第86話 砂鳴
尖った岩が背後に遠ざかるにつれ、地面は細かな砂から、乾いた土と砕けた石の混じる硬いものに変わっていった。ノンノは何度か振り返り、オアシスへ戻る時の目印になる岩の形を確かめた。昨日の夕暮れに見えた二つの影は、朝の光の中にはない。
ラウルは先頭の護衛に合図して、一行を低い丘の手前で止めた。今日はエルディアスたち六人に加え、護衛五人と道を確かめる者二人が来ている。砂潜蜥と遭遇した昨日より荷も水も多い。丘を登る前に、後続がどこまで来ているかを見ておきたかった。
「この上から先を見よう。ノンノ、夕方の方角が分かるか」
「はい。右側にあの岩があって、影はその左でした」
ノンノが指した先では、陽を受けた砂丘が幾重にも重なっている。街の形はまだ見えない。ラウルは彼女の指す方角と、昨日確かめた岩の位置を見比べ、丘の上へ二人だけ先に進ませた。
その護衛たちが頂に達する前に、足を止めた。
一人が片腕を伸ばし、前方を指す。危険を知らせる合図だった。エルディアスは列を下げさせ、リュシアと共に丘を登る。頂から先には、砂ではなく、赤茶けた岩が露出した広い窪地があった。
窪地を、何かが歩いていた。
初めは岩の塊が幾つも動いているように見えた。節のある脚が八本、砕けた石を踏み越えている。胴は荷車を二台並べたほど長く、暗い甲殻が陽の下で鈍く光った。前方の二本の鋏は、それぞれ人の胴を挟めそうな大きさがある。後ろから反り上がる尾は、先端の針だけでも剣より長かった。
魔獣は窪地の底をゆっくり横切っている。一歩ごとに脚の甲殻が擦れ、硬い砂を押すような低い音が丘まで届いた。
「あれも、砂潜蜥ですか」
「違う。砂甲蠍だ」
ガルムが答えた。魔獣はまだこちらを向いていない。それでも、彼は丘の縁から身を引く。
「あの大きさは見たことがない」
ラウルも蠍を見ていた。窪地は丘を避けて北へ回れば通らずに済む。ただ、その先には砂が深く溜まった斜面がある。調査員が荷を背負って歩けるかは、行ってみなければ分からない。
「回り道を探す。先に丘を下りて――」
ラウルの言葉を、岩の割れる音が遮った。
蠍の鋏が窪地の壁を掴んでいる。岩を砕きながら身体を持ち上げ、頂に立つ者たちへ頭を向けた。距離があっても、こちらを見つけたのだと分かる。
「下がれ! 荷を持って、丘の裏へ!」
護衛が列へ声を送った。だが蠍は窪地の斜面を登り始めている。重い胴を脚で押し上げるたび、斜面の石が崩れて下へ転がった。一行が丘を下り切るより、あちらが頂へ来る方が早い。
エルディアスは風を横から当てた。蠍の脚元に砂と小石が吹きつける。先頭の脚が止まった隙に、リュシアとガルムが丘の縁を離れる。蠍は片方の鋏を前に突き出し、風を受けながら岩の出っ張りへ掛けた。
「あの重さでは押し返せない」
ラウルが雷を放つ。青白い光が鋏から胴の甲殻へ走り、蠍が一瞬だけ脚を突っ張った。しかし動きが戻ると、鋏で身体を引き上げてくる。硬い背には焦げた跡がついただけだ。
ノンノは下りていく一行の最後尾にいた。荷を抱えた調査員が足を滑らせ、護衛に肘を掴まれる。二人が立ち直った時には、丘の上へ蠍の尾が現れていた。
「リュシアさん、後ろ!」
針が振り下ろされる。リュシアは調査員を突き飛ばし、自分も転がるように避けた。針は二人の間の土へ深く刺さり、抜かれる時に乾いた地面が割れた。そこへセルマの火が走り、蠍の頭の前で弾ける。蠍は顔を逸らしたが、尾を土から引き抜いた。
「丘の裏へ行け!」
ガルムが調査員を立たせる。二人の護衛が荷を引き受け、丘を下る道へ押し出した。エルディアスもノンノをそちらへ向かわせようとしたが、蠍が頂に身体を乗せたところで風を切り替える必要があった。
蠍の胴が一行と同じ高さに来た。
