第4話 新調
エルディアスは昼過ぎまで眠った。
正確には、一度目を覚ましたが、頭の奥で港焼けが鐘を鳴らしていたため、もう一度寝た。宿の窓からは港の音が入ってくる。荷車の軋み。誰かの怒鳴り声。遠くの鐘。セレイスは、宿泊客の二日酔いに配慮して静かにしてくれる街ではなかった。
昼過ぎに起きると、水を飲み、硬いパンを少しかじり、顔を洗った。鏡代わりの磨いた金属板には、寝癖のついた中年男が映っていた。
左の頬から首筋へ、服の下へと続く浅黒い呪痕は、いつも通りそこにある。熱はもうなかった。ただ、昨日の酒と疲労が、頭蓋の内側に少しだけ残っている。
生きて戻った翌日の顔だ。
たいして上等ではない。
エルディアスは濡れた手で髪を押さえ、服を着替えた。それから、ギルドへ向かった。
冒険者ギルドは、昨日と同じように騒がしかった。王墓脇ダンジョン関連の板の前には、さらに人が増えている。誰かが昨日の撤退戦の話をしていた。話の中で、兎型魔獣は牡牛ほどの大きさになり、参加したパーティは全滅していた。
噂は育つ。
餌がなくても育つ。
ミュリカは受付にいた。
「起きられましたか」
「見ての通りだ」
「港焼けを四杯飲んだと聞きました」
「誰からだ」
「酒場の給仕です」
「ギルドは酒場まで帳簿をつけてるのか」
「冒険者が倒れた場所は把握します」
「倒れてはいない」
「記録上は、そうしておきます」
ミュリカは引き出しから小袋を出した。
「昨夜の聞き取り依頼ですが、依頼料の上乗せがありました。内容が想定以上だったとのことです」
「何を話したか、全部は覚えてない」
「満足はされたようです。求めていた話が聞けたとのことで、依頼票は今朝下げられました」
「もう終わりか」
「そのまま別の街へ向かわれたそうです。旅をしながら執筆をされているとか」
「変わった小説家だな」
小袋が差し出される。受け取ると、思ったより重かった。
昨日の依頼書に書かれていた報酬は金貨一枚。追加分を合わせれば、三枚ほどにはなるだろう。聞き取りの報酬としては払いすぎだ。
小説家というものは、金の使いどころが妙な生き物なのかもしれない。
エルディアスは小袋を懐にしまった。
臨時収入。
それも、予定より多い。
なら、先延ばしにしていたことを片づけられる。
「防具屋へ行ってくる」
ミュリカの目が、少しだけ細くなった。
「王墓脇へ、また入るつもりですか」
「籠手の留め具が緩い。胸当ても縫い直したい」
「質問への答えになっていません」
「買い物の理由にはなってる」
ミュリカはしばらくエルディアスを見た。受付の目だった。戻った者の名と、戻らなかった者の名を、帳簿で見ている者の目だ。
「臨時収入が入ると、冒険者はだいたい武器か酒に使います」
「今回は防具だ。健全だろ」
「健全な人は、港焼けを四杯飲みません」
「昨日の俺に言ってくれ」
ミュリカは小さく息を吐いた。
「《錆びない鹿》なら、午前の納品が終わっている頃です。今なら店主もいると思います」
「助かる」
「無茶はしないでください」
「買い物だ」
「買い物の後の話です」
エルディアスは返事をせず、片手を上げた。
ギルドを出る。
セレイスの午後は、潮と鉄と香辛料の匂いがした。港へ近い通りでは、荷車が何度も行き違う。魚市場から離れるほど、焼いた麦粉の匂いや、革をなめす匂い、鍛冶屋の煤の匂いが強くなっていく。頭上では洗濯物がはためき、路地の奥からは子どもの笑い声が聞こえた。
