第8話 魔力
「何ですか、これは」
リュシアの声が部屋に響いた。その声と重なるように、まったく同じ言葉がエルディアスの頭の内側へ落ちてくる。
――何ですか、これは。
念話が発動した。本当に、発動してしまった。
「避けろ!」
戦場全体へ届くように声を張り上げる。
――説明してください。
今度の声は、リュシアの口から出ていなかった。黒い糸を通じ、エルディアスだけに届いている。彼も声には出さずに返した。
――後だ。今は敵を見ろ。
――あなたは、私に何を。
「左から来る!」
「見えています!」
階層主の裂けた幹から黒い火が放たれた。リュシアは怒りに顔を歪めたまま横へ跳ぶ。黒い炎が彼女のいた場所を呑み込み、床の石を焦がして弾けた。飛び散った破片が青灰色のローブを叩き、熱風が裂けた裾を煽る。
二人の左手薬指の間には、黒い糸が伸びて見えていた。リュシアが右へ跳べば糸も右へ流れ、身を沈めれば低く垂れて見える。床を這う根や階層主の枝腕と重なっても引っかからず、触れることもできない。ただ二人にだけ見え、距離を無視して左手薬指同士を結んでいる。
避けても無駄だ。先ほどエルディアスが告げた言葉の意味を、リュシアはようやく理解しかけたのだろう。敵の攻撃ではない。これは避けるべきものではなく、すでに二人は結ばれている。
だが、理解よりも先に怒りが来た。
――あなた、本当に何をしたのですか。
――後だ。
――後、後、後。あなたはそればかりですね。
――生きてたら聞け。
――必ず聞きます。
「枝腕が来る!」
「分かっています!」
仲間にも聞こえるように答えながら、リュシアは黒い火の隙間を縫って走った。
――命令しないでください。
――頼む。避けてくれ。
――最初からそう言ってください。
エルディアスは左手薬指から伸びて見える糸へ意識を向け、自分のオドを火種へ変えた。リュシア自身は魔法を使えない。だが、この糸を魔力の導線にできるなら、彼女の剣へ術式を通せるかもしれない。
直接触れなくていい。高速で動く剣を狙い、遠隔付与を当てる必要もない。彼女がどれほど速く動いても、黒い糸は二人の間に見え続けている。確信はなかったが、ほかに手はなかった。
術式を通し、火を流す。身体へ散らさず、ローブへ逃がさず、柄を焼かず、刃へ集める。
リュシアの細身の剣が赤く光った。
壁際で片脚を押さえていたネラが息を呑む。
「……当たった?」
砕けた大盾を支えていたグレンも目を見開いた。
「いや、今は撃ってなかっただろ」
「じゃあ、どうやって」
「知るか」
彼らには黒い糸が見えていない。見えているのは結果だけだ。先ほどの遠隔付与は外れた。リュシアも階層主も速すぎて、放った火は剣をかすめることさえできなかった。それなのに今、細身の剣には不自然なほど正確に火が宿っている。
刃だけが赤く燃え、柄は焼けていない。リュシアの手袋にも、銀糸の織り込まれたローブにも火は移らず、まるで剣の内側から炎が染み出しているようだった。
「火は効くわ」
ディナが燃える刃を睨んだ。
「私も試した。でも、表面を焦がすだけで再生に追いつかなかった」
「普通の付与では……ない」
床に伏したフィルが掠れた声で呟く。
「分かるのか」
グレンが尋ねると、フィルは小さく首を振った。
「分からない。ただ、さっき外した術とは違いすぎる」
――熱い。
リュシアの声が頭の内側へ響いた。
――身体には流してない。