遠くからは遅く見えた脚が、近くでは岩を跨ぐたびに大きく動く。踏まれた石が割れ、欠片がノンノの足元へ飛んだ。リュシアは左の脚へ踏み込み、甲殻の継ぎ目に剣を当てる。刃は半ばまで入りかけたが、脚が動いて引き抜かざるを得なかった。そこへ鋏が閉じる。甲殻同士が打ち合わさる音は、さっきまで丘へ届いていた低い響きよりずっと鋭い。
エルディアスの風が蠍の頭へ砂を運んだ。リュシアは鋏の下を抜け、丘の裏へ下がる。
蠍は追って丘を下ろうとした。傷のない前脚が斜面へ踏み出すだけで、砂が広く流れる。下には、荷を抱えた者たちが固まっていた。下りきられる前に散らしたいが、砂の斜面で走れば転ぶ。
「荷は後でいい! 岩の陰まで離れろ!」
ラウルの声で、護衛の一人が背負い枠を地面へ置いた。調査員が手にした記録板を抱えたまま動こうとすると、護衛がその腕を引く。皆が横へ離れる間、ラウルは蠍の脚元に雷を打った。今度は背ではなく、前脚が地面へ触れるところを狙っている。
脚が岩を蹴り、蠍は斜面を踏み外した。落ちるかと思ったが、鋏で丘の縁を掴んで留まる。岩が砕け、崩れた土が一気に護衛たちのいた場所へ流れた。離れるよう声を掛けるのが遅ければ、荷の下敷きになるところだった。
蠍は鋏を支えにして身体を起こす。ラウルの雷を受けた脚は震えているが、残る脚の数が多すぎる。傷つけても、丘の上から退かせるには足りなかった。
「脚の内側なら刃が入ります。でも、止めないと続けては斬れません」
「分かった。近づくのは待て」
ラウルは次の雷を構えず、蠍の進む先を見た。丘の下には荷を持った者たちがいる。蠍がそちらへ下れば、岩陰に隠れても鋏が届く。丘の頂で食い止めるしかなかった。
ノンノはまだ逃げ道の途中にいた。蠍の甲殻の隙間、脚の内側、頭の下へ順に目を走らせる。魔導書を開く彼女を見て、エルディアスは声を上げた。
「あれは鎧猪よりずっと大きい。持たないぞ」
「長くは使いません。今、脚が止まれば、皆が離れられます」
ノンノはニペクを呼んだ。淡い光から現れた蝶が、蠍の背よりも高く飛ぶ。大きな鋏がこちらを向いている間、蝶は尾の反対側から胴の下へ回った。甲殻の厚い背には触れず、前脚の付け根を横切る。虹色の鱗粉が、脚を折り曲げる柔らかい部分に落ちた。
蠍の片脚が不意に止まった。
次の脚まで止まるか、ノンノは待った。蠍は鋏を振り、ニペクを追おうとする。蝶は大きな甲殻の陰を通り、もう一度脚の付け根へ鱗粉を散らした。
翅の届く位置は狭い。尾が持ち上がるたび、ニペクは胴の下から抜けて回り直さなければならなかった。ノンノは蝶を見失わないよう追いながら、同時に蠍がどちらの脚へ重さを掛けているかを確かめる。止めるなら、丘を下りようとしている側だ。
「……通りました」
彼女の声と同時に、蠍の前脚が揃って動きを止めた。だが後ろの脚は地面を掻き、重い胴を支えようとしている。ノンノが魔導書を持つ腕に力を込めると、ようやく鋏も地面へ下りた。
蠍の動きが鈍ったのを見て、丘の裏の護衛が荷へ戻りかける。ノンノは目を向けずに止めた。使役したのは一頭だけでも、その一頭の身体を押さえておくだけで、今までにない量のオドが流れ続けている。荷を拾い終えるまで保てるとは、とても言えない。
「まだ来ないでください。今は止まってるだけです」
護衛は踏み出しかけた足を戻した。蠍の尾が一度だけ揺れる。ノンノはニペクへ、鋏を下げたままにするよう繰り返し頼んだ。
「向こうへ進ませられるか」
ラウルが窪地を指す。ノンノは首を横に振った。
「重いです。立ってるのを止めるだけで、もう……。すぐ解けると思います」
エルディアスは顔を上げた。長く留められないなら、退避だけで終わる。蠍が再び動けば、荷を持った一行をどこまで追うか分からない。
「リュシア、左前脚の内側。ラウルは傷が開くまで待ってくれ」
「はい」
リュシアが蠍の横へ駆けた。止まっている鋏の下を通り、先ほど刃の入った脚の付け根へ剣を突き込む。甲殻の間から刃を押し進めると、脚が震えた。ノンノの頬に汗が流れる。使役中でも、傷を受けた蠍を完全に大人しくはさせられない。
