第85話 夕影
翌朝、エルディアスが冒険者ギルドへ行くと、レナートはすでに昨日の地図を広げていた。森の端から砂地へ伸びる線の先に、小さな池が描き足されている。その横には、オアシスの転移紋を写した紙が重ねてあった。
「昨夜は第三層かもしれないと言ったな」
「そう言った。まだ分からないともな」
「分からないなら、先に黒い入口を試そう。第三層を意識した時、どこへ出るか」
エルディアスは池の印を見た。昨日そこから塔へ移った時には、新しい場所が転移先に加わったと考えていた。黒い入口からも行けるかどうかは試していない。
リュシアとノンノも合流し、レナートと共にギルドの奥へ向かった。黒い入口の前には、塔での確認を待つ王都の者が二人いる。行き先を確かめた後に知らせるよう、昨夜のうちに連絡が入っていたらしい。
「俺から行く」
エルディアスは入口へ向き直った。頭に思い浮かべたのは昨日見た水辺ではなく、第三層という言葉そのものだった。第二層へ入る時と同じように、行きたい階層を意識して足を踏み入れる。
視界が暗くなり、靴の下の感触が変わった。
次に見えたのは、白い照明具に照らされた円形石室だった。中央の転移紋を挟んで向こう側に、昨日、塔へ戻る時にも見た壁がある。池の匂いも、乾いた熱もなかった。
「第二層か」
エルディアスは壁際まで歩き、石室にいた連絡員へ結果を伝えた。連絡員は驚かなかった。試してくると聞いて、入口が変わる様子はないか気にしていたという。
エルディアスが黒い入口を通ってギルドへ戻ると、レナートはその姿を見てすぐに尋ねた。
「どこへ出た」
「いつもの広間だ。第二層へ入った時と同じ場所」
リュシアが入口を見た。
「私も試してみます。同じことを意識して」
彼女も一人で闇の中へ入った。戻ってくるまで、ノンノは魔導書を抱えて入口を見つめている。ほどなくしてリュシアが現れ、エルディアスへ頷いた。
「私も第二層の石室でした。中央の紋も、そこにいた連絡員も同じです」
「やっぱり、黒い入口から砂漠へは行けないんですね」
ノンノが言った。レナートはすぐには答えず、入口の黒い面を見ている。
「今日試した限りではな。第三層を意識しても、第二層の広間へ出る。これで砂漠が第二層だと決まったわけでもない」
「だったら、何層として報告するんだ?」
エルディアスが尋ねると、レナートは広げていた紙の端を押さえた。
「便宜上は第三層と呼ぶ。今はあの転移紋が砂漠側へ行く入口だ。別の入口が見つかったら、その時に呼び方も考え直せばいい」
ノンノは円形石室へ続く闇と、紙に描かれた池を見比べる。
「第三層に行くなら、第二層の広間へ入って、塔からオアシスへ移るんですね」
「今、確かめてあるのはその道だけだ」
エルディアスが答える。階層の名前は仮のものでも、昨日と同じ水辺へ戻れることは確かめてある。必要なのは、その先へ進む道だった。
レナートは地図の森と砂漠を指で隔てようとして、途中でやめた。森の終わる場所は測れているが、そこに階層の境があると確かめたわけではない。塔につながる石の円も、見つけただけで境界と決めるには早かった。
「名前だけ先に決まると、ここまで全部分かった気になるな」
「だから仮だ。確かなのは、オアシスへ行けることと、そこから先にはまだ地図がないことだ」
エルディアスが地図を畳むのを手伝うと、ノンノは自分の水袋を持ち上げた。重さを確かめ、もう一本をリュシアへ渡す。昨日は水場を見つけるまで帰りの分を残して歩いた。今日は出発する時から水があるが、その分だけ遠くへ行ってよいという話にはならない。
◇