――勝手に何をしたのですか。
――剣に火を付与した。
――私の剣に、勝手にですか。
――今だけだ。
――時間の問題ではありません。
「下がれ! 枝腕が来る!」
「見えています!」
リュシアは身を低くし、黒い火の下を抜けた。剣に宿った炎が空中へ赤い線を残す。床から伸びた根を刃で払うと、焼かれた先端が小さく縮んだ。やはり火は効いている。
――終わったら消す。
――そういう問題でもありません。
「そのまま走れ! 敵意を引きつけろ!」
「よくありませんが、やっています!」
リュシアは砕けた柱の陰へ入り、直前で身を沈めた。黒い火が柱を砕き、破片が頭上を通り過ぎる。石片が肩を打って血が散ったが、彼女は止まらない。
火を宿した剣が階層主の枝腕を斬った。斬ったというより、表面を削ったという方が近い。黒い樹皮が裂け、滲んだ樹液が泡立つ。太い腕を断つには浅すぎたが、焼けた部分の再生だけがわずかに遅れた。
ディナが目を細める。
「違う。火力だけじゃない。傷の中に火を残してる」
火種が傷口に留まり、再生しようとする樹液を内側から焼いている。ディナの火球より一度の威力は低くても、剣が傷を作るたび、確実にその奥へ火を置ける。
階層主の顔に空いた三つの赤黒い穴が、ぎょろりとリュシアへ向く。
「見られました!」
「いい。そのまま引きつけろ!」
「よくありません!」
枝腕が床へ叩きつけられる。リュシアは横へ跳び、砕けた石を踏み台にしてさらに身を翻した。着地地点から黒い根が伸びたが、火をまとった剣で先端を払い、床へ引っ込ませる。
火は効いているが、浅い。リュシアの剣は細く、火力を上げすぎれば刃が保たない。刃を守るために火を絞れば、巨木のような階層主の幹までは届かない。
今できるのは表面を焼き、再生を遅らせ、敵意を集めることだけだ。つまり、リュシアに避け続けてもらうしかない。最悪の手段であり、彼女からすればなおさらだった。
「どれくらい続ければいいのですか!」
「俺が考えるまで!」
「今考えていないのですか!」
「考えてる!」
「遅い!」
「文句を言う余裕があるなら右!」
リュシアは右へ滑った。直後、黒い火が左側を舐め、熱でローブの裾が縮れる。
階層主が咆哮した。二本の枝腕がリュシアを追い、床から三本の根が突き出す。裂けた幹からは黒い火が吐かれ、背の枯れ枝から尖った根の欠片が放たれた。
リュシアは逃げているのではない。遠ざかれば階層主の意識が負傷した仲間へ戻り、近づきすぎれば枝腕と根に囲まれる。だから近すぎず、遠すぎず、常に三つの目の中へ残り続ける。避けて、斬る。根を焼き、枝の先を削り、黒い火を壁側へ誘導する。
青灰色のローブが黒い部屋を滑る。一度でも止まれば死ぬ。それでも、動き続ける彼女の剣から火は消えなかった。
一方で、床を覆う根はまだ負傷者たちへ伸びている。
「こっちにも来てるぞ!」
グレンが叫んだ。
「押さえろ!」
「押さえてる!」
「切るな!」
「分かってる!」
エルディアスは剣へ流していた火を絞り、空いたオドを土へ回した。グレンへ向かう根の前に低い段差を起こすと、根は土へ乗り上げてわずかに軌道を変え、グレンが砕けた盾で床へ押さえつける。
その瞬間、リュシアの剣の火が弱まった。
「火が落ちました!」
「後ろを見た!」
――見ないでください。
――見なければ誰かが死ぬ。
――なら必要な時だけ見てください。
――難しい注文だな。