ガルムが反対側から甲殻に手を掛け、動き始めた鋏を押さえた。二人がかりでも動かせる重さではない。閉じるまでのわずかな間を稼ぐのが精一杯だった。
「抜け、リュシア!」
蠍の尾が震えたのを見て、エルディアスが叫んだ。ノンノもニペクを介して尾を下げさせようとしたが、針の方が先に持ち上がった。
リュシアが剣を抜いて横へ転がる。針が脚の傷へ落ち、甲殻を割った。蠍は自分の脚から針を引き抜こうと暴れ、ノンノの膝が折れる。ニペクは彼女のところへ戻り、光になって消えた。使役が切れたのだ。
だが刺された前脚は、もう以前のようには動かなかった。
「ノンノを下へ!」
エルディアスの声に、護衛が丘の裏から戻った。リュシアが先にノンノの肩を抱き、ニペクの消えた魔導書を持たせる。ノンノは返事をしようとしたが、息を整える方が先だった。護衛が丘の端の岩陰へ連れていくと、ノンノはそこに座った。蠍の鋏が届かない位置から、エルディアスたちの動きを追える。
エルディアスはこれまでに放った風の術式を数えた。自分のオドだけで鋏を逸らし続けるには足りない。リュシアが蠍の方へ戻るのを見て、左の薬指から伸びる黒い糸へ意識を向けた。
――借りるぞ。流れ込む量は俺が抑える。
返事を待たず、エルディアスはリュシアのオドを受け取った。近いだけに流入は速い。必要な分だけを通し、残りをせき止める。リュシアが一瞬だけこちらを見た。
――分かりました。あの脚、もう一度狙えます。
エルディアスは蠍の鋏の動きに視線を戻し、足元の土を固めて、リュシアが後ろへ退く時の足場をつくった。
蠍は傷ついた脚を引きずりながら、残る鋏を振り回した。ガルムが避けた後ろで、護衛の一人が荷を抱えたまま転ぶ。鋏の先が背負い枠に触れ、革紐が裂ける。水袋が転がり、岩に当たって止まった。
転んだ護衛は立てないまま、落ちた背負い枠の下へ手を伸ばした。肩紐が腕に絡んでいる。ガルムが助けに向かおうとすると、蠍の針が二人の間へ落ちた。地面に突き刺さった針はすぐには抜けず、その根元を尾が左右に揺らす。護衛は紐を外すのを諦め、腕を引こうとして顔をしかめた。
「そのまま動くな!」
リュシアは蠍の鋏が反対側へ向くのを待ち、背負い枠まで走った。剣で絡んだ革を断ち、護衛の肘を掴んで斜面の下へ送る。荷が一つ残ったが、これで針の届く場所に人はいなくなった。
セルマは蠍の正面に火を広げ、退いた護衛たちへ近づくのを妨げる。蠍は火の薄い方へ回り、傷のない脚で地面を踏んだ。岩が鳴り、今度はセルマへ鋏が向く。
「右へ!」
ガルムが肩を引く。鋏が閉じたのは、彼女のいたすぐ横だった。セルマが退くと、蠍の正面にはエルディアスだけが残る。
――左の脚を引きつける。鋏がこちらを向いたら入れ。
――剣を通す場所は、さっきより奥です。
リュシアの返事を受け、エルディアスは地面へ薄く水を走らせた。傷ついた脚の下だけ、乾いた砂の色が濃くなる。続けて土の術式でその縁を固め、脚が横へ滑り出せないようにした。巨体そのものを押し倒す力はない。ただ、一歩を踏み替えるための場所を狭くする。
蠍の鋏が持ち上がった。エルディアスは後ろへ跳ばず、砂の薄い地面へ足を移す。鋏は彼を追い、傷ついた側の脚が胴の重さを受けて沈んだ。
少し離れたところで、リュシアが左手に持った剣を握り直す。彼女はエルディアスを見なかった。蠍の脚の間に開く隙間を見て、岩の陰から静かに回り込む。エルディアスは黒い糸を通じて剣へ火を付与した。刃の縁に赤い光が細く残る。
鋏がエルディアスへ振り下ろされる直前、彼の足元から風が走った。砂が蠍の頭へ吹き上がり、鋏は空いた地面を叩く。リュシアはその音と同時に踏み込んだ。風が巻き上げた砂の下には、傷んだ脚の内側が見えている。
刃が甲殻の継ぎ目へ入る。火が隙間の奥へ通り、蠍が脚を引いた。エルディアスの風はすでに向きを変え、リュシアの足元を覆う砂を払っている。彼女が剣を深く押し込むと、蠍の鋏が反対側から戻ってきた。
