第7話 発呪
根が落ちた。
石床が割れ、黒い破片が跳ねる。エルディアスは落下の直前に風の乱れを読んでいた。それでも完全には避けきれず、砕けた石の欠片が頬を掠め、左の呪痕の上に細い熱を残した。
階層主の部屋は、広すぎるほど広かった。だが、逃げ場は少ない。床を這う根が、通れる場所を刻々と変えている。つい先ほどまで足場だった石床が、次の瞬間には根に持ち上げられ、裂け、傾く。
黒い樹皮に覆われた階層主は、部屋の中央に根を張ったまま動かない。動かないのに、部屋全体がその体内のようだった。
根が鞭になる。枝が刃になる。床が罠になる。
エルディアスは右手を石床へ向けた。根の前方に、拳ほどの高さの石が盛り上がる。止められるとは思っていない。狙い通り、根の先端が石に乗り上げ、軌道をわずかに変えた。
「左へ!」
青灰色の影が身を沈める。直後、太い根がエルフの女の肩先を掠め、背後の石壁を叩き割った。
エルディアスは掌を返した。黒い樹皮の裂け目へ細い火を撃ち込む。火は赤く爆ぜ、焦げた匂いと黒い煙が広がった。だが、焼けたのは表面だけだった。
六属性を扱える。だからといって、すべての敵に有効な術を持っているわけではない。使えることと、効くことは別だった。
「右から来る!」
叫んだのは、短髪の女魔導士だった。片腕を血で濡らしながら、それでも詠唱を切らさずにいる。彼女の前に集まった炎が球形に膨らみ、階層主の根元へ飛んだ。
火球が弾ける。黒い樹皮が焼け、煙が上がった。効いてはいる。だが、樹皮の奥まで届いていない。
「足りないな」
エルディアスが呟くと、女魔導士が顔を歪めた。
「分かってるわよ!」
「責めてはいない」
「だったら口に出さないで! あれ以上溜める時間がないの! あの木、こっちが詠唱を長くすると、必ず根を飛ばしてくる。盾がまだ動けた時ならともかく、今は無理!」
言葉の途中で、床を割って根が走った。女魔導士は詠唱を切り、横へ転がる。直後、彼女が立っていた場所を根が叩き潰した。組み上げかけた術式が消え、赤い火花だけが床に散る。
「ディナ、フィルを頼む!」
割れた大盾を支えた男が叫んだ。
「言われなくてもやってる!」
ディナと呼ばれた女魔導士は、血に濡れた片腕を庇いながら壁際へ身体を寄せた。その先には、治癒師が床へ伏している。
フィルというらしい。胸は上下しているが、手から離れた杖へ伸ばす指には、もうほとんど力が残っていなかった。
「俺はいい……根元を見ろ」
治癒師のフィルが、掠れた声を絞り出した。
「裂けたところが、もう閉じ始めてる。焼き続けないと止まらない」
「見れば分かるわよ」
「なら、俺に構うな」
「黙って守られてなさい!」
ディナの返事に、フィルはもう言い返さなかった。
その近くでは、弓使いの女が片脚を押さえて座り込んでいる。弓は数歩先の石床に転がっていた。
細い根が床を這い、フィルの脇腹へ回り込む。
弓使いの女は腰の短剣を引き抜くと、痛む脚を引きずりながら身を乗り出した。振り下ろした短剣が根を貫き、石床の亀裂へ深く食い込む。根が床へ縫い止められ、一瞬だけ動きを止めた。
「ネラ、無茶するな!」
大盾の男が怒鳴った。
「寝てるあんたに言われたくない!」
ネラと呼ばれた弓使いは短剣の柄から手を離し、壁際へ転がる。直後、根が身を捩って短剣を弾き飛ばした。
階層主の注意は、ほとんど一人に向いている。
エルフの女だった。
銀糸を織り込んだ青灰色の戦闘用ローブをまとい、根と枝の間を縫うように走っている。肩口は裂けて血が滲み、裾の一部は焼け焦げていた。それでも足は止まらない。
細身の剣が黒い幹を斬る。刃は入る。だが、深くない。彼女は何度も階層主の懐へ入り、斬り、跳び、避け、また戻る。
速い。
彼女だけが、この部屋で階層主の攻撃についていけている。だが、決め手がない。