エルディアスたちは改めて第二層を意識して黒い入口を通り、円形石室の転移紋から塔へ出た。塔の石床には、昨日増えたばかりのオアシスの印がある。先に荷を持った者たちが移った後、三人もその印を意識して紋へ進んだ。
移った先では葉の影が足元に揺れ、池から吹く風が汗の残る頬に触れた。ノンノは昨日砂の中から掘り出した石の線を見下ろす。歩いて三日かけて森を抜けた時には、次の日ここへ戻ってこられるとは思っていなかった。
オアシスには、池の近くに新しい布屋根が張られていた。塔の転移紋から移ってきた者が草の外側へ荷を運び、水面から少し離れたところに置いていく。昨日より人は増えたが、木陰の涼しさと、その外の熱の差は変わらなかった。
ラウルは池を回り込んだ先でエルディアスたちを迎えた。ガルムとセルマは近くの岩へ出ており、朝のうちに戻るという。ラウルの腕には水袋が掛かっていた。
「入口はどうだった」
「第三層を意識しても第二層の広間に出た。俺もリュシアも同じだ」
「なら、ここから先は何と呼ぶ?」
「調査の間は第三層として扱う。仮に、だが」
ラウルはそれだけ聞くと、布屋根の下に広げられた地図を示した。オアシスの周囲には短い線が幾つか増えている。池へ向かう獣の踏み跡と、風に埋もれにくい岩場を歩いて確かめた線だった。
「昨日の夕方と今朝、行けるところまで見た。水辺へ戻る道は分かったが、人の住む場所はまだ見えない」
ノンノは池の反対側へ目を向けた。三頭のラクダはもうそこにはいない。足跡は残っているが、ほかの獣の跡も重なり、どちらへ行ったか分からなくなっていた。
「あの子たち、もう帰ったんですね」
「夜のうちにな。ここにいれば次も乗れる、とは思わない方がいい」
ラウルの返事に、ノンノは少し残念そうに頷いた。ニペクを呼んで探そうとはしない。昨日、長く使役してオドを使ったことも、自分で分かっているようだった。
砂地の向こうに街があるという旅人の話は残っている。ただ、街までの距離も道筋も分からない。地図の上で確かな場所は池と森の端だけだった。
「まずは、人が通った道を探す」
ラウルが岩場の方を指した。
「あの旅人も、街から森の村まで歩いてきた。この水場を使ったかもしれない。人が通った跡を探そう」
「獣の跡に紛れてなければいいが」
エルディアスが言うと、ラウルは頷いた。誰かが歩いた痕跡を拾えれば、街へ向かう方角を絞れるかもしれない。
ガルムたちが戻るまで、エルディアスは木陰から砂地を眺めた。遠い起伏は朝の光で平らに見えるが、近くには深い砂と硬い土が交互に現れる。岩場の向こうへ少し進むだけでも、池が木々に隠れる位置があった。昨日ラクダの背にいた時とは、見える範囲が違う。
セルマが先に戻り、手で水をすくって顔を洗った。続いてきたガルムは、池の木々の向こうを指す。
「東側の岩なら、少し高いところまで登れる。そこから先は砂ばかりだが、見通しはいい」
「街は?」
ラウルが聞くと、ガルムは首を振った。
「昼の光じゃ、地平線まで砂だ。セルマにも見てもらった」
「見えなかったわ。岩の先まで少し歩いて、戻ってきたところ」
街が見えないことと、街への道がないことは違う。ラウルは水袋を持ち、池に残る者と東の岩場を確かめる者を分けた。エルディアスとリュシア、ノンノも同行する。獣が集まる水辺から離れれば、昨日までとは別の魔獣に出会うかもしれない。護衛が一人、岩の手前までついてきた。
草の間に足を置けたのは最初のうちだけで、すぐ砂と砕けた石の上を進むことになる。ノンノは頭に掛けた布の端を押さえ、前を行くガルムの足跡を辿った。柔らかいところでは砂が踵を越え、固くなった場所に乗ると急に歩幅が伸びる。
