。


「屋根があると、こんなに違うんですね」


「立ち止まるなら端へ寄れよ」


「止まってません」


 そう返しながら、ノンノは荷車のためにリュシアの後ろへ回った。


 左手の店から金槌の音が響いた。開いた戸の奥で、男が短い刃物を作業台に留めている。壁には槍先と手斧、長さの違う剣が数本掛かり、入口の棚には釘や金具が並んでいた。鍛冶場の熱が通りまで流れてくる。


 その隣では、革を縫っていた女が手を止め、ガルムの背負い枠を見た。


「そこの紐、直すなら明日の朝までに持ってきな。今の結び方だと、重いものを掛けるとずれるよ」


 ガルムが足を止める。昨日、蠍に裂かれたところを結び直した紐だった。


「見ただけで分かるのか」


「毎日見てるからね。裏から当てる革もある」


「宿を取ってから来る」


 女は頷き、再び針を動かした。店の内側には胸当てや腕当て、水袋が吊るされている。鎧を一式新調するほどの品数ではないが、旅の途中で壊れたものなら、ここで直せそうだった。


 さらに進むと、穀物を量る皿の擦れる音が聞こえた。袋の口から豆が覗き、干した肉は布を掛けた籠に収めてある。パンを売る台の前では子どもが銅貨を握り、順番を待っていた。


「武器も、食べるものもあるんですね」


 ノンノが小さく言った。


「ここに住んでいる人にも、通る人にも要りますから」


 リュシアはパンの大きさと、店の奥に積まれた粉袋へ目を向けた。ノンノもつられて見たが、すぐに焼けた匂いのする方へ顔を戻す。


「このパン、宿でも出るでしょうか」


「着いてから聞けば分かりますよ」


「宿で食べられるなら、今は買わなくてもいいですよね」


「二つ持って入るつもりだったのか」


 エルディアスが尋ねると、ノンノは答えず、前を行くラウルたちに歩調を合わせた。リュシアが少し笑う。


 通りの先で視界が開けた。


 木々に囲まれた池は、門から見た時より水の色が深かった。岸辺に近いところでは小石が透け、木の葉の影がその上を揺れている。岩の割れ目から湧く水は石の溝へ入り、一部が汲み場の槽へ、一部が池へ流れていた。桶を置く台の周りは濡れて黒い。


 水場を囲んで、家と店が寄り添うように並んでいた。奥に見える木立を越えれば、もう街の反対側なのかもしれない。砂漠を歩いていた時にはどこまでも遠く感じられた街が、今はこの水の周囲に収まっている。


 ラウルが手前で右へ曲がった。角の家だけが二階建てで、上の窓の外に木の手摺がある。戸口には灯火を描いた板が吊られ、下から煮物の匂いが漂ってきた。


     ◇


 《泉の灯》の一階には、長い卓が四つと、壁際に小さな卓が幾つかあった。酒の杯を前に話している男たちもいれば、遅い食事を取っている者もいる。入口から遠い壁に酒樽が並び、その脇で女将が皿を重ねていた。


