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第87話 門影

 朝になると、昨夕見えた二つの影はまた地平線から消えていた。


 岩場の陰で寝具を畳んでいたノンノは、荷を背負う前に一度だけ東へ目を向けた。昨日より高い場所に立っているのに、見えるのは重なった砂丘と白い空だけだ。目を細めても、塔の線は戻らない。


「具合はどうだ」


 エルディアスが尋ねると、ノンノは水袋の口を締めてから振り向いた。


「もう平気です。昨日、早く寝ましたから」


「立ってすぐ歩けるかを聞いてる」


 ノンノは荷を肩へ掛け、岩の間を数歩進んだ。歩幅はいつもより少し狭いが、足を引きずったり、壁に触れたりはしない。


「歩けます。ニペクは、今日は出さない方がいいと思います」


「そうだな。まずは自分の足で歩くことだけ考えろ」


 リュシアが背負い袋の位置を直してやると、ノンノは礼を言い、もう一度空の下を見た。夕方には確かに見えたものが、こんなに簡単に消える。その不思議さを口にするより早く、出発の声が掛かった。


 セルマは岩陰で火を消し、使った小鍋の底を拭いていた。昨夜は風よけのない場所で湯を沸かすのにも時間が掛かったらしい。ガルムが残ったパンを包み、エルディアスたちへ回す。


「着けば、温かいものが食えるかもしれないな」


「先に水があるか確かめてからね」


 セルマに返され、ガルムはパンを頬張ったまま肩を竦めた。ノンノも包みを受け取ったが、すぐには食べない。


「あそこが本当に街なら、水もありますよね」


「人が暮らしているならな。ただ、影が建物だとまだ決まったわけじゃない」


 エルディアスが答えると、ノンノは頷いた。昨日より影が近く見えたことも、今朝見えなくなったことも本当だ。どちらかだけを選んで信じるわけにはいかなかった。


 ラウルは昨夜決めた進路を確かめ、岩場の端で一行を待った。砂甲蠍に裂かれた背負い枠は紐を替えてある。護衛の腕の傷も浅く、荷を持つ者は揃っていた。ただし水は昨日こぼした分だけ減っている。次に補給できる場所はまだ見つかっていなかった。


「昼まで進んで、様子を見る。遠くの影だけで夜まで歩き続けるつもりはない」


 誰も異を唱えなかった。街らしい影が実在しても、そこへ今日中に辿り着ける距離かどうかは分からない。一行は背後の岩の形を確かめ、低い尾根の間へ入っていった。


     ◇


 朝の砂はまだ歩ける硬さを残していた。風が溜めた浅い砂を越えると、砕けた石が広がる地面に出る。足跡は砂ではすぐに曖昧になるが、石の多い場所では、人が歩きやすい隙間が自然に決まっていた。


 昨日の窪地からは離れている。それでも一行は、丘の裏へ消える場所があるたび、先に左右を確かめた。地面に潜むものだけが魔獣ではないと、もう分かっている。岩陰でガルムが立ち止まれば後ろも止まり、何もいないと分かると、今度は少し足を速める。


 ノンノは最後尾に近い位置を歩いた。昨日はニペクで蠍を止められたが、その後は皆の戦いを岩陰から見ているしかなかった。魔導書を取り出すこともなく、今日は道の先より足元を見て歩く。リュシアが歩調を合わせてくれているのに気づき、ノンノは自分から言った。


「まだ、疲れてるように見えますか」


「昨日のような歩き方ではありません。でも、無理はしないでください」


「はい。街が見えたら走りたくなるかもしれませんけど、走りません」


「今のうちに聞いておけてよかったです」


 リュシアの返事にノンノは少し笑い、遅れている者がいないのを見て歩調を戻した。


 先頭の護衛が少し右へ進み、振り返って立ち止まる。岩の間に細い轍があった。車輪の通った窪みが二本、硬い土を横切っている。片方は石に当たったところで途切れ、その先で再び見つかった。


「昨日は、ここまで来ていないな」


 ラウルが轍へ目を落とす。調査員も近づいたが、すぐに地図を開きはしなかった。砂の上にいくらでも残る獣の足跡と違い、荷車が通った跡なら、人の住む場所が近くにあるかもしれない。