火を戻せば負傷者を守れず、負傷者へ術式を回せばリュシアの剣が鈍る。フィルの呼吸を光で補助する余裕もない。ディナが傷口を押さえているが、片腕を負傷した彼女自身も長くは保たなかった。
どちらかを選ぶしかない。それが、今のエルディアスの限界だった。
「弓使い!」
壁際のネラが顔を上げる。
「治癒師の右へ根が行く! 切るな、床へ縫い止めろ!」
「無茶を言うわね!」
「できるか!」
ネラは腰の短剣を抜き、痛む脚を引きずって床へ突き立てた。刃が石の隙間へ噛み、根の動きを一瞬だけ止める。
「止めた!」
「離すな!」
「分かってる!」
リュシアが階層主の左枝をかすめるように斬った。火が黒い樹皮の表面を走り、滲んだ樹液を焦がす。
「効いています!」
「浅い!」
「浅く斬れと言ったのはあなたです!」
「事実だ!」
――本当に腹が立ちますね。
――集中しろ。
――しています。
床から根の槍が突き上がる。リュシアは半歩だけ身体を捻った。大きく跳べば、次の枝腕に狙われる。足元を払う根、頭上から来る枝、横から迫る黒い火。そのすべてを見ながら、必要な分しか動いていない。
綺麗ではなく、優雅でもない。だが、死なないための動きとして無駄がなかった。
――今、何か失礼なことを考えましたね。
――なぜ分かる。
――顔です。
「敵を見ろ!」
「見ています!」
「なら右!」
「はい!」
リュシアは素直に右へ跳んだ。直後、自分の返事に気づいたらしく顔をしかめる。
――今の返事は取り消します。
――聞いた。
――忘れてください。
――無理だ。
枝腕が頭上を通り過ぎる。リュシアはその下へ潜り込み、曲がった節を浅く斬った。火種が傷口に残り、再生しようとした樹液の内側で小さく弾けると、枝腕の動きが鈍った。
「止まりました!」
「一瞬だけだ!」
「十分です!」
その一瞬でリュシアは距離を取った。ネラが、焼けた枝腕と彼女の剣を見比べる。
「動き続けてるのに、火が残ってる……」
「だから普通じゃないと言った」
フィルが答えると、グレンが鼻を鳴らした。
「分からんことばかりだな」
「生きていれば、後で考えられる」
「重傷者が一番まともなこと言ってるぞ!」
「なら生かせ」
エルディアスが答えると、グレンは荒い息の合間に笑った。
階層主の敵意は、明らかにリュシアへ集中し始めていた。フィルたちへ伸びる根が減り、枝腕も黒い火も彼女を追っている。彼女が避けることで仲間が生き、火を宿した剣で傷をつけるたび、階層主はさらに彼女を見る。
その一方で、エルディアスは剣の火を保つためにほかの術式を諦め、必要になるたび火を弱めて負傷者を守っている。最悪に不安定な連携だった。
「次、胸を見ろ!」
「見ています!」
「焦げたところが薄い!」
「では、そこまでの道を作ってください!」
「今は無理だ!」
「あなたが言い出したのでしょう!」
「そうだな!」
――納得しないでください。
リュシアが床を蹴り、階層主の左側へ回り込む。枝腕が追い、黒い火が迫り、根の槍が進路を塞いだ。
エルディアスは刃の火を一瞬弱め、風を送った。リュシアの身体ではなくローブの裾だけを持ち上げ、旋回を助ける。だが、火を弱めた分だけ、階層主の胸に残っていた火種が薄れた。
何を選んでも、何かが足りない。
リュシアは風を受けて枝腕の内側へ入り、胸の焦げ跡を浅く斬った。階層主が大きくのけぞり、黒い樹皮の隙間から一瞬だけ灰色のものが覗く。
