第84話 水場
夜明け前の野営地には、まだ火を使う音がなかった。寝床を畳む者と見張りを交代する者が、明るくなり始めた空の下を行き来している。遠くの木々は黒く連なっていたが、昨日の夕方には影になっていた斜面が、今は地面の起伏まで見える。
水袋を腰へ結びつけたノンノが、出発する者の列を確かめた。エルディアスとリュシア、ラウルたち三人のほかに、先行班の案内役と測量具を持つ調査員、護衛が加わる。残る者は野営地で荷と通信設備を守ることになった。斜面の向こうの足場を確かめるまでは、全員の食料と水を運び出さない。
「わたしも行っていいんですね」
ノンノが昨日の責任者へ念を押す。
「歩いて向こう側を見るところまではな。ただし、水場がなければ戻る。先へ行きたいからといって、持っている水を往路で使い切るなよ」
「分かっています。昨日、リュシアさんとも残りを確かめました」
「ならいい。帰りの分まで自分で見ておいてくれ」
ノンノは真面目に頷いた。エルディアスは彼女の水袋がずり落ちているのを見て、結び目を上へ寄せる。ノンノが口を開きかけたが、重さが足へ当たらなくなったのを確かめてから、何も言わずに歩き出した。
野営地から斜面までは、それほど遠くない。昨日の調査員がつけた印が低い杭の上に残り、道案内が足元を確かめながら進む。乾いた草は朝露を含んでおらず、踏むたびに細かく折れた。背後を振り返れば野営地の布屋根がまだ見えるが、前方にはもう大きな木がない。
ラウルが斜面の途中で立ち止まり、手で後続を制した。先に登った護衛が上から合図を返す。足場は崩れていないらしい。エルディアスも杖を地面へつき、一段高くなったところへ足を掛けた。
頂を越えた瞬間、風が顔に当たった。
森の外に、起伏の低い土地が広がっている。斜面のすぐ下にはまだ乾いた草が残り、ところどころ低い灌木も見えた。しかしその先は明るい砂地が続き、遠くの輪郭は熱で僅かに揺れている。木陰を辿って歩いてきた三日間とは、同じ空の下にあることが不思議なほど違って見えた。
「……本当に、砂漠ですね」
ノンノが言った。声に弾むものはあったが、すぐに周囲を見回す。どこまでも砂ばかりというわけではない。岩の露出した場所もあり、風が吹けば砂の溜まる位置も変わる。足場を見なければ、遠くに目を奪われたまま進めない土地だった。
「旅人の言ったことの一つは確かめられたな」
エルディアスが呟くと、測量の調査員が記録板へ見えた範囲を書き込んだ。
「街の方は、まだ分かりません」
「ああ。見えてる範囲に建物はない」
ラウルは目の上へ手をかざし、遠くの低い岩を順に見ていた。森から続く足跡が砂地へ入っている場所を見つけたらしく、ガルムと一緒に少し斜面を下りる。セルマは後ろの者を見て、誰かの水袋が杭に引っかかりかけると先に声を掛けた。
「ここから先は印がないわ。ラウル、見に行くなら戻る位置も決めて」
「あの岩までだ。そこで足跡が続いているかを見る」
「それなら私も行く。砂に残っていたとしても、風で消えた場所をそのまま追いかけないでよ」
ガルムが先に斜面を下り、セルマが後へ続いた。責任者は一団をばらばらにしないよう、岩へ向かう者と斜面の上で地形を確かめる者を分ける。エルディアスたちはラウルたちと同じ側へ進んだ。
岩の近くで、砂が幾つもの細い線に分かれていた。昨日の調査員が見たという踏み跡は、一度乾いた土を横切り、その先で分からなくなる。ラウルはしゃがんで足元を見たが、誰がいつ通ったかまで判断できる跡はなかった。二つに割れた蹄の形も、人の靴底に似た窪みも、風が運んだ砂の下では曖昧だった。
「ここを通ったものがいる。それ以上は、今は言えないな」