 轍は一行の進む方角とほぼ同じだった。少なくとも、今は街影から遠ざかる向きではない。ラウルは護衛一人を少し先まで行かせ、荷を持ったまま通れることを確かめてから列を進めた。


 ノンノは轍の幅に足を合わせて歩こうとして、途中でやめた。車輪の跡は平らでも、二本の間には小石が転がっている。隣を歩くリュシアの方が足場を選びやすそうだった。


「昨日のあれを運べる荷車じゃありませんね」


 ノンノが言う。砂甲蠍の胴を思い出したのだろう。


「あんなものを運んでどうするんだ」


「分かりません。でも、この道を使う人がいたら、あれのことも知ってるかもしれません」


「街へ着いたら聞いてみましょう」


 リュシアが答えると、ノンノは頷いた。昨夜、窪地に横たわった魔獣を避けて歩いたばかりだ。あの大きさのものが普通に現れる土地なのかどうか、今いる者たちには判断できない。


 轍は低い岩を回ったところで、急に分からなくなった。風で運ばれた砂が、緩い坂を覆っている。先行した護衛は右へ続く平らな地面を見つけたが、そこにも車輪の跡は残っていなかった。


「真っ直ぐ行けば、向こうの岩へ出る」


 ガルムが坂の上を見上げる。近そうに見えても、柔らかい砂へ入れば足を取られる。ラウルは護衛二人と先に登り、反対側を見た。砂の向こうに、同じ色の丘がさらに一つ続いている。


 戻ってきた彼らは、右手の硬い地面を選んだ。少し遠回りになるが、荷を背負ったまま歩ける。ノンノは高い坂へ未練を残さず、皆と並んで進んだ。


 坂の向こうへ抜けると、轍を失ったまま進む時間が続いた。ガルムは何度か道の先を見に行ったが、すぐに戻ってくる。通れない場所はない。街へ向かう道だと証明できるものもない。


 やがて先頭の護衛が、石の間に転がる小さな木片を拾った。片側が丸く削られ、もう片側には鉄の釘が残っている。荷車のどこから外れたのかまでは分からないが、風で遠くから飛んできたものには見えなかった。ラウルは護衛がそれを置き直すのを待ち、皆へ歩き出すよう合図した。


 ノンノは木片の横を通り過ぎる時、足を止めなかった。車輪の跡が途切れても、この場所を通る人はいる。さっきから景色が変わらないと思っていたが、街影の方へ進む理由が一つ増えた気がした。


 昼が近づくと、影を落とす岩が少なくなった。水を飲むために足を止めた時、セルマは自分の水袋を掌に載せ、残りの重さを確かめた。


「今夜も外で寝るなら、戻る分を考えないと」


「午後のうちに行き先が見えなければ、ここから戻る」


 ラウルが答える。ノンノは飲みかけの水袋を下ろした。


「あと一つ、あの平らな場所までは行けるか?」


 エルディアスが先の石場を指す。緩い坂の先まで、足元を遮る岩がない。午後の視界を確かめるにはよさそうだった。


「そこまでだ。着いたら、残りの水と陽の高さを見て決める」


 ラウルは皆の水袋を集めて量を揃えようとはしなかった。それぞれの残りを確かめ、足りない者がいれば分けるつもりでいる。午前に転びかけた調査員が自分の袋を持ち上げると、近くの護衛が蓋の緩みを指摘した。調査員は慌てて締め直す。


「もう少しで、昨日と同じことをするところだった」


「昨日こぼしたのは蠍のせいだろ」


 ガルムの返事で小さな笑いが起きる。水袋を失った時は笑える状況ではなかった。今は歩いてきた全員が、その場で自分の分を飲めている。


「夕方には、あの影が見えると思います」


「見えても、歩いて着けるとは限らないぞ」


「はい。それは分かってます」


 ノンノは言い返さず、袋の口を結び直した。影が見える時間まで待ってほしいと頼んだわけではない。ラウルもそれ以上は言わず、進路の先へ目を向けた。


 午後、風が少し強まった。足元の砂が細い筋になって走り、乾いた音で岩を打つ。エルディアスは風の術式で前方だけを払おうとしたが、吹いている範囲が広すぎる。術式を使い続けるより、布で顔を守った方がよかった。


