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第5話 変化

 王立迷宮査察隊の先遣隊が、王墓脇の黒い入口から撤退した。その六日後のことだった。


 午後二つの鐘が鳴って間もなく、王墓脇へ向かっていた一隊が、セレイスの冒険者ギルドへ戻ってきた。


 最初にその姿を見た時、誰もそれを勝利とは思わなかった。


 先頭を歩いていた盾役の男は、息こそ荒かったが、足取りはしっかりしていた。後ろに続く者たちも、鎧や外套に擦り傷はあるものの、肩を借りている者も、担がれている者もいない。血の匂いもしなかった。


 ギルドの大広間にいた冒険者たちは、まずそこに違和感を覚えた。この数日、王墓脇の黒い入口から戻ってくる者は、たいてい何かを失っていた。武器。指。歯。仲間。あるいは、入る前に持っていた威勢のよさ。


 無傷で戻る者など、入口近くで怖気づき、ろくに奥へ進まず引き返してきた者くらいだった。だから、その一隊が受付へ向かうと、大広間の視線が自然に集まった。受付嬢のミュリカも、羽根ペンを持つ手を止めた。


「帰還報告を」


 盾役の男はうなずいた。


「第一層、三つ目の灯火石の先まで進んだ。左壁の裂け目も確認した。その奥に広い空間がある」


 その言葉だけで、周囲がざわめいた。三つ目の灯火石の先。数日前までは、そこへ行くだけで負傷者が出ていた場所だ。


 巨大な兎型魔獣が床の振動に反応し、横合いから突っ込んできて、人間の盾ごと壁へ叩きつける。そう報告されていた。


「負傷者は」


 ミュリカが問う。


「なし」


「なし?」


「擦り傷くらいだ。治癒も使っていない」


 誰かが椅子を鳴らして立ち上がった。


「待て。どうやって抜けた」


 声を上げたのは、昨日、片腕を吊って戻った槍使いだった。彼は顔を歪め、その一隊を睨むように見ている。


「盾を二枚並べたのか。土壁を使ったのか。音を消したのか」


 盾役の男は困ったように眉を寄せた。


「いや、普通に」


「普通に?」


「普通に倒した」


 その返事に、大広間の空気が一瞬止まった。


 弓使いが横から口を挟む。


「兎型魔獣が出たんだ。三匹。でも、普通の兎型魔獣だった。少し大きいのもいたが、犬より少し上くらいで、報告にあったような仔牛ほどのやつじゃない。速さも普通だ。盾で止まったし、矢も刺さった」


「噛む力は」


「小手に傷がついたくらいだ」


「刃は通ったのか」


「通った。というか、魔導士の火で散った」


 その瞬間、広間が騒がしくなった。


 火。


 これまで火を使えば、奥から別種の魔獣が寄ってくるとされていた。巨大な兎型魔獣は炎を避けず、むしろ煙に紛れて飛び込んでくるとも言われていた。


 それが、火で散った。


 一隊の中にいた魔導士は、皆の視線を浴びて肩をすくめた。


「何か、まずかったのか」


 その言い方は、本当に分かっていない者のものだった。彼らは嘘をついていない。誇ってもいない。ただ、普通のダンジョンで普通に戦い、普通に戻ってきた顔をしていた。


 だからこそ、広間はざわめいた。


「おい、ギルドの記録を出せ」


「前に入ったやつを呼べ」


「本当に三つ目まで行ったのか」


「裂け目はあったんだな?」


「魔獣の死骸は持ち帰ったか」


 一度火がつくと、セレイスの冒険者たちは早かった。疑い、怒鳴り、確かめ、すぐに次の行動を決める。港の者たちは噂を嫌うくせに、噂を燃料にして動くことには慣れていた。


 その日の夕方、前日に撤退したばかりの別のパーティーが、再び王墓脇へ向かった。彼らは慎重だった。


 巨大な兎型魔獣の突進を警戒し、盾を二枚持ち、土属性の魔導士を一人増やし、火は封じて進んだ。ギルドからは記録係も同行した。


 何が変わったのか。あるいは、何も変わっていないのか。それを確かめるためである。


 彼らが戻ったのは、夕の鐘が鳴る少し前だった。今度も、負傷者はいなかった。


「本当だった」


 リーダーの女は、ギルドへ戻るなりそう言った。彼女は数日前、仲間を一人失いかけている。その時の顔を覚えている者は多かった。だから、彼女の報告は最初の一隊のものより重かった。