ラウルは立ち上がり、手の砂を払った。ニルスなら見分けられるかもしれない、と言いかけたように唇が動き、結局そのまま周囲へ目を向ける。エルディアスは隣を通り過ぎたが、答える言葉はなかった。
◇
砂地へ出てしばらくすると、熱が靴底からも伝わり始めた。朝のうちは弱かった陽が高くなり、木立の方へ振り返っても、休める陰までは離れている。責任者が水を飲むための休止を命じた時、ノンノは岩の向こうで動く細長い首を見つけた。
「あれ、何ですか」
ガルムが目を向ける。低い茂みの葉を口で引き寄せている、褐色の大きな動物だった。長い脚と、背に盛り上がった瘤。その近くに二頭、さらに岩の向こうにも五頭いる。群れの端にいた一頭はこちらに気づいて首を上げた。護衛が確かめようと一歩踏み出すと、立っていたラクダが揃って身を引く。岩陰で伏せていた一頭も脚を折ったまま首を持ち上げ、こちらの動きを見ていた。
「ラクダだな。野生の群れらしい」
「八頭いますね。ずっとこの辺にいるんでしょうか」
「茂みはあるが、水は見えない。どこかへ飲みに行くんだろう。ただ、人が近づくだけであの様子だ。追えば全力で逃げるぞ」
ガルムが答えると、ノンノは古い魔導書の留め具に触れた。エルディアスはその手を見て、鎧猪を使役した時のオドの減り方を思い出す。ラクダも十分に大きい。
「ニペクで一頭を使役してみてもいいですか。いつも水を飲むところへ向かってもらえれば、道が分かるかもしれません」
ノンノは責任者の方を向いて言った。群れの全部ではなく、茂みのそばにいる一頭を見ている。
「使役できても、長くは持たないかもしれないんだな」
「はい。鎧猪の時みたいに重かったら、その場で言います。水場を見つけるまで、どこまでも歩かせるつもりはありません」
「分かった。日が傾く前には斜面へ戻る。まずは一頭だけ、ここへ呼んでみてくれ」
護衛が列を下げる間に、ノンノは荷を置いて魔導書を開いた。頁の上に虹色の光が浮かび、二枚の翅を広げる。蝶の姿になったニペクが左肩へ止まると、ガルムが僅かに身を乗り出した。
「……これが精霊か。蝶の姿をしてるんだな」
その声に、セルマもノンノの肩へ目を向ける。翅がゆっくり開くたび、薄い膜の上を色が流れた。ガルムは近くで見ようと一歩進みかけ、ラクダがこちらを見ていることを思い出して足を止める。
「本当にいたのね。精霊を見るのは初めてだわ」
セルマは小さく息をついた。
「きれい。翅そのものが光っているみたい」
ノンノが肩へ目を向けると、ニペクは何事もなかったように翅を閉じた。
「この子がニペクです」
ラウルは肩の上の小さな姿と、茂みのそばのラクダを見比べた。
「こんなに小さいのに、あの大きなラクダを使役するのか」
「鎧猪にも効きました。ラクダにも効くか、試してみます」
「ああ。こちらは動かずに待つ」
ラウルがガルムにも目を向けると、彼は頷き、ノンノの肩からラクダへ視線を戻した。セルマも見入っていた顔を上げ、群れの動きを確かめる。
人が一人でも近づけば、ラクダはすぐに駆け出せそうだった。誰も足を進めないまま、ニペクだけが肩の傍から飛び立つ。蝶は茂みへ顔を寄せている一頭の背後へ回った。ラクダは羽音に首を振ったが、人が追って来ないと分かると再び葉を噛む。ニペクが少し高く飛んでから肩口を横切ると、細かな虹色の鱗粉が毛の間へ落ちていく。
ラクダが顔を上げた。ノンノはその近くにいる二頭から引き離しすぎない距離で待ち、ニペクに声を掛ける。
「あの子を、こっちへ少しだけ呼んで」
ニペクが翅を開いた。
ラクダは茂みから口を離し、緩い足取りでノンノの前まで来た。鼻を鳴らし、手元の本を覗き込むように首を伸ばす。近くの護衛が退路を空けたまま見守っていると、ノンノが自分から一歩下がった。