 ノンノは頭の布を耳の根元まで引き下ろし、目を伏せて歩いた。前を行くリュシアの背中が離れた時だけ顔を上げる。昨日の戦いでオドを使ったこともあり、エルディアスは何度か歩調を落として様子を見た。ノンノは気づくと、声に出さず頷いてみせる。


 風が強い間、遠くを見ようとしても砂が視界を埋めた。先頭の護衛が右手を上げ、平たい岩の裏へ一行を寄せる。荷を下ろすほど長くは休まない。布の端を締め直し、互いがまだ同じ場所にいるのを確かめるだけだ。


「このまま強まるなら、引き返す」


 ラウルが皆に聞こえる声で言った。今は戻る方角を知っているが、見通しの悪い砂地で夜を迎えるわけにはいかない。ノンノも、待てば夕方の影が見えると繰り返しはしなかった。


 エルディアスは岩の風下から空を見た。飛ぶ砂はまだ多いものの、雲のように厚くなってはいない。指先で小さな風の流れをつくり、顔の前だけを守りながら、先頭の護衛が動くのを待った。


 やがて風が岩の向こうへ抜け、砂を打つ音が弱くなった。先頭が一斉に止まる。エルディアスが顔を上げると、前方に低い線が見えていた。


「あれは……」


 ノンノが頭の布を押さえたまま、少し前へ出る。


 線は砂丘の輪郭にも見えた。ただ、左端から真っ直ぐ上へ伸びるものがある。その右にも一本、途中で横へ張り出した影があった。昨日、夕暮れに見た二つの形と同じだ。


「見えます。今度は、皆さんにも」


 ラウルとセルマが目を細める。遠い地面はまだ熱で揺らいでいるが、直線は消えなかった。ノンノが指を動かす前に、リュシアも二本の位置を見つけた。


「昨日の場所ですね」


「ああ。砂丘なら、あんな角は残らない」


 エルディアスが答えた。近づいて見えるようになったのか、風が霞を払ったのかは分からない。どちらにせよ、今は一行の目で確かめられる。


「あの下、色が違いませんか」


 ノンノが二つの影の間より少し下を指した。砂や石より暗い色が、低い線の内側に溜まっている。エルディアスにはまだ何か分からなかったが、風が収まってもその色は動かなかった。


「木かもしれません」


 リュシアが言う。ラウルはもう一度地平線を見て、頷くのを控えた。街のほかに水場まであるなら、今夜の行き先は決まる。だが遠い色だけで水を当てにし、帰る分を使うわけにはいかない。


 ラウルは陽の傾きを見た。夜になるまではまだ時間がある。見えた線の下には岩混じりの平らな地面が続き、人が歩いたような細い筋もある。護衛を前後へ置き、一行は速度を上げずにそこを進んだ。


     ◇


 二つの影は、歩くほど形を変えた。


 左の一本は石を積んだ塔で、下へ行くほど幅が広い。右の一本は途中に見張り台のような張り出しがあり、遠くからはそこだけ影が太く見えていた。二本をつなぐ低い線は砂丘ではなく、建物の屋根と、その手前に続く壁だった。


 壁の内側には木が生えていた。幹は建物の向こうで見えないが、屋根の上へ葉を広げた枝が何本か並ぶ。二つの塔の下に見えた暗い色は、その重なりだった。壁の外にもわずかに草があり、砂ばかり続く周囲とは境目がはっきりしている。


「街だ」


 ガルムの言葉に、ノンノが立ち止まる。エルディアスも壁の内側に並ぶ屋根を見た。遠くで高く見えた塔の割に、街そのものは大きくない。低い家々がまとまって建ち、壁も砂を防ぐ程度の高さだ。外側にまで建物が続く様子はなかった。


「……ありました」


 ノンノは息をついてから、改めて言った。


「本当に、あそこに街がありました」


「お前が先に見つけたんだ」


 エルディアスはそれだけ答えた。ノンノは耳を立て、次に顔を上げた時には、もう街の門を探している。


 調査員が位置を書き留める間、護衛が周囲を見渡した。木々の見える範囲は壁の周りだけで、街の後ろにも砂地が続いている。近くの家の壁際には、砂に埋もれかけた薪の束が積まれ、細い煙が一本、屋根から上がっていた。住む者がいる。