岩に着く前に、リュシアが一度振り返った。水辺の木々は見えているが、帰りに同じ起伏を越えるには手前の岩の形を覚えておく必要がある。ノンノも二つ並んだ低い岩を確かめた。
「ここからだと、池が半分隠れますね」
「もう一つ先の岩へ行けば、全部見えなくなります。覚えておきましょう」
リュシアに答えながら、ノンノは地面へ目を戻した。風で砂の表面にできた細い縞が、歩くうちに何度も形を変える。そのうちの一つが、ほかより速く動いた。
「待ってください。あそこ、砂の下で何か動いてます」
ノンノが指した先に、膨らみが一つできた。風が運ぶ砂とは逆の方向へ進み、手前の小石を押し上げる。エルディアスが声を上げるより早く、ラウルが全員を岩へ寄せた。
砂が裂けた。
飛び出したのは、胴の平たい大きな蜥蜴だった。褐色の鱗には細かい砂が貼りつき、幅広い前脚の爪が扇のように開く。小さな目が二つ、砂を被った頭の上からこちらを向いた。長い尾が地面を叩くと、足元へ粒の粗い砂が飛んだ。
「砂潜蜥だ。岩へ上がれ!」
ガルムの声で、ノンノと護衛が岩の方へ退く。魔獣は背を低くしたまま、ノンノの足元へ滑るように突っ込んできた。エルディアスは風の術式を地表へ走らせ、先端の砂を払う。砂の下に隠れていた前脚が現れ、リュシアの剣がその付け根を斬った。
魔獣は身体をねじり、刃を引き抜く間に尾を振った。リュシアが身を引くと、尾は後ろの岩へ当たり、硬い音を立てる。ガルムが横から踏み込んで注意を引き、蜥蜴の頭をノンノたちのいる岩から逸らした。
「下がれ、ノンノ!」
「もう上がってます!」
ノンノの声が岩の上から返った。だが、その視線はガルムではなく、さらに後ろの砂地へ向いている。
「もう一頭、左です!」
滑らかな砂の面が、護衛の足元で盛り上がった。護衛が跳び退くと同時に二頭目が頭を出す。セルマは手のひらに灯した火をその顔の前へ走らせた。鱗の隙間に残る砂が熱で弾け、蜥蜴が進路を逸らす。燃えるもののない砂地でも、近すぎれば護衛を巻き込む。セルマは火を引き、間合いを開けた。
エルディアスは一頭目の方へ目を戻す。傷ついた前脚を庇いながらも、その蜥蜴は頭を砂へ潜らせようとしていた。地中に戻れば動く位置が見えなくなる。
「ラウル、今だ!」
「分かってる」
雷が落ちた。ラウルは砂に潜る直前の胴へ狙いを定め、岩の上のノンノや護衛から離れた位置で術式を放った。蜥蜴の前脚が突っ張り、身体が砂の上で止まる。エルディアスの風が浮いた砂を払う間にガルムが退路へ回り、リュシアが剣を深く入れた。魔獣は動かなくなった。
二頭目はセルマの火を避けた後、岩の縁を回っていた。ノンノは上からその背を追う。砂の下へ半ば沈んでも、尾の先が残す小さな波だけは見えた。
「リュシアさんの右へ回ります!」
声に合わせてリュシアが向きを変えた。彼女はすぐには踏み込まず、砂の動く先に剣を構える。エルディアスが地表へ風を当てると、二頭目が身を隠しきれなくなり、小石を弾いて跳ね上がった。ガルムがリュシアとの間へ出てその勢いを止め、彼女は露わになった首元へ刃を走らせる。
蜥蜴は砂の上を滑って止まった。ラウルがもう一度周囲を確かめ、誰もすぐには武器を下ろさない。砂の縞は風に揺れているだけで、さっきのように一方向へ進む膨らみは見えなかった。
「怪我は?」
「私はありません」
リュシアが答える。護衛も無事だったが、ガルムの腕には尾に弾かれた石の擦り傷ができていた。セルマが水を少し使って砂を流す。
「この土地じゃ、水まで余計に使わせるのね」
「大した傷じゃない」