すれ違う者はさまざまだった。煌びやかな旅装の女。背の低い荷運び。毛皮の外套を着た北方商人。肩に樽を担いだ若い船員。誰もが誰かを少しだけ見て、すぐに自分の用へ戻る。
セレイスでは、珍しいものは足を止める理由にはなっても、長く見続ける理由にはなりにくい。
防具屋《錆びない鹿》は、鍛冶通りから一本外れた場所にある。看板には、角の立派な鹿が描かれていた。なぜ鹿なのか、エルディアスは知らない。少なくとも、店主に似ているわけではない。
扉を開けると、革と油と金属の匂いがした。
店内には胸当て、籠手、膝当て、革鎧、短剣用の鞘、盾の縁金具などが所狭しと並んでいる。安物は少ない。高級店というほど洒落てもいない。だが、命を預けられないものは置いていない店だった。
ちょうど、先客が受け取りを終えたところだった。
女だった。
細身で、背は高い。旅装の上から薄い外套を羽織っている。髪は淡い金に近く、耳の先がすっと尖っていた。エルフだ、とすぐに分かる。
作業台の上には、青灰色のローブが広げられていた。女がそれを畳み、薄い布で包む。その一瞬だけ、銀の糸が光を拾った。飾り糸ではない。縫い目に沿って、細く、規則正しく走っている。
金のかかった品だ。
エルディアスはそう思った。
良い布を使えば、それだけで高くなる。だが、あれは布だけではない。畳まれる時の重さの逃げ方が、普通の旅装とは違っていた。身につける者の動きを殺さないよう、かなり丁寧に作られている。
女はローブを布で包み、大事そうに抱えた。ただし、人に見せびらかすようではなかった。
女はエルディアスの顔を一度見た。呪痕に気づいたのだろう。だが、露骨に目を逸らすでもなく、じろじろ見るでもなく、ただ一度見ただけで視線を戻した。
すれ違う瞬間、薄い森の匂いのようなものがした。
エルディアスが店に入ると、奥から店主の声がした。
「来たか。そろそろ来ると思ってた」
「何で分かる」
「お前の籠手を見れば分かる。あれはもう、道具じゃなくて根性で留まってる」
店主ザックは、分厚い腕をした男だった。背は高くないが、横に広い。髭は短く刈られ、髪には鉄粉が混じっている。人間だが、祖父のどこかにドワーフの血があるという噂があった。本人は否定も肯定もしない。ただ、酒に酔うと石の良し悪しについて異様に長く語る。
「まだ使える」
「使えるさ。穴の空いた鍋でも湯は沸く。だが、いざという時に湯をこぼす。防具も同じだ。普段使えてるから大丈夫だと思ってる奴ほど、肝心な時に留め具が飛ぶ」
「防具屋らしい脅しだな」
「脅しじゃねえ。何度も見た話だ」
ザックは作業台の上を空けた。
「で、今日は何を直す」
「籠手を見たい。胸当ても縫い直したい」
「胸当てを出せ」
エルディアスは外套の下から、使い込んだ胸当てを外した。
ザックは受け取ると、革の端を指で押し、留め具を鳴らし、内側の縫い目を確かめた。眉間にしわを寄せるが、怒っているわけではない。道具を見る時の顔だった。
「革はまだ生きてる。こいつは悪くない。使い手が雑なわりには、よく持ってる」
「雑ではない」
「雑だ。血を吸わせた跡がある。手入れはしてるが、遅い。革はな、一度悪くすると完全には戻らねえ。人間の傷と同じで、塞がっても跡は残る」
「昔のだ」
「昔でも血は血だ。昔の怪我が今さら痛むこともあるだろう」
ザックは胸当てを作業台に置き、奥の棚から籠手を二組出した。
片方は安い。もう片方は、見ただけで高い。革の継ぎ目が少ない。手首の可動を殺さず、甲には薄い金属板が仕込まれている。指を握れば、剣も杖も邪魔しないだろう。
「安い方でいい」
「駄目だ」
