第6話 仕掛
石碑は、まだ白いままだった。
その白さは、もはやセレイスの冒険者たちにとって恐怖だけを意味してはいなかった。最初のころは、何も刻まれていないこと自体が異常の証だった。王立迷宮査察隊が敗走し、腕自慢の冒険者たちも血を流して戻り、それでも誰一人、第一層の主には辿り着けていなかった。白い石碑は、踏み越えてはならない境界のように見えていた。
だが、魔獣が通常の強さに戻ったと分かってから、状況は変わった。白い石碑は恐怖の印ではなく、誰の言葉も刻まれていない空白になった。つまり、最初の信託を持ち帰る余地が、まだ残っている。
その事実が、冒険者ギルドの大広間に熱を生んでいた。
攻略は、劇的にでも一気にでもない。だが、確実に進んでいた。最初の灯火石までは、もはや誰も迷わない。二つ目の灯火石までの分岐も、右へ行けば崩れた回廊、左へ行けば水音のする細道だと分かった。三つ目の灯火石の先にある裂け目は、体格の大きな盾役には不利だが、斥候や弓使いなら抜けられる。裂け目の奥には広い空間があり、その先に下り坂と三つの分岐が続いていた。
地図は毎日書き換えられた。昨日まで正しかった線が、今日は足りなくなる。誰かが見つけた行き止まりの裏に、別の誰かが細い抜け道を見つける。矢印、注釈、血の跡、撤退地点、魔獣の巣、休める場所、水の匂い、風の流れ。
王墓脇のダンジョンは、第一層だけでも広かった。そして、迷路だった。
ただの迷路ではない。古い砦の地下でも、鉱山の廃道でも、盗賊の隠し穴でもなかった。通路には人が歩くための幅があり、ところどころに石の灯火台があり、壁には何かを削り取ったような跡が残っている。だが、その配置には人の理屈がない。近道に見える道ほど奥で折れ、遠回りに見える道ほど魔獣の巣を避ける。広間だと思った場所がただの袋小路で、狭い裂け目の先に長い通路が続いている。
それでも、冒険者たちは進んだ。報酬は上がり続けていた。
王都への報告は、すでに届いているはずだった。正式な立ち入り禁止命令は早ければ今日にも届き、遅くともあと二日。それがギルドの見立てだった。
そうなれば、セレイスの冒険者たちは手を出せない。第一層の主を討つ役目は、王都から派遣される正式な攻略隊のものになる。最初の信託を持ち帰る名誉も、王都の管理下に置かれる。港町の冒険者が攻略史に名を残せる時間は、砂時計の残りの砂ほどになっていた。
だから、報酬は上がった。
掲示板に貼られた依頼票には、臨時補佐一名、報酬金貨二十枚とある。エルディアス・ロウ・グレイヴェルは、それを見て依頼票を剥がした。
「受けるんですか」
ミュリカは受付の向こうで、驚きよりも諦めに近い顔をした。
「高い」
「でしょうね」
「宿代に困らない」
「でしょうね」
「飯も選べる」
「でしょうね」
「なら受ける」
ミュリカは羽根ペンを置き、依頼票の内容を確認した。
「王墓脇新規ダンジョン疑い、第一層深部調査。目的は、下り坂以降の分岐確認と、可能であれば階層主の部屋の所在確認。討伐は必須ではありません」
「必須ではない、か」
「建前です」
「正直でいい」
「参加予定のパーティは五名です。盾役、剣士、斥候、治癒師、火属性魔導士。全員、王墓脇からの帰還実績があります。エルさんには、補佐役として入ってもらいます」
「便利屋だな」
「適任です」
「褒め言葉として受け取っておく」
「そうしてください」
ミュリカは契約書に印を押した。
「ただし、無理はしないでください」
「俺に言うことか」
「エルさんだから言っています」
その言葉に、エルディアスは返事をしなかった。
ギルドの片隅では、別のパーティが出発前の準備をしている。誰もが急いでいた。時間がない。命令が来る前に。王都に取り上げられる前に。第一層の主へ。白い石碑へ。最初の信託へ。
熱気はあった。だが、その中には焦りが混じっていた。
エルディアスは契約書を懐へしまい、新しい籠手の留め具を確かめた。
◇
今回のパーティは、悪くなかった。むしろ、かなり良かった。
盾役のラグスは無口だが、前に出すぎない。剣士のセリオは若いが、相手を追いすぎない。斥候のニルは軽薄に見えて、常に床を見る癖がある。治癒師のマーレは回復を急がず、傷の深さを見てから魔力を使う。火属性魔導士のドランは火力を誇る種類の男だったが、少なくとも合図を待つだけの理性はあった。