――右の鋏。
リュシアからの知らせと同時に、エルディアスは鋏の前へ闇の薄い幕を落とした。影は蠍の眼のあたりだけを覆い、鋏の勢いを止めはしない。だが振り下ろす位置がずれ、リュシアは幕の外へ抜けられた。エルディアスは風を彼女の背に添え、跳んだ身体の着地を助ける。
蠍の脚は火の付いた傷を庇い、濡れた砂の縁で踏み替えようとして土の固まったところへ当たった。動けなくなったわけではない。力任せに押せば崩れる。そのわずかな遅れに、リュシアが剣を引き抜き、二人とも鋏の間合いから退いた。
岩陰から見ていたノンノは、思わず息を止めた。二人とも互いの顔を見ていない。なのに、エルディアスが術式を変える時にはリュシアは次の位置へ動いていた。自分がニペクに蠍の鋏を下げさせていた時よりも、二人の動きは速く噛み合って見えた。
「……今、何も言ってないのに」
ノンノの呟きは、蠍の甲殻が鳴る音に消えた。彼女がもう一度丘の上を見ると、リュシアはすでにエルディアスの後方へ回っていた。蠍がそちらを追い始めたところへエルディアスが風を送り、上がりかけた尾の針を横へ逸らす。避けたリュシアの後ろにいた護衛にも、針は届かなかった。
蠍は傷ついた前脚を庇い、片側へ身体を傾けている。胴の下の甲殻が、ほんの少しだけ見えていた。
「ラウル! 脚じゃない、下だ」
「見えてる。まだ狭い」
雷を通すには、背の厚い甲殻では足りない。ラウルは術式を構えたまま、リュシアを見る。彼女は蠍から十分に離れ、剣先の血を振り払っていた。甲殻が開けば、もう一度踏み込める。
「あの脚をもう少し崩せますか」
「俺が引く。お前は蠍の前に立つなよ」
ガルムは足元の尖った岩を両手で拾い上げた。人の頭より大きい。すぐ近くから投げれば、蠍も振り向く。だが狙ったのは頭ではなく、傷ついた脚の付け根だった。岩が甲殻に当たり、止まりかけていた蠍の脚が跳ねる。
蠍の鋏がガルムの方へ回る。彼は下がったが、針までが頭上を追ってくる。エルディアスは風を尾の側面へ打ちつけ、振り下ろす先をずらした。針が岩を削り、その欠片がガルムの腕を打った。
「まだ動ける!」
彼が声を返す。蠍が尾を引き上げようとした時、セルマの火が傷ついた脚の周囲を舐めた。炎そのものより、甲殻の下へ伝わった熱に蠍が脚を引く。身体がさらに片側へ沈み、胴の下に影ができた。
「今だ!」
ラウルの雷が、見えた腹側へ走った。
巨体が持ち上がり、八本の脚がばらばらに岩を打つ。だが蠍は倒れない。甲殻の縁を支えにして、傷ついた側をもう一度起こそうとする。ラウルの術式が途切れれば、立ち直るかもしれなかった。
――腹の継ぎ目を開く。左から入れるか。
――行けます。風を足元へ。
エルディアスは風をリュシアの踏み込みに合わせ、黒い糸から光の付与も通した。肩と脚のこわばりが緩み、乱れた呼吸が整う。剣を振るうための動きを、今だけ支える術式だった。
リュシアが横から飛び込んだ。傷の広がった脚の下を通り、腹の甲殻が重なる境へ剣を差し入れる。火を宿した刃が食い込むが、最初の一突きでは浅く止まった。蠍の胴が下がり、脚を踏み入れたままでは押し潰される。
「リュシア、退け!」
周囲にも危険が分かるよう、エルディアスは声を出した。風を地面へ向けると、舞い上がった砂がリュシアと蠍の間を埋め、鋏の動きを一瞬隠した。リュシアは剣を持ったまま身体を引いたが、片足が岩の窪みに掛かった。
蠍の鋏が砂を裂く。
ガルムが彼女の背負い紐を掴み、後ろへ引いた。鋏は空いた場所で閉じた。リュシアが体勢を立て直すより早く、エルディアスはラウルを見た。
「腹に傷がある。もう一発、そこへ!」
「離れていろ」
リュシアとガルムが岩の陰へ跳ぶ。ラウルは蠍の腹に開いた裂け目を狙い、雷を落とした。甲殻の上を光が走り、裂け目の奥で弾ける。それでも蠍は、脚を突っ張って身体を起こそうとしていた。