「まだ値段も聞いてない」
「値段を聞く前に安い方へ目が行った。そういう客には、先に駄目だと言うことにしてる」
「商売にならないだろ」
「商売だけなら安い方を売る。だが、お前はどうせまた面倒な場所へ行く。安い籠手を売って、次に指が二本減った客を見るのは、こっちの気分が悪い」
ザックは高い方の籠手を作業台に置いた。
「こっちにしろ。手首の逃げがいい。指も殺さない。お前みたいに杖も短剣も使う奴には、こういう半端に融通が利くものが要る」
「いくらだ」
「金貨二枚と銀貨五十」
エルディアスは少し黙った。
高い。だが、高すぎるわけではない。
手首を動かす。指を握る。開く。革の硬さは残っているが、馴染ませれば悪くない。留め具の位置も、袖に干渉しにくい。
「左だけなら」
「両方だ」
「左だけ傷んでる」
「片方だけ替えると動きがずれる。本人は気づかない。だが、体は勝手に合わせようとする。右を庇い、左を庇い、最後に足が遅れる。そういう小さいずれで、人は転ぶ。魔獣の前で転んだら、値切った銀貨の分だけ寿命が短くなる」
「よく喋るな」
「喋らないと、お前は安い方を買うだろうが」
エルディアスは返事をしなかった。
ザックは胸当てを指で叩いた。
「胸当ては、留め具を替える。内張りも替える。縫い直しもいる。革を丸ごと替えるほどじゃねえから、そこは運がいい」
「合わせると」
「金貨三枚」
「銀貨は」
「まけてやる」
エルディアスはザックを見た。
「珍しいな」
「昨日、何人か戻った」
ザックはそれだけ言った。
それが理由なのだろう。
エルディアスは籠手をもう一度見た。
金貨三枚。
昨日の依頼と、今日の追加分で、ほとんど消える。だが、どうせ消える金なら、酒に消えるよりはましだった。
「頼む」
「最初からそう言え。防具ってのはな、買った時に命を守るんじゃねえ。手入れして、直して、体に合わせて、ようやく少しだけ死ににくくなる。その少しを惜しむ奴から順に、ダンジョンに置いていかれる」
ザックは胸当てと籠手を作業台の奥へ寄せた。
「さっきの客のローブ、見てただろ」
「見えただけだ」
「目は止まってた」
「いい品だったからな」
エルディアスは、作業台の上に広げられていた青灰色の布を思い出した。銀の糸。細い縫い目。畳まれる時の、重さの逃げ方。ただの外套ではない。あれは、着る者の動きを殺さないように作られていた。
「白金貨五枚は下らねえ」
「だろうな」
ザックは片眉を上げた。
「驚かねえのか」
「布だけの値じゃない。糸も、縫いも、調整もある。あれは服じゃなくて、動くための道具だ」
「分かってるなら、自分の籠手で安い方を見るな」
「話を戻したな」
「戻してねえ。ずっと同じ話だ」
ザックは採寸用の紐を取り出した。
「高い道具に金をかける奴が、みんな見栄でやってると思うな。見栄の奴もいるが、そういう奴は最初に汚すのを嫌がる。さっきの客は違う。あれは使うために金をかけてる」
エルディアスは、女がローブを大事そうに包んでいた姿を思い出した。見せびらかすようではなかった。あれは、しまい込むための品ではない。
生きて、やることがある者の道具だ。
「腕を出せ」
エルディアスは左腕を出した。袖を少しめくると、浅黒い呪痕が手首の方まで続いているのが見えた。
ザックは一瞬だけそれを見た。何も言わず、手首の太さを測る。
「少し痩せたか」
「そうか」
「そうかじゃねえ。防具は肉の代わりにはならん。痩せれば隙間ができる。隙間ができれば、そこに牙が入る。いいものを着けても、体の方が合ってなけりゃ意味がねえ」