「通りました。ただ、オドの減りは大きいです。鎧猪の時に近いと思います」
「なら、歩かせる前に休むか」
「この子を使役したまま、ずっと待つ方が減ります。今のうちに、水を飲むところへ向かってもらいたいです」
エルディアスはノンノの顔色を見た。まだ会話はしっかりしているが、長く保つなら途中でやめる判断が要る。責任者は帰路のために残す水と出発地点の位置を確認し、日が傾く前に斜面へ戻れる範囲で進むと皆へ伝えた。
その間、群れの大半は人を避けて岩の向こうへ遠ざかっていた。ただ、使役された一頭の近くにいた二頭だけは離れず、立っていた方が何度も首を伸ばしてこちらを見ている。
「ほかの子たちも、こっちを見ていますね」
「仲間が気になるのでしょうね」
リュシアが二頭の方を見た。使役されたラクダはノンノのそばで穏やかに立っているが、二頭はまだ岩陰から動かない。
「この子から、近くの二頭にも声を掛けてもらいます」
ノンノはニペクへ目を向けた。
「この子から、あの二頭へ伝えて。一緒に水を飲みに行くから、後ろをついて来てくれないかって」
ニペクの翅が開く。使役されたラクダが振り返り、岩陰の二頭へ鼻先を向けて低く鳴いた。一頭が顔を上げ、短い声を返す。仲間がもう一度鳴くと、岩陰から一頭が出てきた。伏せていたもう一頭も少し遅れて立ち上がる。護衛の一人が身じろぎすると、二頭はぴたりと足を止めた。ノンノが手を上げて皆の動きを止めると、使役された一頭は二頭の方へ数歩戻り、また鳴いた。二頭が近づき、鼻先を寄せ合う。護衛が十分に場所を空けると、三頭は離れずに集まった。遠ざかった群れのほかのラクダは、ついて来なかった。
ラクダを前にして、ラウルが背の高さを見上げる。
「こっちへ来た三頭なら、人も乗れるかもしれないな。嫌がったらすぐ降りるとして、試してみるか?」
ノンノの耳が立った。彼女はニペクに使役した一頭を伏せさせる。ラクダは前脚と後脚を順に折り、砂へ身体を下ろした。ほかの二頭はその動きを見ていたが、自分から伏せようとはしない。ラウルが試しに一頭の脇へ回ると、その首が素早く上がった。ノンノはラウルを下がらせ、使役された一頭を二頭の近くへ伏せさせる。しばらく待つと、二頭のうち一頭が脚を折った。もう一頭が伏せたのは、仲間に鼻先を寄せてからだった。
「……本当に、乗せてくれるんでしょうか」
「嫌なら立つだろ。背に手を置いてみろ」
ガルムに言われ、ノンノは瘤の脇をそっと押さえた。使役中の一頭は振り向くだけで動かない。護衛から借りた布を背へ当てても、大人しく待っている。ところが残る二頭は、人が横へ回るたびに首を振って立ち上がりかけた。リュシアとエルディアスが一度ずつ退き、ノンノは使役中のラクダをそばへ寄せて、二頭が落ち着くまで待った。背へ布を当てられたのも、そのあとだった。鞍も手綱も鐙もない。乗れたとしても、人の手で進む方向を変えるのは難しい。それでも今なら、ノンノが先頭の一頭を導けば、ほかの二頭もついて来るかもしれなかった。
ノンノはリュシアに支えられて使役中の一頭へ乗った。エルディアスが次の一頭に手を掛けると、その背が揺れて足を戻さざるを得ない。動きが収まるのを待ち、身体を低くしたまま、もう一度ゆっくり背へ上がった。リュシアの一頭も腰を上げかけ、彼女はそばの護衛に支えてもらって背へ移る。三人が乗り終えるまで、歩き出せなかった。立たせた時には身体が大きく傾いたものの、全員が背を低くしていたため落ちずに済んだ。ノンノの一頭が歩き出してから、残る二頭も並ぶように進み始めた。
「……二頭も、どうにか乗せてくれましたね」
リュシアが背の上からノンノを見る。彼女も驚いているらしく、自分の下にいるラクダの首をしばらく眺めていた。
「はい。途中で逃げてしまうかと思いました」