「砂が入ったままにするよりましよ」
ノンノは岩から降り、最初に砂が動いた場所を見る。地面へ伏せて待たれていたら、歩きながら見つけるのは難しかったはずだ。岩へ足を掛ける前にもう一度周囲を確かめ、ほかに動くものがないと見てから皆に続いた。
◇
岩の上からも、昼の地平線には建物がなかった。砂の起伏が重なり、その奥は熱で輪郭を失っている。ガルムの言った通りだ。ラウルは立った場所の方角を確かめると、それ以上深くは進まずに水辺へ戻ることにした。
「この先を見たいなら、今度は最初から護衛を増やす。砂の下に二頭いたんだ」
ラウルの言葉に、エルディアスも頷いた。ノンノが先に気づかなければ、岩へ逃がす時間はなかった。魔獣を倒した後も、砂の下が安全になったわけではない。
オアシスでは、留守番の者が三人の武器に付いた砂を見て立ち上がった。話を聞き、外縁側にも見張りを置き直す。ラウルは東の岩までの道を示し、明日は人数と水を増やして街を探すことにした。だが、まだどちらへ向かえば街に近づくのかは分からない。
夕方、ノンノは木陰から少し離れた岩へ上がった。砂潜蜥が動いた場所をもう一度見ておきたかったのと、昨日ラクダの背で感じた高さが恋しくなったからだ。リュシアも近くに立ち、池の縁で水袋を満たす人たちを見ている。
昼間は白く霞んでいた遠くの起伏に、長い影が伸びていた。ノンノが眺めていると、一つの影が陽の落ちる速さに合わせて細くなり、直線に見えた。さらにその隣にも、短い直線がある。砂丘なら、あんなふうに並ぶだろうか。
「リュシアさん。あそこ、何か立ってませんか」
リュシアは示された方角へ目を凝らした。見えるのは熱の薄れた空と、暗くなり始めた地面だけだ。
「どの辺りですか」
「右に尖った岩があって、その左。少し上です。……あ、今はっきり見えました」
ノンノには、二つの細い塔の間に低い屋根のような輪郭が見えた。陽が傾くにつれ、それまで砂と同じ色だったものだけが影を持ち、遠くの景色から浮かび上がる。彼女は目をこすって見直したが、輪郭はまだそこにあった。
ラウルたちが呼ばれて岩へ上がる。ノンノが何度も方角を示し、ガルムが片目を細めた。エルディアスには岩の先に暗い筋があるように見えるものの、それが建物なのか、夕陽に形を変えた砂丘なのか分からない。リュシアも同じだった。
「街、でしょうか」
ノンノの声は小さい。誰もすぐには答えなかった。街があるという旅人の話は聞いている。それでも、こんな遠くから見えた影だけで、あそこに人が暮らしているとは決められない。
「昼にはなかった」
セルマが言う。ラウルは岩から砂地へ目を戻した。
「昼は見えなかっただけかもしれない。明日、あの方角を確かめよう」
ノンノは頷き、もう一度地平線へ目を向けた。陽が沈むと、塔に見えた細い影も夜の色へ溶けていく。残ったのは、右にある尖った岩と、その左へ延びる暗い砂地だけだった。
その夜はエルディアスたちもオアシスに残った。ノンノは食事の間にも一度だけ木々の向こうを見たが、暗い地平線に街の灯りは見つからない。昼の砂丘を建物と見間違えたのかもしれない。それでも、二つの塔の間にあった低い輪郭は思い出せた。
翌朝、ラウルたちは水を詰め直し、岩場へ向かった。昨日より人数を増やし、後ろにはオアシスへ戻る位置を知る者がつく。ノンノは一行の中から、昨日影が見えた方角を確かめた。夜の間に街の形を覚え違えたかもしれない。それでも尖った岩は同じ場所にある。
朝の光では、街らしいものはまだ見えなかった。
先頭が岩の先へ足を踏み出す。ノンノも砂へ下り、昨日は引き返した場所を越えていった。