「防具屋が飯の心配までするのか」
「するさ。腹の減った奴は判断が遅い。寝てない奴は足がもつれる。防具屋に来る連中は、革と鉄だけで死ななくなると思ってるが、実際はその前の話の方が多い」
ザックは右腕も測った。
それから、籠手の留め具を一つ外し、位置を調整し始める。
「王墓脇にまた入るのか」
「買い物に来ただけだ」
「俺は防具屋だ。客がどこで壊してくるかくらいは気にする。防具だけ戻ってきても困るからな」
「まだ決めてない」
「なら、決める前に言っておく」
ザックは留め具を締め、革の端を押さえた。
「あそこは、王立迷宮査察隊が戻された場所だ。昨日も怪我人が出た。その怪我人を戻したのがお前だってことも、知ってる」
エルディアスは返事をしなかった。ザックは作業の手を止めない。
「戻せるやつほど、自分が戻るのを後回しにする。自分だけは大丈夫だと思ってるわけじゃない。大丈夫じゃないと分かっていても、後ろにいる奴を先に押し出す。そういう奴は、防具屋から見ると一番始末が悪い」
「俺は後回しにしない」
「なら、半身にそんなものを残してねえだろうが」
店の中が、少し静かになった。
通りの向こうで、金槌の音がした。火床に風を送るふいごの音も聞こえる。店内の革の匂いが、急に濃くなったように感じた。
ザックは言い過ぎたと思ったのだろう。顔をしかめ、籠手から目を離さないまま言った。
「……預かる。胸当ては夕方までには縫い直す。籠手は今合わせる」
「助かる」
「助けてるつもりはねえ。仕事だ。だがな、仕事でやる以上は、戻ってくる前提で作る。死ぬ前提の道具なんざ、俺は作らん」
「なら、いい仕事を頼む」
「毎回そうしてる」
ザックは手際よく留め具を調整した。革を湿らせ、曲げ、金具の位置を微かにずらす。ほんの少しの差で、手首の動きは変わる。こういう作業は、鍛冶屋よりも医者に近いとエルディアスは思うことがある。
壊れてから直すのでは遅い。
壊れる前に、壊れ方を見ておく。
それは人間も道具も同じだった。
やがて、ザックは籠手を差し出した。
「着けてみろ」
エルディアスは両腕に籠手を着けた。革はまだ硬い。だが、指を曲げると自然に逃げる。杖を握る動きも、短剣を抜く動きも邪魔しない。左の留め具が、呪痕の上を強く押さえすぎない位置にある。
「どうだ」
「悪くない」
「悪くないじゃねえ」
「いい」
「最初からそう言え」
ザックはようやく少しだけ満足そうにした。
エルディアスは金を払った。
金貨三枚。
懐は軽くなった。
だが、手首は軽くなった。
店を出る頃には、通りに午後の光が斜めに差していた。
胸当ては夕方まで預けることになった。籠手だけが新しい。まだ自分のものではないような硬さがある。使い込めば馴染む。馴染むまで生きていれば、の話だ。
さっきすれ違ったエルフの女の姿はもうない。人の流れの中に消えたのだろう。
エルディアスは何となく、彼女が抱えていた青灰色のローブを思い出した。
白金貨五枚。
馬鹿げた値段だ。
けれど、馬鹿げた値段の道具を買う者には、馬鹿げた理由があるのかもしれない。自分の金貨三枚にも、たぶん、似たような理由がある。
王墓の方角へ、海風が抜けた。
丘陵の上には、まだ黒い入口がある。白い石碑は、まだ何も語っていない。
エルディアスは新しい籠手の留め具を一度だけ確かめ、宿へ向かって歩き出した。
明日も、セレイスは動く。
港は鳴り、ギルドは開き、誰かが依頼票の前に立つ。
そしてたぶん、誰かがまた、あの黒い入口へ入る。