 十三人が入ってくるのを見ると、女将は皿を置いた。


「食事かい。それとも泊まり?」


「両方だ。十三人いる」


 ラウルが答える。女将は一行を見渡し、入口に近い卓を空けるよう手伝いの若者へ声を掛けた。


「先に荷を下ろしな。入口を塞ぐと、後ろが入れないよ」


 ガルムが長椅子を引き、護衛たちが背負い枠を壁へ寄せる。荷が床に着く音が幾つも重なった。ノンノは最後に袋を下ろし、肩を回す。


「女が四人、男が九人でいいかい?」


 女将はリュシアたちと、その傍にいる調査員の女性を見て尋ねた。ラウルが頷くと、指で部屋を数える。


「上に四人部屋が二つと、五人部屋が一つ空いてる。それで足りるね。寝台は別々だが、同じ部屋だよ」


「それで頼む。女は四人で一部屋に」


「水と桶は階段の下。食事はここ。寝台へ上がる前に砂を落としておくれ」


 女将は宿代と食事の代金を告げた。王都の者が支払いを取りまとめる間、ガルムはもう長椅子へ座っている。


「飯はすぐ出るか」


「鍋は煮えてる。部屋へ荷を置いてくるくらいは待てるだろ」


「待てるが、先に聞いておこうと思ってな」


「じゃあ、戻るまでにパンを切っておくよ」


 女将の返事に、ノンノがぱっと顔を上げた。エルディアスは何も言わずに自分の袋を持ち上げた。


 二階へ上がる階段は狭く、背負い枠は横にしなければ角を曲がれなかった。廊下には小さな窓があり、開いた隙間から池の方の風が入ってくる。下で杯を置く音や、人の笑い声が床板越しに聞こえた。


 四人部屋の一つには、壁に沿って寝台が二つずつ置かれていた。中央に荷物を置けば、それだけで通路が細くなる。窓は一つ。洗面用の鉢と小さな卓があり、寝台の足元には丈夫そうな木箱があった。


 エルディアスとラウル、ガルム、護衛一人がその部屋を使うことになった。残る護衛四人と調査員の男は、隣の五人部屋へ荷を運んだ。


「窓際、使っていいか」


 ガルムが尋ねる。


「構わない。ただ、荷で窓を塞ぐなよ」


 ラウルが答えると、ガルムは袋を寝台の下へ押し込んだ。エルディアスは入口に近い寝台へ腰を下ろす。身体が沈んだのを確かめてから、靴底についた砂を戸口で落とした。


「床が平らだな」


「宿だからな」


 ガルムの言葉に返すと、彼は笑いながら靴を脱いだ。


「石の出っ張りを背中で探さなくていいってことだ」


 その意味は、腰を下ろしているだけで分かった。エルディアスも剣帯を緩めるラウルの横で荷を開き、必要なものだけを取り出した。


 廊下を挟んだ部屋では、リュシアとセルマ、ノンノ、調査員の女性が寝台を決めていた。窓を開けると、池の木々がちょうど目の高さに見えた。


「わたし、入口のそばでいいです」


 ノンノが言うと、セルマが窓際の寝台を指した。


「そっちが気になるなら、使えばいいじゃない。さっきから外ばかり見てるわよ」


「いいんですか」


「私はこっちでいい。夜中に立つ時、入口まで近い方が楽だから」


 ノンノは礼を言い、窓際へ荷を運んだ。革袋を置いて窓枠に手を掛けると、街の屋根の向こうに砂地が見える。水と葉の色があるのは、やはりこの一角だけだった。


「ここを出たら、また砂漠なんですね」


「まだ先がありますからね」


 リュシアが答える。ノンノは外を見ていたが、階下から食器の触れ合う音が聞こえると顔を戻した。


「顔を洗ったら、下へ行ってもいいですか」


「私も行きます。まずは水をもらいましょう」


 セルマが空の鉢を持って先に出た。調査員の女性は記録板を布で包み直してから、その後へ続いた。


     ◇


 一階へ戻る頃には、長い卓が二つ空けられていた。


 エルディアスたち六人が一方へ座り、護衛と調査員たちが隣へ収まる。女将は若者と一緒に深い皿を運んできた。豆と肉の煮込みには刻んだ青菜が入り、表面に赤みのある油が浮いている。パンは籠に積まれ、薄い酒と水の入った杯が順に置かれた。


 ノンノは煮込みへ顔を近づけ、すぐに少し離した。


「辛いですか、これ」


「少しね。パンと一緒に食べな」


 女将が答える。ノンノは小さくすくって口に入れ、飲み込んでからパンへ手を伸ばした。


「……少し、よりは辛いです」


「食べられないかい」


「食べられます。おいしいので」


 返事の間にも、もう次の一口をすくっている。セルマが笑い、ガルムは自分の皿を見た。


「俺にはちょうどいい」


「あなたの感想は当てにしないわ」


 リュシアは豆を匙の背で軽く押し、柔らかさを確かめていた。食べてから女将へ目を向ける。


「肉は、最初から一緒に煮るんですか」


「今日は先に焼いてから入れた。あんたも作るのかい」


「少し。旅の間は、なかなか鍋に時間を掛けられませんから」


「外じゃ火を守るだけで大変だろう。ここではゆっくり食べな」


 女将は空いた水差しを取りに戻った。リュシアはその背を見送ってから、ようやく自分の皿へ集中した。


 エルディアスも温かいものを飲み込み、息をついた。塩の利いた煮込みが、乾いたパンをゆっくりほどいていく。身体を休ませる場所と、作ってもらえる食事がある。それだけで、次に何を確かめるかを考える余地が戻ってきた。