剣筋は正確だった。無駄も少ない。節に滲む赤い光、根の付け根、樹皮の裂け目。彼女は狙うべき場所を分かっている。分かっているのに、刃が届いても斬り切れない。
「火を乗せろ!」
エルディアスは叫んだ。エルフの女が、一瞬だけこちらを見る。
「何を!」
「剣に火だ! 樹皮の裂け目を焼け!」
「できるなら、とっくにやっている!」
苛立ちの混じった声だった。エルディアスは眉を寄せる。
できるなら、とっくにやっている。
その言葉が引っかかった。エルフは魔法に秀でた種族だ。少なくとも、人族はそう信じている。だが、彼女は魔法を使っていない。火を使わない。風を使わない。
今見せている速度も、風の術によるものではなかった。足の運び、膝の柔らかさ、体重移動。身体そのものを鍛え、ローブの補助で引き上げている速さだ。彼女の周囲には術式の気配がなく、剣にも魔力は流れていなかった。
「お前」
エルディアスは根を避けながら言った。
「魔法を使えないのか」
その問いが彼女の気に障ったことは、返事を聞くまでもなかった。根を避け、枝を潜り、倒れた仲間を庇いながら戦っているエルフに、魔法を使えないのかと問う。無神経にもほどがある。
エルフの女は床を蹴り、振るわれた根を半身でかわした。青灰色の裾が身体に遅れずついていく。着地と同時に、彼女は叫んだ。
「使えない!」
声が、広い部屋に響いた。
「見れば分かるでしょう! 私は魔法が使えない! 火も、風も、治癒も、何も! エルフなのに魔法が使えない変わり者だと笑いたいなら、生き残ってからにして!」
ディナが口を開いた。
「リュシア――」
だが、その先は根の轟音に呑まれた。
階層主の根が横殴りに走る。エルフの女は跳んだ。空中で身体を捻り、枝の刃を避け、着地と同時に剣を突き入れる。黒い樹皮が裂け、内側から赤い光が滲む。それでも、傷は浅い。
「俺が火を乗せる」
エルディアスは言った。
「一度、こちらへ来い!」
「無理よ!」
火の魔導士であるディナが叫ぶ。
「今の彼女をこちらへ呼んだら、あなたまで根に巻き込まれる!」
「おい、後ろだ!」
大盾の男の声に、エルディアスは横へ踏み出した。直後、根が背後の石床を穿つ。
「グレン、そっちへ二本行った!」
ネラが叫んだ。
「見えてる!」
グレンと呼ばれた盾役は、砕けた大盾を持ち上げた。一本目の根を盾の縁で逸らし、二本目を残った盾面で受ける。鈍い音が響き、グレンの身体が石床を滑った。傷めた膝が折れ、片膝をつく。
「だから寝てろって言ったでしょう!」
「お前も人のこと言えねえだろ!」
口を動かす余力は残っている。だが、盾役のグレンが立ち続けるのは、もう難しい。
ディナの言うことも正しかった。
エルディアスは火の付与を使える。剣へ火を乗せれば、少なくとも今より深く樹皮を焼ける。だが、付与は対象へ触れるのが最も確実だ。離れた位置からでも通せなくはないが、術式の範囲へ対象を正確に捉えなければならない。
今のエルフの女は速すぎる。敵の根が速いから止まれない。止まれないから術式を固定できない。固定できないから、付与が届かない。
エルディアスは遠隔の術式を組んだ。エルフの女が幹へ踏み込む瞬間を狙い、火の魔力を細く伸ばす。
だが、届く直前に太い根が床を割った。エルフの女は横へ跳ぶ。火の術式は、彼女がいた場所を通り過ぎ、石床の上で赤く弾けた。
エルディアスはすぐに次の術式を組み直した。今度は逃げる方向を読み、半歩先へ置く。
枝が軋んだ。
刃のような枝が横から迫り、エルフの女は空中で身を捻った。エルディアスは術式を放つ前に崩す。このまま撃てば、彼女ではなく枝に当たる。
敵も、エルフの女も速すぎる。付与の術式だけが追いつかない。
触れれば済む。だが、彼女をこちらへ呼び戻せば、追ってきた根に二人まとめて潰される。エルディアスから近づいても同じだった。彼女の動きへ踏み込んだ瞬間、自分が攻撃の軌道を塞ぐ。
遠隔では届かない。
直接は触れられない。
ディナの火力だけでは、樹皮を焼き切れない。