エルディアスの仕事は、その隙間を埋めることだった。風で匂いを流し、土で足音を殺し、水で床の乾き方を見る。光で影の奥を薄く照らす。火は使わない。使う時は退路を確認してから。闇は相手の目を奪うためではなく、こちらの輪郭を薄くするために使う。
どれも低級から中級の術だった。派手さはない。魔獣を一撃で焼く力もなければ、広間を凍りつかせるほどの魔力もない。だが、進むには足りた。
「右は風が戻ってくる。行き止まりだ」
「左は?」
「湿ってる。水場か、巣だ」
「なら中央か」
「中央は床が鳴る。盾を先に」
ラグスが盾を構えて進むと、床石が沈んだ。壁に空いていた穴から兎型魔獣が二匹飛び出す。ドランの火球が走り、セリオの剣が一匹を落とした。もう一匹はラグスの盾に跳ね返され、ニルの短剣で喉を裂かれた。
「今の、分かってたのか」
剣を払ったセリオが尋ねる。
「鳴る床の先に穴があるなら、何かが出る」
「罠か」
「巣の扉かもしれない。どちらでも、踏んだ後に起きることは同じだ」
セリオは少し黙り、それから笑った。
「便利だな、あんた」
「よく言われる」
「褒めたんだが」
「よく言われる」
ニルが小さく吹き出した。
彼らは進んだ。第一層は、通常の状態に戻っていた。少なくとも、道中の魔獣はそうだった。兎型魔獣は盾で止まり、火で散り、剣で斬れる。壁を這う黒い影も現れず、通路が狭まるような圧迫感もない。地図は描ける。戻る道も分かる。
それでも、楽な場所ではなかった。
広い。ひたすらに広い。
同じような石壁、同じような灯火台、同じような曲がり角。少しずつ違うが、急いでいれば見落とす程度の差しかない。床の傾き、空気の湿り、魔獣の爪痕、古い血の乾き方。そうしたものを拾わなければ、すぐに自分たちがどこにいるのか分からなくなる。
エルディアスは進みながら、壁に小さな印を残した。土を擦り、そこへわずかに光を乗せる。目立たないが、彼には分かる印だった。ニルも別の印を残している。
二重に印をつけるのは、臆病ではない。戻るつもりがある者の作法だ。
「この先、広い」
エルディアスは足を止めた。風が抜けている。ただし、出口へ向かう風ではない。大きな空間の中で、空気がゆっくりと回っていた。
ニルが先行し、すぐに戻ってきた。
「広間だ。魔獣はいない。壁際に古い灯火台。床も乾いてる」
「休める場所か」
治癒師のマーレが呟いた。
ダンジョンには、時折そういう場所がある。魔獣が入ってこない。罠が動かない。火を焚いても、声を出しても、何も寄ってこない。なぜそうなるのかはダンジョンによって違う。古い神殿の名残だという者もいれば、魔王の呪いにすら休息の規則があるのだという者もいる。
理由はともかく、休める場所は貴重だった。
「入る前に確認する」
エルディアスは広間を見たまま言った。
「床を踏む順番は変えるな。盾、斥候、俺、治癒、魔導士、剣士。壁には触るな。灯火台にも触るな。安全と決まるまで、荷を下ろすな」
「慎重だな」
ドランが言った。
「休む場所で死ぬやつは多い」
ラグスが先に入り、次にニルが続いた。何も起きない。
ラグスとニルが無事に通過した床石へ、エルディアスも足を乗せた。
その瞬間、足元から冷気が這い上がった。それに呼応するように、左半身の呪痕が皮膚の奥で疼く。
石が冷たい。ただの石の冷たさではない。水でもない。皮膚ではなく、もっと深い場所へ触れてくる冷たさだった。
エルディアスは反射的に足を戻そうとした。間に合わなかった。
視界が縦に裂け、音が消える。ラグスが振り返った顔が遠ざかった。ニルが何かを叫び、マーレの白い袖が伸びる。ドランの手に灯った火が揺れ、セリオの靴音だけが不自然に長く耳へ残った。
次の瞬間、エルディアスは落ちていた。
いや、落ちたのではない。場所が変わった。
ラグスたちはどうなった。
転移の直前、ラグスたちは広間に残っていた。巻き込まれた様子もない。飛ばされたのは、おそらく自分だけだ。
あの五人なら、すぐに崩れることはないだろう。エルディアスはそう切り分け、目の前へ意識を戻した。
足の裏が別の床を踏んでいる。空気は重く、湿っていた。木の匂いがする。腐葉土。古い樹皮。そして、血。
轟音が響いた。
根が目の前を横切り、エルディアスは身を伏せた。風が頭上を削る。遅れて背後の壁が砕け、飛んできた石片が頬を打った。左側の呪痕が熱を持つ。
エルディアスは床を転がり、立ち上がりかけたところで、ようやく周囲を見た。
広い部屋だった。天井は高く、壁は黒い石でできている。入口はない。少なくとも、今見える範囲にはなかった。床には無数の根が這い、ところどころで石を割っている。