エルディアスはリュシアから借りたオドの流れを細く絞り、火の術式へ集中させた。火を広く放てば、厚い甲殻に弾かれる。白く圧縮した火を、リュシアの剣が作った裂け目へ送り込む。傷の奥で熱が弾け、蠍の胴が大きく跳ねた。
尾の針が何度も土を打つ。エルディアスはそれ以上火を注がず、皆が離れているのを確かめた。甲殻に走る雷光が消えても、蠍は起き上がれない。長い脚が一つずつ動きを失っていく。
最後に針が地面へ倒れた。甲殻の擦れる低い音も止まった。
エルディアスはリュシアから借りていたオドの流れを止めた。彼女の剣に残っていた火も消える。リュシアは柄を握ったまま蠍を見ていたが、こちらへ顔を向けて小さく頷いた。
ラウルは術式を解かず、しばらく蠍を見ていた。尾がもう動かないと確かめてから、初めて一行の方へ振り返る。
「怪我を見てくれ。水袋も、全部」
負傷した護衛の腕には、背負い枠の革が裂けた時の擦り傷があった。ガルムも飛んだ石で腕を打っている。リュシアの足首は捻っておらず、自分で歩けた。水袋は一本が岩に当たって口から少し漏れたが、持ち直せばこれ以上は失わずに済む。
ノンノは丘の裏で座っていた。ニペクの使役が切れてからも、両手で魔導書を支えている。エルディアスが近づくと顔を上げた。
「あの子は?」
「倒した。お前が脚を止めてくれたから、近づけた」
「でも、すぐに解けました」
「あの大きさだ。短い間でも十分だった」
ノンノは頷いたが、すぐには立ち上がらなかった。鎧猪を使役した時より、オドを持っていかれた感覚が強いのだろう。リュシアが水袋を渡し、少しずつ飲むように促す。
◇
ラウルは、魔獣を倒した丘の上で進路を確かめ直した。街を探す一行としては、まだわずかな距離しか進んでいない。それでも蠍のいた窪地を越え、その先の硬い岩場までなら足場を見通せる。
「今日はあの岩場までにする。ノンノを歩かせてみて、無理ならここから戻る」
「わたし、歩けます」
ノンノは立ち上がった。最初の一歩はゆっくりだったが、リュシアの肩を借りずに進む。ラウルは無理に急がせず、日が傾くまでに野営できる場所へ着けばよいと護衛たちに伝えた。
窪地を通る時には、誰も蠍の脚へ近づかなかった。横たわった胴は、近くで見ると一行の進路を塞ぐほど大きい。護衛が先に周囲を見て、岩の間に空いた道へ皆を通した。ノンノは最後に一度だけ振り返る。朝、丘の上から見たあの暗い塊がもう動かないことが、近くで確かめてもまだ信じられなかった。
岩場へ着く頃には、日差しが弱まっていた。調査員は目立つ岩とオアシス側の方角を書き留め、護衛たちは風を避けられる窪みへ荷を運ぶ。ノンノは荷を下ろして腰を掛けたが、今度は顔色も戻っている。
「今日は、目がよかっただけじゃなかったな」
ガルムが自分の腕をさすりながら言う。
「目も使いました。ニペクが入り込める場所を探さないと、あの背中には鱗粉が落ちませんから」
「それであの鋏を止めたんだから、助かったよ」
ラウルの言葉にノンノは小さく頷いた。蠍が動きを取り戻した時のことも覚えているらしく、素直に喜ぶというより、魔導書の表紙を一度撫でてから脇へ置く。
夕暮れ、ノンノが岩の高いところへ上がった。昨日の影を探すためだった。エルディアスも後から登り、彼女が見ている先を追う。
昼には何もなかった遠くに、二つの細い影が浮かんでいた。一つは真っ直ぐに立ち、もう一つは途中で幅を変えている。その間には低い線も見えた。昨日より、影の下まで少し長く見える。
「あそこです。今日は、エルさんにも見えますか」
「片方だけなら。……確かに立ってるように見える」
岩なのか、建物なのかはまだ分からない。エルディアスは答えを急がず、背後を振り向いた。昼に越えた丘が見える。その向こうに、今朝の出発地点がある。
ノンノが見つけた影と、自分たちが今日歩いてきた距離。両方を目で確かめてから、エルディアスはもう一度地平線へ向き直った。