「見えました!」
「核か!」
「たぶん!」
「俺の言葉が移ったな!」
――最悪です。
リュシアはすぐに下がった。足元から根が突き出したが、横へ倒れ込むように避け、片手で床を押して立ち上がる。
火はまだ消えていない。だが、エルディアスのオドは底が見えていた。このままでは、先にこちらが尽きる。
その時、黒い糸の向こうに、これまで意識していなかった何かがあると気づいた。声ではない。もっと澄んだ、形を持たない力――オドだ。
リュシアの内側に、確かにオドがある。魔法が使えないという言葉から、考えの外へ置いていた。だが、黒い糸越しに伝わる気配だけでも、エルディアス自身の残りとは比べものにならないほど大きい。
なぜ、それだけのオドを持ちながら魔法を使えないのかは分からない。今は考えている暇もなかった。
黒い糸はこちらから火を送るだけの道ではない。向こう側のオドも、こちらへ通せるかもしれない。
――リュシア。
――何ですか。
――お前のオドを使う。
リュシアの足運びが、ほんの一瞬だけ乱れた。
――私は魔法を使えません。
――オドはある。
――なぜ、あなたに分かるのですか。
――糸越しに分かる。
――また説明が足りません。
――俺が術式にする。
「右へ!」
「見えています!」
リュシアは声に出して応じ、横へ跳んだ。枝腕が床を砕き、石片が背後へ飛び散る。
――それで、何が変わるのですか。
――全部だ。
――分かりやすいようで、何も分かりません。
エルディアスは黒い糸を通じ、リュシアのオドへ意識を伸ばした。何かを掴む感触はない。ただ、糸の向こうにある流れをこちらへ開く。
次の瞬間、熱を持たないオドが黒い糸を通り、左手薬指からエルディアスの内側へ流れ込んできた。
――今、使いましたね。
――分かるのか。
――分かります。何をしたのですか。
――後だ。
――またですか。
エルディアスは流れ込んだ力を自分の術式へ組み込み、火へ変えた。
多すぎる。
流量を絞るより先に、枯れかけていた火の術式へ一気に力が満ちた。リュシアの剣を包む炎が膨れ上がり、刃から溢れた火が剣を握る腕の袖口を舐める。青灰色の布が黒く焦げ、織り込まれた銀糸が一本、白く弾けた。
――熱い!
――今絞る。剣を身体から離せ!
――先に言ってください!
リュシアは迫る根を避けながら、剣を身体の外側へ伸ばした。
エルディアスは流れ込む量と、火へ変える量を同時に絞った。膨らんだ炎は急速に細くなり、再び柄にも手袋にも触れない形へ収まる。
それでも、黒い糸の向こうのオドは、ほとんど減っていなかった。使った分だけ、すぐに満ちる。オドを蓄えられる量ではなく、マナをオドへ変える速さそのものが異常なのだ。この場で使い切れる量ではない。尽きるとすれば、供給する側ではなく、受け取る側だった。
――ローブが焦げました。
――悪かった。
――謝れるのですね。
――今はな。
――後で弁償してください。
――覚えてたらな。
――絶対に覚えさせます。
エルディアスはさらに、受け取ったオドを風へ変えてリュシアへ送った。風は彼女の身体を無理に押すのではなく、踏み出す瞬間に背を押し、旋回するローブの裾を持ち上げ、跳躍の終わりに勢いを殺す。
だが、最初の一歩は強すぎた。リュシアの身体が予想以上に前へ伸び、着地した足が半歩流れる。
――速すぎます!
――今合わせる。
――先に合わせてください!