 街を囲む壁は岩の上に築かれ、手前で轍が合流していた。朝に見つけたものと同じ幅の車輪跡もある。ただしこちらは何度も車が通ったらしく、硬い地面に浅い窪みが重なっている。荷を載せた小さな車が一台、開いた門の内側へ入っていくのが見えた。


 壁の外には、人が荷を下ろすための低い台があった。石の上には布の擦れた跡が残り、傍らへ粗い縄が丸めて置かれている。誰かが今日も使ったのだろう。遠くの煙に加え、木を打つ音と、短く呼び合う声が届き始めた。


 ノンノは門の内側へ入っていった荷車を目で追った。二つの塔だけを見ていた時には、その下にこれほど人の動きがあるとは思わなかった。家々は低く、塔の背後へ隠れていたのだ。砂の中に唐突に現れた街のように見えても、ここには日々使われている道が続いている。


 街に近づくと、木の葉が擦れる音が風に混じった。ノンノは思わずそちらを向いた。オアシスを出てから聞いていなかった音だ。開いた門の奥には葉陰の家が見え、白い外壁には砂を払い落とした跡が残っている。戸口に掛かった布が揺れ、子どもの顔が覗いて、すぐに引っ込んだ。


「木が生えてますね。中に水があるんでしょうか」


「見に来た者に尋ねるのは、まずそれだな」


 エルディアスが答える。ラウルは先頭で小さく頷いたが、壁に沿って勝手に歩き回ることはしなかった。入り口はすでに見えている。


 門の前には二人の見張りがいた。こちらに気づくと、一人が内側へ知らせに行き、もう一人は道を塞がずに待った。遠くから来る十三人の一団を、無言で通すつもりはないらしい。


「どこから来た」


 近づいたラウルに見張りが尋ねる。ラウルは足を止め、腰の武器に触れないよう手を下ろした。


「西の水場からだ。森の方角から来た。王都の調査に同行している」


 護衛の一人が胸元の徽章を見せた。見張りはすぐには頷かず、一行の人数と荷物を見てから、門の内側を振り返る。


「西から十三人も歩いて来たのか。途中に魔獣はいたか」


「大きな砂甲蠍が一頭。昨日、岩の窪地で倒した」


 見張りの目がガルムの腕の傷へ移る。さらに尋ねかけたところで、内側から戻った仲間が短く声を掛けた。二人は言葉を交わし、一行へ向き直る。


「その腕は、蠍にやられたのか」


「戦っている時に、飛んだ石が当たった。歩けない者はいない」


 ガルムが腕を見せると、見張りは頷いた。隣ではノンノが水袋を持ち替えている。頭の布に残った砂を払うと、門の内側から見える葉の方へ視線が上がった。


「中へ入っていい。ただ、門のそばで一度荷を見せてもらう。泊まる場所もそこで聞いてくれ」


 ラウルが了承し、先に門を通った。石の壁が陽を遮り、足元の砂に細い影を落とす。ノンノは門柱の横で立ち止まり、見上げた塔と、そこから続く屋根を見比べた。


 門の先には短い通りがあり、その向こうに木々が集まっていた。幹の間に石で囲んだ池が見える。池の奥では岩の割れ目から水が湧き、細い流れになって池へ注いでいる。周りには草が生え、水を汲む者が桶を持って順を待っていた。


「……水があります」


 ノンノは目を離せずに言った。以前ラクダに案内されたオアシスより池は小さい。それでも木々の根元まで湿った土が続き、住む人たちが今も使っている。家はその水場を囲むように建っていた。


 リュシアも池を見たが、ラウルが門のそばで荷を下ろすのを見て、ノンノを呼んだ。水を汲みに行くのは、街の者に使い方を聞いてからだ。


 昨夜まで地平線に浮かぶ影でしかなかったものが、目の前では積み重ねた石と、人の行き来する道になっている。リュシアに呼ばれると、ノンノも背負い袋の肩紐を握り直し、エルディアスと並んで街の中へ入った。


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