 ラウルは杯を置き、戻ってきた女将に声を掛けた。


「この先の道を知っている者はいるか。俺たちは西から来たが、東側はまだ歩いていない」


「どこへ行きたいんだい」


「それも含めて調べている。人の集まる街や、荷の出入りする場所を知りたい」


 女将は通りに近い卓を見た。二人の男が酒を飲んでいる。一人は上着を背凭れへ掛け、もう一人は卓の下へ長い筒を置いていた。


「河の方なら、あの二人に聞いてみな。昨日こっちへ戻ったところだよ」


「河?」


 ノンノが顔を上げた。女将は当たり前のように頷く。


「東へ出れば、大きな河がある」


 ラウルが礼を言い、隣の卓へ向き直った。女将が声を掛けると、上着を脱いだ男がこちらを見た。


「西の森から来た連中か」


「そうだ。邪魔をして悪いが、河までの道を聞きたい」


「ちょうど飲み終わるところだ。少しならいい」


 ガルムが席を詰め、男たちが卓の端へ移った。二人は布や道具を運ぶ商売をしており、東の河沿いからこの街へ戻ってきたという。卓の下にあった筒は、巻いた厚手の布だった。


「河はここから遠いのか」


 ラウルが尋ねると、年嵩の男が、まず一行の靴へ目を向けた。


「歩きか。荷を運ぶ獣はいないんだな」


「今はいない」


「だったら二日は見ておけ。暑いうちに休めば、それより掛かる。俺たちの荷の足で話すと間違えるからな」


 エルディアスは、男が言い切る前に歩く者へ目を戻したのを見た。この辺りを往復している者でも、距離を一つの数字にはできないらしい。


「河まで、ずっと砂地か」


「岩の多いところもある。だが森にはならん。途中の水場を外さずに行け。道を知る者と一緒に歩く方がいい」


 男はパンの欠片を卓へ二つ置き、街と途中の水場に見立てた。詳しい道は朝、外で方角を見ながら話した方がいいという。調査員の男も隣の卓から身を寄せ、まず日数と水場の話だけを書き留めた。