部屋の中央に、それは立っていた。
木だった。
ただし、森に生える木ではない。幹はねじれ、人の胴を何十も束ねたように太い。樹皮は黒く、節の奥には赤い光が滲んでいる。枝は天井近くまで広がり、葉の代わりに薄い刃のようなものを揺らしていた。根は床を走り、鞭のように持ち上がっては空気を裂いて振るわれる。
階層主。
その言葉が、遅れて頭へ落ちた。
階層主の部屋は閉じる。階層主へ挑むパーティ、あるいは一つの攻略隊として組まれた複数のパーティが部屋へ入る。全員が入りきった時点で入口は閉じ、戦闘が終わるまで開かない。
少なくとも、エルディアスが知る限り、途中から参加できた例も、戦闘の最中に退出できた例もなかった。閉じた部屋の外から一人だけ放り込まれるなど、聞いたことがない。
考えている暇はなかった。根が来る。
「伏せろ!」
誰かが叫んだ。
エルディアスは言われる前に身を沈めた。頭上を根が通り過ぎ、背後で何かが砕ける。振り返る暇はない。視線だけを走らせた。
動けているのは二人だけだった。片腕を血で濡らしながら火の術式を維持する女と、根の間を走るエルフの女。そのほかに、倒れている者が三人いる。
大盾を持った男は片膝をつき、その膝を押さえていた。盾は半分に割れていたが、意識はある。歯を食いしばり、根の動きを目で追っている。壁際には弓使いの女が倒れ、脚を押さえながら傍らの折れた弓へ何度も手を伸ばしていた。もう一人は白い法衣を着た人物だった。根の間に身を伏せ、脇腹を押さえている。胸は浅く上下し、杖を握った指も動いていた。杖頭に刻まれた印と腰の治療具を見れば、治癒を担っていた者だと分かる。
五人とも生きている。だが、戦える者はほとんど残っていなかった。
根の間を走るエルフの女には、見覚えがあった。防具屋ですれ違った女だ。
青灰色の戦闘用ローブは、あの時とはまるで別物だった。大切そうに畳まれていた布は、今は彼女の動きに合わせて風のように翻っている。裾は長いのに根へ絡まず、広い袖も動きを遅らせない。銀糸が光を弾くたび、彼女の身体が半歩先へ滑るように見えた。
速い。
根が振るわれると、彼女は身を沈めてその下を抜けた。別の根が足元を払えば、石床を蹴って跳び越える。枝から刃のような葉が降り注ぐ。エルフの女は空中で身を捻って隙間を抜け、着地と同時に踏み込んだ。銀色の刃が黒い幹を走り、樹皮を裂く。
浅い。
傷はついた。だが、決定打には程遠い。黒い樹皮の下から赤い光が滲み、裂け目を内側から押し戻すように塞いでいく。
彼女はいま、倒しにいっているのではない。階層主を引きつけている。
大盾の男は動けず、弓使いの女も立てない。火の術者は術式を維持するだけで精一杯だ。白い法衣の治癒師も、自分の傷を押さえたまま動けずにいる。だからエルフの女が、大盾の代わりをしている。盾ではなく、速さだけで。
だが、それは長く続かない。人はいつか足を誤る。呼吸は乱れ、脚は鈍る。布がどれほど優れていても、その中にある身体は肉でできている。
エルディアスは部屋の中央を見た。通常の状態に戻っているはずだった。道中の魔獣は普通だった。兎型魔獣は盾で止まり、火で散り、地図は描けた。ギルドへ戻った冒険者たちも、皆そう報告していた。
だが、目の前の階層主は違った。
大きすぎる。速すぎる。重すぎる。
根の一本が床を打つたび、石が割れる。風圧だけで頬が切れる。あれをまともに受ければ、盾ごと身体が折れる。
エルディアスの左半身が疼いた。古い呪いが、皮膚の奥で目を開けるような感覚だった。
「誰だ、お前!」
火の術式を維持していた女が叫んだ。当然の問いだった。閉じたはずの階層主の部屋に、突然、知らない男が現れたのだ。
エルディアスは答えようとした。その前に、階層主の幹に並ぶ赤い節が一斉にこちらを向いた。根が五本、同時に持ち上がる。エルフの女が振り返り、その顔に初めて驚きが走った。
エルディアスは短く息を吐いた。
「説明は後だ」
右手を床へ向ける。
土。風。水。
三つの低級術式を、ほとんど同時に走らせた。風が五本の根の唸りを拾い、落ちてくる順番と軌道を伝える。土が、そのうち最も早い一本の手前に低い隆起を作り、水が石の表面へ薄く広がった。
振り下ろされた根が隆起を擦る。先端が濡れた石を滑り、狙いがわずかに外へ流れた。
止める力はない。折る力もない。だが、落ちる場所を半歩ずらすことならできる。
半歩あれば、死なないことがある。
根が落ちた。