「試してみるもんだな」
ガルムが歩きながら言う。三頭は速度を競わず、先頭のラクダが立ち止まると後の二頭も歩みを緩めた。エルディアスとリュシアには自分のラクダを右へ曲げる手段がないが、ノンノの一頭が向きを変えれば二頭もそれを追う。三人の荷も背に載せられ、岩の先まで見通せる。歩いている者と離れすぎないよう進めば、かなり使い勝手がよかった。
ノンノは最初、揺れるたびに布を握りしめていたが、間もなくラクダの動きに腰を合わせられるようになった。右の地面が固いと分かれば一頭へそちらを示し、後ろの二頭も自然について来る。自分の足では見えなかった窪みの先まで見通せるのが楽しいらしく、少し前へ出ては振り返っている。
「エルさん、右に回ると岩の陰があります。皆さんもそこで休めそうです」
「案内役にも伝えてくれ。俺たち三人だけで道を決めるなよ」
「はい。分かってます」
案内役が足場を確かめ、列は低い岩の陰へ移った。歩いてきた者が腰を下ろす間も、三頭は散らばらず近くの草を食んでいる。使役されていない二頭がどこまで一緒に来るかは分からないが、少なくとも今は先頭の仲間から離れようとしなかった。
責任者は地図へ現在の位置を書き込み、陽の高さと、野営地まで引き返す道の長さをもう一度確かめた。思いがけず乗り物を得たからといって、飲める水が増えたわけではない。使役中のラクダも、ノンノのオドが尽きればその先を案内しないかもしれなかった。
「具合はどうですか」
リュシアが尋ねる。
「減ってます。でも、さっきより急に重くはなっていません。次に止まる時、ちゃんと教えます」
「止まる前でも、変わったら教えてくださいね」
「はい。そこは約束します」
ノンノはニペクに、使役中の一頭をいつも水を飲む場所へ向かわせるよう頼んだ。蝶が翅を開くと、ラクダは岩の間を抜ける方へ歩き出す。残る二頭に命令は届いていない。先に仲間から誘いを受けた二頭が、その後ろを自分の足で追っていく。
岩が少なくなると地面の色が変わり始めた。薄い砂の下に湿った土が覗き、細い草がところどころに生えている。隊はすぐには水があると決めつけず、進路の先と、背後に残した印の位置を見比べながら進んだ。ラクダは足元の匂いを嗅いでから同じ方へ歩き、時々頭を上げて遠くを見た。
ノンノが背から身を乗り出そうとして、慌てて布を握り直した。
「向こうに木があります。あれ、岩の影じゃありませんよね」
護衛が前へ出る。低い窪みの向こうに、細長い幹と緑の葉が見えた。風に揺れる形は、石の輪郭とは違う。ラウルが歩みを速めかけたところで、責任者が声を掛ける。まずは前方を確かめ、隊の全員で進める地面を選ぶためだった。
ラクダは近づくほど鼻を鳴らし、ニペクから新しい指示を受けなくても足を進めた。残る二頭も遅れずにつき、木々の手前で三頭そろって首を伸ばす。陽を避けていた鳥が枝から飛び立ち、ノンノの耳がその羽音を追った。
◇
最後の岩を回ると、水が見えた。
窪地の底に池があり、その周囲を草と背の高い木が囲んでいる。木陰は水面まで落ち、乾いた砂から続く獣の足跡が、その縁へ幾筋も集まっていた。砂漠の中のオアシスだった。
三頭のラクダは池を見つけると歩調を揃えて速めた。ノンノがニペクに先頭の一頭を歩かせるよう頼むと、後の二頭もその速度に合わせる。木の下まで来て使役中のラクダを伏せさせると、エルディアスとリュシアも二頭が自分で脚を折るのを待ってから降りた。ノンノも荷を受け取って地面へ足を下ろす。
「ノンノ、よく見つけましたね。仲間の二頭まで連れて来てくれて、助かりました」
リュシアに褒められ、ノンノは目を丸くした。ラウルも水辺と、まだ人を警戒している二頭を見比べる。