「その河のそばにも、街があるのか」


「小さいところなら幾つもある。大きい街へ行きたいなら、河に出てから上流だ。ハディルまで行けば、たいていのものは揃う」


「こことは、どのくらい違う?」


 ガルムが尋ねた。


「ここで店を探すなら、通りを一度往復すれば済むだろ。向こうじゃ、何を買うのか先に決めないと歩くだけで日が暮れる」


 男の隣で、若い方が笑った。


「この人が迷うのは、いつも酒を買う時だ」


「酒屋が何軒もあるからだ」


「それは迷ってるんじゃなくて、順番に入ってるだけだろ」


 ガルムまで笑った。年嵩の男も否定せず、空になった杯を女将へ渡した。


 ノンノは話の切れ目を待ち、男へ尋ねた。


「そんなに大きい街でも、周りは砂漠なんですか」


「そうだ。河の縁には畑も木もあるが、そこから離れれば砂と岩だよ。水をどこまで引けるかで、住めるところも決まる」


 ノンノは窓の外へ目を向けた。この街の池の周りに家々が集まっているのと、似たことなのだろう。ただ、その水が池ではなく、ずっと先まで流れている。


「荷は、その河で運ぶのか」


 エルディアスが尋ねると、男は頷いた。


「舟の方が多く積めるからな。俺たちも河までは舟を使って、そこからこっちへ荷を運んだ。ハディルには大きな船着き場がある」


「大きな舟も入れるほど、深いのか」


「舟どころか、海へ出る蒸気船が入る。あれが岸に並んでいる時は、対岸なんか見えんぞ」


 ガルムが杯を置いた。セルマも男へ顔を向ける。


「海まで出る船?」


「ああ。煙突のある大きいやつだ。荷を積んで河を下っていく。戻りは流れに逆らって上ってくるから、姿が見える前に音で分かる時もある」


 若い男が掌を広げ、甲板の高さを示そうとして途中でやめた。


「岸に立って見上げるくらいだよ。荷を上げ下ろしするだけでも、ここの通りにいるより人が要る」


 ノンノは匙を皿に置いた。


「海まで、続いてるんですね。その河」


「船が行くんだから、続いているさ」


 男は笑って答えたが、エルディアスはすぐには笑えなかった。森を抜けた先に砂漠があり、砂漠の中には街があった。その先には大河が流れ、海へ向かう船まで行き来しているという。


 ――第二層の森より、まだ広いかもしれませんね。


 リュシアの声が念話で届いた。


 ――海まであるならな。まずは河と、その街を確かめよう。


 リュシアは黙って杯を持ち上げた。男たちは蒸気船で運ばれてくる品の話をしている。布、金物、油。さっき通りで見た小さな店にも、その荷の一部が並んでいるのかもしれなかった。


 ラウルは、河へ向かう者が近く出発する予定はないかを尋ねた。男たちは今夜ここへ着く荷の組があるはずだと答えたが、その者たちがいつ戻るかまでは知らなかった。


「明日の朝なら、荷置き場に誰かいる。宿の前で聞いても分かるだろう」


「助かった。道を確かめてから、改めて聞かせてくれ」


 ラウルが礼を言い、男たちの追加の酒を引き受けた。話はそこで一区切りになり、二人は元の卓へ戻っていった。


     ◇


 食事を終えた客が席を立ち、代わりに仕事帰りらしい者が入ってきた。酒場はまだ静かになる気配がない。女将が皿を下げると、ラウルは空いた場所へ地図を広げた。通り道を細かく描いた紙の先には、まだ何もない。


「まずはオアシスへ知らせを戻す。この街で水と食料を補えることと、河の話だ」


 調査員が頷く。地図の空白へいきなり河の線を引かず、別の紙へ、聞いた方角と街の名を書いた。


「ハディルまで向かうかどうかは、道と日数が分かってからだな」


「荷を直して、案内も探す必要がある」


 エルディアスが言うと、ガルムは階段の方を見た。革屋へ持っていく背負い枠は、部屋へ置いたままだ。


「明日の朝には直してもらう。あれを背負ったまま、もう二日は歩きたくない」


「今夜のうちに店が閉まるでしょう。朝いちばんに行ってきなさいよ」


 セルマに言われ、ガルムは素直に頷いた。ノンノは二階へ上がる階段を見てから、自分の空いた皿へ目を戻す。


「今日は、上で寝ていいんですよね」


「そのために部屋を取ったんだろ」


「分かってます。食べた後で、寝るところまで歩かなくていいのが、少し変な感じで」


 エルディアスは階段までの距離を見た。十歩ほど進んで、上がれば寝台がある。リュシアはノンノの水の杯が空なのを確かめ、自分も席を立った。


「先に休みましょう。明日、何を聞きたいか考えるのは、起きてからでも間に合います」


「はい。……船のことも、もう少し聞きたいです」


「私もです」


 二人とセルマが階段を上がっていく。エルディアスは地図の余白に置かれた紙へ目を落とした。東に河。その上流に大きな街。そこから海へ出る船。


 窓の外では、池の向こうの木々が夜の色に沈み始めていた。砂漠から歩いてきた者たちの荷が壁際に並び、そのすぐ隣で、この土地の道を知る者たちが杯を重ねている。


 エルディアスは冷めた水を飲み、ラウルが地図を畳むのを待った。今夜は砂の上に寝床を探さなくていい。明日の朝には、この街で道を尋ねられる。


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