エルディアスは風を絞り、踏み込み、跳躍、旋回、それぞれに必要な分だけを送り、リュシア自身の動きを邪魔しない強さへ調整した。
さらに光を通す。肩を打った石片の傷から出血が止まり、焦げた袖口の下にある皮膚の痛みが薄れる。疲労そのものを消すことはできないが、こわばっていた脚の筋肉が緩み、乱れていた呼吸が整っていく。
リュシアが目を見開いた。
――これも、あなたが。
――動けるか。
――先ほどよりは。
――なら行け。
――命令しないでください。
そう返しながら、リュシアは先ほどまでとは比較にならない速さで床を蹴った。
火を宿した剣が赤い線を引き、風が踏み込みを加速させ、光が傷と消耗を支える。階層主の枝腕が振り下ろされるより先に、リュシアはその内側へ入った。根が足元へ伸びる頃には、すでに反対側へ抜けている。すれ違いざまに火の刃が樹皮を裂き、深く抉れた傷口から黒い樹液が噴き出した。
階層主が振り向く。遅い。もう一度枝腕を振るうが、それも遅かった。
先ほどまで、リュシアは攻撃の隙間を探していた。今は違う。階層主が動き始めてからでも間に合う。避け、踏み込み、斬り、抜ける。火が再生を妨げ、風が次の一歩を作り、光が蓄積していた傷を抑える。戦況は完全に反転していた。
刃の火を維持したまま、エルディアスは床へ土を起こした。根の先へ光を当てて動きを鈍らせ、その下へ薄く水を流して進路を逸らす。グレンたちの前には土壁を立て、フィルの呼吸にも細い光を流した。
術式の構造は、どれもエルディアスが使い慣れた低級か中級のものだった。だが、注ぎ込めるオドの量が違う。威力も、持続も、同時に維持できる数も、これまでの中級術式とは比較にならない。火、水、風、土、光。五つの属性が、必要な場所へ途切れず置かれていく。
「お前! 何をした!」
グレンが叫んだ。
「後だ!」
グレンへ向かっていた根が土の段差へ乗り上げ、光を受けて鈍る。その下へ流れた水が先端を横へ滑らせ、グレンは砕けた盾で難なく床へ押さえつけた。ディナとフィルの前では、土壁が飛来する根の欠片を受け止めている。
「傷が閉じた……」
ディナがフィルの脇腹を見て呟いた。
「閉じただけだ。血は戻ってない」
フィルは呼吸を整えながら、自分の傷へ手を当てる。
「それでも、今は十分だ」
部屋の中央では、火と風と光をまとったリュシアが階層主を一方的に削り始めていた。周囲の者に見えているのは、エルディアスの術式が突然増え、リュシアへの付与まで強くなったという事実だけだ。黒い糸も、その向こうから流れ込むオドも、ほかの誰の目にも映っていない。
――これが、私のオドなのですか。
――そうらしい。
――そうらしいで使わないでください。
――もう使ってる。
――知っています。
リュシアは念話で怒りながら、枝腕の間を駆け抜けた。
エルディアスには、先ほどまで見えなかった勝ち筋が見え始めていた。階層主の胸に残された火傷。点在していた火種が少しずつ線を作っている。右上だけが途切れていた。
「胸の右上を繋げろ!」
「そこへ行く道がありません!」
「作る!」
風を送り、リュシアの踏み込みをさらに伸ばす。着地予定の床へ土を盛り、進路を塞ぐ根を光で鈍らせ、その下へ水を流す。根が半歩だけ横へ滑った。それで足りた。
リュシアは盛り上がった土を踏み、枝腕の下へ潜り込む。振り抜いた剣が胸の右上を裂き、強くなった火が傷の奥へ食い込んだ。
焦げ跡が繋がり、階層主が初めて大きく後退した。部屋中の根が激しく波打ち、胸の再生が止まる。焦げた樹皮の隙間から、灰色の核が見えかけていた。
「効いてる!」
ネラが叫ぶ。
「まだだ!」
強くなったとはいえ、今の火では表面を焼くだけで、核までは届かない。さらに火の量を増せば、先にリュシアの細身の剣が折れ、彼女の手も無事では済まない。
必要なのは量ではなく、火の形を変えることだった。外へ広げる炎ではなく、傷口から内側へ刺す火。樹皮を燃やすのではなく、残してきた火種を一つに繋げる。