「俺たちが近づいたら逃げていたな。捕まえられたとしても、あれに乗って水場まで案内させるのは無理だ。よくやってくれた」
「三頭に乗れたおかげで、先も見やすかった。便利だったぞ」
ガルムが笑い、セルマも「帰りの水を気にしながら歩くところだったわ」と頷いた。ノンノは照れて、使役したラクダの首筋へ視線を落とす。エルディアスは水の深さを見ようと池へ目を向けたままだった。
「エルも何か言ったら?」
リュシアに促され、エルディアスはようやくノンノを見た。
「ああ……そうだな。水場を見つけたのも、二頭を連れてきたのも、お前のおかげだ。よくやった、ノンノ」
「はい!」
ノンノは少し大きな声で答えた。それからラクダの耳が動いたのを見て、慌てて声を落とす。
ノンノは使役を解き、ラクダの首から手を離した。オドを流し続けていた感覚が軽くなる。先頭の一頭はすぐに離れず、ほかの二頭と一緒に池の縁へ歩いていった。三頭が並んで水を飲む様子を、ノンノはしばらく見ている。
責任者は見張りを立て、水と周囲の状態を確かめるよう調査員へ指示を出した。野営地から持ってきた地図の線は、今はこの水辺まで延びている。ただし、街へ続く道も、この先の地形もまだ空白だ。木陰の下で、一団はようやく水袋を下ろした。
三頭が水を飲む場所から少し離れて、ガルムが草の生え際を歩いていた。足元の砂を靴で払うと、下から平らな石が覗く。池の縁なら自然の岩も珍しくないが、その石には人の手で整えたような直線があった。ガルムはしゃがみ込み、指先で砂を退ける。
「エル、こっちを見てくれ」
エルディアスとラウルが近づいた。石の表面には弧を描く溝があり、その先は草の根の下へ続いている。ガルムが離れたところの砂を掘ると、同じ幅の線がもう一度現れた。
「円形か。塔の中のものに似てる」
「転移紋だな」
ラウルの声に、責任者もやって来た。すぐに砂を全部払おうとする隊員を止め、まず見えている位置を記録させる。草の根を無理に抜けば、石の刻みを傷つけるかもしれなかった。調査員が輪郭と池までの距離を書き留め、足を踏み入れていない場所から少しずつ砂を取り除いていく。
ノンノもラクダを見送ってから来た。背の高いところにいた時は木々ばかり見ていたらしく、足元に石の円が隠れていたことに驚いている。
「ここを通った人なら、気づきそうですけど」
「水を汲んでそのまま出たなら、草の下までは見ないかもしれない」
エルディアスが答える。街から来た旅人がこれを使ったかどうかも分からない。砂の下から線が出たという事実だけを記録に加え、誰が通った道かはまだ決められなかった。
外周を確かめ終えると、円は塔の転移紋とよく似た形をしていた。ただし、ここがどこにつながるのかは分からない。責任者は水辺と紋の周りに見張りを置き、試す人数を絞った。ほかの者は転移先が確かめられるまで、荷を持って踏み込まない。
「塔と行き来できるなら、ここを新しい調査の起点にできる」
調査員が言う。ガルムは池の方を一度見てから首を傾けた。
「水もある。だが、行き先を確かめる前に都合のいい方へ決めるなよ」
「分かってる。試して、戻れるところまで確認する」
最初に進むのはエルディアスと調査員の二人になった。リュシアが同行を申し出たが、責任者はここにも道を知る者を残しておきたかった。エルディアスは彼女へ目を向け、頷いてから石の中央へ入る。調査員が並び、手元には写しを収めた袋を持った。
淡い光が石の刻みを走った。池を渡る風の音が消え、踏みしめていた地面も変わる。視界が戻った時、二人の足元には塔の石床があった。
「塔へ出た……」
調査員が周囲を見てから、オアシスの転移紋から塔へ戻れたことを記録する。塔に詰めていた王都の者も二人へ駆け寄った。足元の転移紋には、これまでなかった印が加わっている。持ってきた写しと照らすと、オアシスの石にあった刻みに似ていた。