何か手はないか。
エルディアスは左手を握った。薬指の奥に、古い冷たさが残っている。
一か八か。
盾役のグレンが割れた大盾を支えに立とうとして、膝の痛みに再び崩れた。弓使いのネラは壁際から動けない。治癒師のフィルも起き上がらない。火の魔導士であるディナは残った魔力を削りながら火球を撃っているが、階層主の再生を止めるには足りない。
エルフの女だけが走っている。
いや、走らされている。
呼吸が荒くなっていた。踏み込みのたび、わずかに着地が深くなっている。あのままでは、いずれ足が遅れる。
その時、全員死ぬ。
エルディアスは奥歯を噛んだ。左半身の呪痕が、低く疼いている。古い痛みだった。忘れたことのない痛みだった。そして、使うつもりのなかったものだった。よりによって、断る間も与えない相手へ。
「名前」
エルディアスは言った。エルフの女は根を避けながら聞き返す。
「何!」
「名前を言え」
「今、それを聞くの!」
三本の根が同時にエルフの女へ向かった。彼女は低く沈んで一本目を潜り、二本目を剣で逸らし、三本目をローブの裾一枚ぶんでかわす。着地がわずかに乱れた。
「必要だ」
エルフの女は体勢を立て直しながら、鋭くエルディアスを見た。
「何をするつもり!」
「一か八かの賭けだ」
「最悪の説明ね!」
「詳しく話す時間がない」
「でしょうね!」
エルフの女は息を荒げながら、黒い幹へ斬り込んだ。剣先が赤い節を掠める。階層主が低く鳴いた。木が軋む音に似ていたが、怒りの声にも聞こえた。
「リュシア!」
彼女は叫んだ。
「リュシア・フェル・ノルディア! これでいい!?」
「いい」
「次は!」
「名前を呼んだら、誓うと答えろ」
リュシアは一瞬、本気で意味が分からないという顔をした。無理もない。閉じた階層主の部屋。満身創痍の仲間。巨大な木の化け物。飛び交う根。その中で、突然現れた男が名前を聞き、誓えと言う。正気を疑うには十分だった。
「何を誓うの!」
「この制約を受けると」
「どんな制約!」
エルディアスは答えなかった。答えられないのではない。答えなかった。
本当なら、すべて説明すべきだった。何が二人を結び、何を固定し、何を奪うのか。一度結ばれれば、いつまで切れないのか。それを知った上で、彼女自身に選ばせるべきだった。
だが、説明している間も彼女は走り続けなければならない。聞けば迷う。迷えば足が止まる。足が止まれば、根に追いつかれる。
エルディアスは、彼女の命を先に置いた。彼女が選ぶ権利を、後へ回した。それが許されるとは思っていない。それでも、死なせるよりはましだと決めた。
「今は時間がない」
リュシアの瞳が細くなる。
「それで、私に誓えと言うの」
「そうだ」
「信用できると思う?」
「思わない」
迷いなく答えると、リュシアがわずかに顔を歪めた。
「正直ね!」
「嘘をついても仕方がない」
「この状況で言うこと!?」
ディナが叫ぶ。
「リュシア、本気で乗るの!? その男、どこから来たのかも分からないのよ!」
「分かってる!」
「なら!」
「でも、このままなら全員死ぬ!」
判断は早かった。いや、早く見えただけかもしれない。彼女はずっと分かっていたのだろう。自分の速さだけでは勝てない。仲間はもう長く持たない。剣は届いても、傷が浅い。誰かが何かを変えなければ、この部屋の中で全員が根に砕かれる。
リュシアは根を跳び越えながら叫んだ。
「名前を呼ばれたら、誓うと答えればいいのね!」
「そうだ」
「その後、何が起きるの!」
「驚くな」
「それだけ!?」
「何が見えても、敵の攻撃だけを避けろ」
リュシアの口元が、一瞬だけ歪んだ。笑ったというより、息が壊れたような表情だった。
「無茶ばかり言う!」
「頼む」
その一言だけ、エルディアスの声は低くなった。リュシアの視線が、一瞬だけこちらを向く。
「……分かった!」