「兎型魔獣は小さくなっていた。いや、小さくなったというより、普通だった。突進も止まる。火にも反応しない。あの圧力がない。通路も、前より広く感じた」


「感じた?」


 ミュリカが聞き返した。


「分からない。実際に測ったわけじゃない。ただ、前は壁に押されている気がした。今回は、それがなかった」


 ギルドの大広間に、ざわめきとは別の熱が戻ってきた。誰かが笑った。すぐに別の誰かが怒鳴った。


「じゃあ、今なら行けるってことか」


「第一層の主まで抜けるぞ」


「待て。王都の連中が戻ってくる」


「だからだ。来る前にやるんだろうが」


「最後の一撃は誰が取る」


「決めてから入るやつがあるか。取ったやつが討伐者だ」


「信託に潰されたいのかよ」


 数日前まで沈んでいた大広間が、にわかに息を吹き返した。


 王墓脇のダンジョン疑いは、最初から攻略不能だったわけではないのかもしれない。


 何かの条件で、魔獣の強さが変わったのかもしれない。王立迷宮査察隊が敗れ、続いて地元の冒険者たちが返り討ちに遭った時だけ、異常だったのかもしれない。


 誰も答えを持っていなかった。だが、冒険者にとって、答えがないことは足を止める理由にならない。むしろ、早い者勝ちの匂いがした。


 エルディアスがギルドへ戻ってきた時には、すでにその匂いが大広間じゅうに広がっていた。


 彼は昼間、港湾区の小さな倉庫で結界灯の交換をしていた。湿気で錆びた金具を外し、魔石を磨き、土の術式を入れ直す。一昨日受け取ったばかりの防具はまだ身体になじまず、しゃがむたび、脇腹の革が小さく軋んだ。


 報酬は安い。だが、依頼主の老婆が昼食に豆の煮込みを出してくれたので、悪い仕事ではなかった。


 戻ってきたら、ギルドの空気が変わっていた。お通夜のようだった広間に、酒場の火が戻っている。ただし、それは暖炉の火ではない。乾いた藁に移った火だ。


「エルさん」


 ミュリカが受付から声をかけた。


「聞きましたか」


「聞いた」


「どう思います」


「みんな頑張ってるな」


 ミュリカは眉を寄せた。


「それだけですか」


「それ以上言うと、嫌われる」


「もう十分嫌われていると思います」


「なら、なおさら黙る」


 エルディアスは掲示板を見た。王墓脇に関する覚え書きは、さらに増えていた。


 三つ目の灯火石の先、左壁に裂け目。


 裂け目の奥は広間。


 通常の兎型魔獣、数匹。


 火属性有効。


 土壁有効。


 振動反応、弱。


 通路圧迫感、なし。


 以前の報告と食い違っている。だからといって、どちらかが嘘とは限らない。


 ダンジョンは、ルールの場所だ。まだ石碑に何も刻まれていなくても、見えない何かが働いていることはある。ある時だけ魔獣が巨大化し、ある時だけ普通に戻る。そういうことが、あり得ないとは言えない。


 けれど、それをここで言っても意味はなかった。人は、行けると思った時に行く。そして、止める言葉はたいてい遅い。


「王都の先遣隊は、五日前にセレイスを出ています」


 ミュリカが声を落として言った。


「順調なら、一昨日には王都へ着いているはずです」


「報告は、もう上まで届いているか」


「おそらく。向こうがすぐに増援を出していれば、早ければ明日にも到着します」


「遅くても、数日か」


「はい。今日の報告も追便で出しますが、間に合うかどうか」


 王都から王立迷宮査察隊の増援が着けば、王墓脇はその管理下に置かれる。


 入口が封鎖されるかもしれない。地元の冒険者による探索が禁じられるかもしれない。少なくとも、今のように簡単な申請だけで入ることはできなくなる。


「止めるのか」


 エルディアスが聞いた。


「止めても、行きます」


 ミュリカは苦い顔で答えた。


「そうだろうな」


 王都の部隊が来るまで、早ければ一日。そのわずかな時間に、名誉と報酬と死が、同じ扉の向こうへ置かれた。


 第一層の主へ辿り着き、最後の一撃を奪えば、討伐者として信託を受けられる。その名はギルドの記録に残り、王都にも送られる。ただの港町の護衛役が、歴史の余白に爪を立てることができる。少なくとも、大広間に集まった者たちは、そう信じていた。