階層主の裂けた口で、先ほどより大きな黒い火が膨らんだ。背の枯れ枝が広がり、床の根が円形模様に沿って一斉に波打つ。
狙いはリュシアだけではない。部屋にいる全員を、まとめて押し潰すつもりだ。
「来ます!」
ディナが叫ぶ。
「胸へ入れ!」
「道を!」
「今作る!」
黒い火が吐き出された。
エルディアスは風を正面からぶつけず、火の端だけを押した。黒い炎が半身分ずれ、床の割れ目へ流れる。同時にグレンたちの前へ土壁を厚く立て、根を光で鈍らせ、水で逸らした。
リュシアの進路へ足場を並べ、剣へ通す火だけをさらに細く絞る。オドは足りているどころか、尽きる気配すらない。
だが、流れ込む量を制御しながら五属性の術式を組み、対象ごとに出力を変え続ける負担は消えなかった。一つでも制御を外せば、別の術式へ余分なオドが流れ込み、付与か防壁のどちらかが崩れる。
「倒れないでください!」
リュシアが叫んだ。
「倒れる暇があるか!」
「倒れてからでは遅いです!」
「知ってる!」
リュシアは風を受けて黒い火の下へ沈み、根の上を蹴った。枝腕の影へ入り、床から伸びる槍を半身でかわす。
胸の焦げ跡まで、あと数歩。正面から枝腕が振り下ろされる。
「下!」
「分かっています!」
リュシアは身を沈めた。枝腕が頭上を通り、髪の先を焦がす。そのまま胸元へ入り込むが、黒い根が足首へ絡みつこうとした。
エルディアスは土で根元を挟み、水を流して先端を滑らせた。風がリュシアの背を押し、光が踏み込む脚を支える。彼女の足が半歩前へ出た。
――今から火を変える。
――また説明不足です。
――剣を離すな。
――離しません。
リュシアから流れ込むオドを火へ変え、黒い糸を通じて剣へ送り返す。赤い炎が消え、代わりに刃の内側へ白に近い光が宿った。
中級の火術を限界まで細く圧縮し、熱を外へ広げず、切っ先へ集中させたものだ。エルディアスには、今も上級術式の組み方が分からない。だが、中級術式へ注ぎ込まれたオドの量は、もはや通常の中級という言葉で測れるものではなかった。
――熱い。
――身体へは流してない。
――分かっています。
「頼む、行け!」
「最初からそう言ってください!」
リュシアが踏み込んだ。根が足首をかすめ、ローブの裾を裂く。枝腕が背後から迫り、黒い火が床を這う。それでも彼女は止まらない。
細身の剣が、焦げ跡の輪の内側へ突き入れられた。まだ浅く、核へは届かない。
「押せ!」
「押しています!」
傷口に残した火種が、一つずつ白く変わった。右上、左下、胸の中央、枝の付け根、ひび割れた樹皮の奥、黒い樹液に埋もれた小さな火。それらが線となり、輪となり、内側へ沈んでいく。
階層主の胸が内側から焼け、黒い樹皮が弾けた。灰色の核が露出する。
「見えました!」
「そこだ!」
リュシアは剣を引かず、切っ先を核へ向けた。
「斬れないなら突け!」
「剣が保ちません!」
「折らずに突け!」
「無茶を言わないでください!」
「お前ならできる!」
――急に信用しないでください。
――できるから言ってる。
一瞬、階層主の三つの目が大きく開いた。恐怖しているように見えた。
リュシアの表情から怒りが消え、代わりに冷たい静けさが宿る。細身の剣が灰色の核へ突き入れられ、刃に細かなひびが走った。
エルディアスは火の出力を上げた。流入量を絞りながら、剣へ送る火も、リュシアを支える風と光も、グレンたちを守る術式も維持する。
「もう一歩だ!」
「あなたも止めないでください!」
「注文が多い!」
「説明を聞くまで許しません!」
核に一本のひびが入り、続いて二本目が走る。白い火がひびの奥へ入り込んだ。
階層主が咆哮する。
怒りではない。悲鳴だった。
部屋全体の根が一斉に暴れ、グレンが押さえていた根が跳ね上がる。ネラの傍らへ根の欠片が落ち、ディナがフィルへ覆いかぶさった。
エルディアスは土壁を厚くし、風で黒い火を逸らし、光で根を鈍らせる。すべてを維持したまま、刃へ火を送り続けた。
リュシアが最後の一歩を踏み込む。
「終わりです」
剣が核の中心へ届いた。
灰色の核が砕けた。