「向こうへ戻れるか、ここで試そう」
「ああ。戻れなければ、ラウルたちには別の方法で知らせる」
エルディアスは塔の者に、オアシスに残る人数と発見した場所を伝えた。それから新しい印へ意識を向け、調査員ともう一度転移紋へ進む。光が足元から立ち上がり、今度は水と草の匂いが戻ってきた。
紋の外で待っていたリュシアが、こちらへ寄った。
「お帰りなさい。塔へ行けたのですね」
「行けた。塔の紋からも、ここへ戻ってこられた」
「なら、砂漠から森を歩き直さずに済むんですね」
ラウルは草の向こうに広がる砂地を見た。
「ここが、第三層の入口なのかもしれないな」
「俺もそう思う。でも、砂地に足を踏み入れたところで変わったのか、この紋から先なのかは、まだ分からない」
エルディアスが答える。すぐ近くには池があり、その外には乾いた土地がどこまでも続く。地図上で階層の境を引こうにも、転移紋を見つけたことだけでは決められなかった。
◇
責任者は現地に残る者と、セレイスへ記録を持ち帰る者を分けた。オアシスの水と転移紋を調べ続けるには、見張りも測量員も必要だ。ラウル、ガルム、セルマはその場に残り、周囲の道を確かめるという。ただし、誰も確認していない砂漠の奥へ独断で進むつもりはないと、ラウルが責任者へ伝えた。
エルディアスとリュシア、ノンノは写しを持って戻ることになった。紙には砂漠へ出た斜面から水場までの道、池の位置、八頭の群れから一頭を使役し、別の二頭がついて来た経緯まで書かれている。通信設備でも要点は送れるが、石の印の形と測量の記録は現物の写しが要る。
ノンノは池で水を飲む三頭をもう一度見た。乗せてくれた二頭にも礼を言いに行きたそうだったが、出発を待たせるわけにはいかない。遠くから手を振るだけにした。
エルディアスたちが転移紋へ向かうと、ラウルが短く手を上げた。ガルムはすでに水袋を分け、セルマは池の外側の見張りへ移っている。ここで次の仕事を始める三人を残し、エルディアスたちは塔へ移った。
塔の転移紋で円形石室へ戻り、黒い入口を抜ける。セレイスの通りに出ると、今朝斜面から見た砂地が、ずいぶん遠い場所のように感じられた。少なくとも、戻るためにあの森を三日歩く必要はなくなった。
冒険者ギルドでは、王都側への連絡を待っていた者が一行を奥へ通した。調査員が地図と紋の写しを広げ、エルディアスが往復した順番を説明する。ノンノも水場へ着いた経緯を聞かれ、ラクダを一頭使役して仲間の二頭へ誘いを伝えてもらったこと、騎乗には二頭の方が手間取ったことを話した。
写しはレナートにも届けられた。遅れてギルドへ来た彼は、まず塔とオアシスの紋を並べて見る。
「塔へ戻り、そこから同じ二人でオアシスへ行き直したんだな」
「ああ。新しい印も増えてた。向こうの王都の者にも伝えてある」
「なら、その経路が開いたのは確かだ。階層の境がどこにあるかは、まだ別の話だが」
「ここが第三層の入口だと思うか」
「可能性は高い。だが、オアシスの外にも砂漠は続いている。塔とつながった場所が、そのまま入口とは限らん。王都の調査結果を待とう」
レナートは図を伏せず、二枚とも卓の上へ残した。分かったことは増えたが、まだ説明できない場所の方が広い。エルディアスが窓の外を見ると、セレイスの通りには夕方の人通りが戻っていた。
ノンノは隣で、ラクダの背から見えた道をリュシアへ話している。立ち上がる時には思ったより大きく揺れたことも、二頭目が仲間の声に応じて近づいた時のことも、まだ鮮明に覚えているようだった。
エルディアスは地図の端に描き加えられた小さな水辺と、その先に残る白い余白を見た。