 そう考える者は、必ず出る。すでに、出ていた。


 大広間の奥では、翌朝の探索を申請する者たちが、地図や過去の報告書を囲んでいた。


 盾を増やそうとする者。火属性の魔導士を探す者。以前に撤退した冒険者を、案内役として雇おうとする者。誰が最後の一撃を取るかで、早くも言い争っている者までいる。


 その騒ぎの中に、エルディアスは《錆びない鹿》で見かけたエルフの女を見つけた。彼女は仲間らしい冒険者たちと一緒にいた。身にまとっているのは、あの青灰色の戦闘用ローブだった。


 着ている姿を見ると、それがただのローブでないことはすぐに分かる。薄く、軽く、彼女が半歩横へ動けば、裾が遅れず足へ添う。織り込まれた銀糸は飾りではなく、魔力の流れを整え、動きを補助するためのものだろう。


 高価な品。そして、使う者を選ぶ品でもあった。


 俊敏さを補うための道具は多い。だが、速く動けるようになった者ほど、足を誤れば死ぬ。身体だけが前へ行き、判断が遅れれば、速さは逃げ道ではなく墓穴になる。


 エルフの女は、仲間の話を静かに聞いていた。表情は穏やかで、周囲の熱に浮かされている様子もない。ただ、その身には、先日まで布に包まれていた青灰色のローブがあった。


 エルディアスは、少しだけ目を細めた。


「知り合いですか」


 ミュリカが聞いた。


「いや」


「見ていました」


「珍しいからな。エルフは」


「それだけですか」


「ローブが高い」


 ミュリカは一瞬、答えに困った顔をした。


「そこですか」


「大事だ。高い防具を買うやつは、たいてい死にたくない」


「安い防具の人は?」


「金がない」


「エルさんですね」


「そうだな」


 彼は否定しなかった。


 彼女たちは、翌朝の探索手続きを終えると、広げていた地図を畳んだ。エルフの女は一度だけ顔を上げた。視線がこちらへ向いたようにも見えたが、すぐに仲間の方へ戻る。


 エルディアスは何も言わなかった。


 ギルドの扉が開くたび、外の風が入り込む。潮の匂いに、森の湿った匂いが混じっていた。


「行かないんですか」


 ミュリカが言った。


「呼ばれてない」


「呼ばれたら?」


「報酬を見る」


「名誉は」


「腹に溜まらない」


「討伐者になれるかもしれませんよ」


 エルディアスは少し笑った。


「最後の一撃を欲しがる年じゃない」


 それは冗談のように聞こえた。けれど、ミュリカは笑わなかった。


 その夜、ギルドは遅くまで騒がしかった。壁の依頼票が剥がされ、臨時の契約書が書かれ、治療費補償の条件をめぐって受付で言い合いが起きる。


 王墓脇の封鎖所へ運ぶ縄や杭、保存食の注文が入り、鍛冶屋の使いが駆け込み、酒場の店主が探索用の携行食を売り込みに来た。


 港町は、恐怖からでも金を生む。そして金が動けば、人も動く。


 その後も、日が変わるまでに、さらに三組が翌朝の出発を決めた。ひと組は盾を増やした。ひと組は火属性の魔導士を二人雇った。ひと組は過去に撤退した者を、案内役として高値で雇った。


 誰も口にはしなかったが、全員が同じことを考えていた。王都の部隊が来る前に。第一層を攻略するのは、自分たちだ。


     ◇


 翌朝。


 朝二つの鐘を待たず、ギルドの大広間は冒険者で埋まった。笑っている者もいる。震えている者もいる。黙って武器を磨く者もいる。


 エルディアスは掲示板の端に残された、王墓脇とは関係のない依頼票を眺めていた。迷子の飼い犬探し。倉庫の見張り。南街道の荷馬車護衛。壊れた結界灯の交換。


 彼がそのうちの一枚に手を伸ばしかけた時、外で鐘が鳴った。時を告げる鐘ではない。王墓脇へ向かう一隊の出発を知らせる、ギルドの鐘だった。


 冒険者たちは扉の方を見た。誰かが笑い、誰かが祈り、誰かが小さく舌打ちした。


 石碑は、まだ白い。だが、その白さはもう、沈黙ではなくなっていた。


 誰が最初の言葉を刻むのか。その問いが、セレイスの朝を熱くしていた。

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