エルディアスは右手を下ろした。火でもない。風でもない。六属性のどれでもない。そもそも、魔法ですらなかった。
彼は息を吸い、詠唱を始めた。
古代語だった。今の王国で使われる魔法式とは違う。音が硬く、舌に絡み、聞く者の耳へ意味ではなく圧力として届く。
ディナが目を見開いた。魔法使いだからこそ、それが通常の術式ではないと分かったのだろう。
「何、その詠唱……」
エルディアスは答えなかった。
左半身が熱い。額から頬へ、首筋から肩へ、胸から脇腹へ、腰から脚へ。浅黒い火傷のような呪痕が、皮膚の奥で脈打つ。
痛みだった。それだけではない。肉の下で眠っていた何かが目を覚まし、内側から指を伸ばしてくるような感覚だった。
エルディアスは詠唱を止めなかった。
階層主の根が、リュシアを追い詰めている。彼女の足が一度、床の割れ目に取られた。ローブが助けた。身体が沈むより早く銀糸が淡く光り、布が空気を掴んで彼女を横へ逃がす。
だが、次も避けられる保証はない。
エルディアスは詠唱を繋いだ。左手の薬指が冷たくなる。細い糸で、内側から縛られるような冷たさだった。
彼は顔を上げる。
「リュシア・フェル・ノルディア!」
声が部屋に響いた。リュシアが根を避けながら振り返る。
「汝、この契りを受けると誓うか!」
彼女の足が、ほんの一拍だけ止まりかけた。問いの意味を量ったというより、その響きに呑まれたように見えた。
契り。制約。名を呼ばれ、誓うこと。
その響きだけで、ただの付与ではないと分かったはずだ。
背後でグレンが呻いた。ディナの火球が、樹皮の表面で消える。階層主の根が、五本同時に持ち上がった。
リュシアは歯を食いしばった。
「誓う!」
その瞬間、エルディアスの呪痕が震えた。浅黒い痕の縁が脈打つように黒く染まり、左手の薬指を締めつけていた冷たさが一気に強くなる。
そこから、黒い糸が伸びた。
あまりにも細い糸だった。髪より細く、影より濃い。光を吸い、空気を裂くこともなく、そこにある距離を無視するように、エルディアスの左手薬指からリュシアへ向かって伸びていく。
リュシアにも、それが見えた。目を見開き、反射的に身を引こうとする。その動きは、敵の一撃を避けるものとは少し違っていた。正体の分からないものから距離を取ろうとしたように見えた。
だが、その瞬間にも階層主の根は彼女を狙っている。右へ避ければ根に潰される。左へ跳べば枝の刃に裂かれる。黒い糸を避ける余裕はなかった。
「驚くな!」
エルディアスが叫ぶ。
「敵の攻撃だけを避け続けろ!」
黒い糸が、リュシアの左手薬指に触れた。彼女の身体は揺れず、傷も生まれない。糸は一周、二周、三周と指へ巻きつき、見えない指輪のように皮膚の下へ沈んでいく。
リュシアの瞳が大きく見開かれた。
「何、これ……!」
「前を見ろ!」
根が落ちる。
リュシアは反射で跳んだ。青灰色のローブが翻り、織り込まれた銀糸が光る。彼女の身体は、黒い根の間を紙一枚ぶんで抜けた。
エルディアスは左手を握った。薬指に、同じ冷たさが残っている。
かつて、人払いのダンジョンから持ち帰った呪い。最終階層主。玉座に座るリッチ・クイーン。恋人たちが受けることを拒み、誰とも結ばれないまま、エルディアスの身体へ残された未発の制約。
死別契鎖。
それが今、初めて発動した。
部屋の中央で、階層主が軋むように鳴いた。新しい獲物が増えたことを喜ぶように。あるいは、見えない何かがこの部屋へ割り込んだことを嫌うように。
エルディアスは息を吐いた。
これで終わりではない。黒い糸が魔力を通す保証などなかった。ただ二人を縛っただけで、何の役にも立たない可能性もある。
そうなれば、彼はリュシアの自由を奪っただけの男になる。
すでに奪っている。
役に立とうが立つまいが、その事実は変わらない。だからこそ、失敗するわけにはいかなかった。
「ここからだ」
その声は、根の轟音に呑まれた。
階層主の根が、再び持ち上がった。




