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第3話 依頼

 夕の鐘が鳴る少し前、エルディアスは溺鯨亭の前に立っていた。


 港湾区の端にある酒場で、扉の隙間からは酒と焼き魚の匂いが漏れている。中では早くも酔った声が上がり、誰かが卓を叩いて笑っていた。港の酒場に、夜を待つという感覚はあまりない。船を降りた者は昼から飲むし、夜明け前に出る者は夕方に飲む。


 エルディアスは扉を押した。


 熱気と匂いが一度に押し寄せる。天井の低い店内には、黒ずんだ梁と古い銛、割れた櫂、煙にくすんだ鯨の絵があった。給仕が皿を抱えて卓の間を抜け、奥では船乗りらしい男たちが賭けの言い訳で揉めている。


 エルディアスが給仕に依頼票の控えを見せると、給仕はちらりと目を通し、奥の壁際を指した。


 そこに、男が一人座っていた。


 年は四十代後半から五十前後。旅装ではあるが、冒険者のものではない。上着は上等だが派手ではなく、袖口には薄いインクの染みがある。卓の上には革表紙の手帳、羽根ペン、小さなインク壺。皿の焼き魚には、まだ手がつけられていなかった。


 男はエルディアスを見ると、立ち上がらずに軽く頭を下げた。


「エルディアス・ロウ・グレイヴェル殿、でよろしいですか」


「そうだ」


「依頼主のオルフェン・キースと申します」


「物書きか」


 オルフェンは少しだけ目を丸くし、それから楽しそうに笑った。


「はい。小説家です。ギルドから聞きましたか」


「いや。手を見ればだいたい分かる」


 エルディアスは椅子を引いて座った。


「冒険者でも商人でもない。学者にしては荷物が少ない。役人にしては座り方が柔らかい。あと、指に剣だこがない」


「なるほど。隠せませんね」


「隠す気もなかっただろう」


「ええ。職業を隠して話を聞くのは、少し趣味が悪いですから」


「依頼票には書いてなかった」


「そこは、少しだけ趣味が悪かったかもしれません」


「小説家は信用できないな」


「よく言われます」


 悪びれない笑顔だった。


 エルディアスは給仕を呼ぼうとして、先にオルフェンが手を上げた。


「今夜の酒と食事は私が持ちます。依頼料とは別で」


「本当か」


「ええ」


「高いものを頼むぞ」


「構いません」


「後悔する」


「小説家は後悔を食べて生きています」


「腹に溜まらなそうだな」


「ですから、せめて魚は腹に入れます」


 エルディアスは給仕を呼び、焼き魚と煮込み、黒パン、それから上等な麦酒の港焼けを頼んだ。


 オルフェンは手帳を開いた。


「まず確認を。私は英雄譚を集めているわけではありません」


「依頼票にも書いてあったな。敗走、撤退、見落とされた判断、語られなかった結末」


「ええ。勝った話は、誰かが残します。ですが、逃げた話は残りにくい」


「悪趣味だ」


「少しだけ」


「少しで済むか」


「小説家としては控えめな方です」


 港焼けが運ばれてきた。エルディアスは一口飲み、喉を通るのを待ってから言った。


「今日、王墓脇ダンジョンから戻った」


 オルフェンの羽根ペンが止まった。


「今日、ですか」


「ああ」


「王立迷宮査察隊が戻された、あの」


「そうだ」


「それはまた、最初から濃い話ですね」


「一匹目で撤退しただけだ」


「ほう、一匹目で…」


 オルフェンは急かさなかった。


 問いを置き、相槌を打ち、酒が減れば次を頼んだ。エルディアスが短く答えても、すぐ別の角度から聞いた。話を奪わず、だが逃がしもしない。


 王墓脇ダンジョンでの撤退の話に始まり、話は少しずつ昔へずれた。


 六属性を扱えるというだけで、昔は神童と呼ばれたこと。


 しかし、内に抱えられるオドが人並みで、魔法は低級と中級止まり。英雄には程遠い冒険者になったこと。


「六属性を扱えるのに、ですか」


「扱えるのと、強いのは違う」


「なるほど」


「火も水も風も土も光も闇も、低級と中級までなら使える。便利ではある。濡れた床を乾かす。煙を流す。足場を固める。傷を浅く塞ぐ。魔獣の気配をごまかす」


「十分、有用に聞こえます」


「有用と英雄は違う」


 オルフェンの羽根ペンが動いた。


「今のは書くな」


「よい言葉でしたので」


「だから書くな」


「善処します」


「信用できない返事だ」


「小説家ですので」


 話はさらに深くなった。左半身に残る浅黒い痕のことへ、オルフェンが触れたのは夜も進んでからだった。


「その痕は、魔獣の傷ではありませんね」


 声は何気なかった。だが、問いは何気なくなかった。


 エルディアスは杯を置いた。


「人払いのダンジョンで受けた」


 その瞬間、オルフェンの目が少しだけ変わったようにみえた。


 表情は大きく動いていない。けれど、奥に灯が入ったようだった。獲物を見つけた商人ではなく、忘れられた本の一行を見つけた学者に近い目だった。


「人払いのダンジョン」


「知ってるのか」


「名だけは」


「珍しいな」


「珍しい話を集めるのが仕事ですので」


「便利な仕事だ」


「ええ。知らなくていいことまで知れます」


 オルフェンはそう言いながらも、羽根ペンを構えなかった。その点だけは、少し意外だった。


「聞きたいか」


「もちろん」


「本には書くな」


 オルフェンはすぐに羽根ペンを置いた。


「では、ここからは記録しません」


「聞くのは聞くのか」


「聞くために来ましたから」


「正直だな」


「小説家ですので」


 細かなところまでは話さなかった。それでも、左半身に残る浅黒い痕が、人払いのダンジョンで受けた呪いであること。治癒師にも神殿にも消せなかったこと。その程度は話した。


 消す方法を探すのは、とうにやめていた。


 オルフェンは、そこから先を無理に聞き出そうとはしなかった。ただ聞いた。相槌を打ち、黙るところでは黙り、酒が空けば次を頼んだ。


 そうして夜は深くなり、卓の皿は空になり、麦酒の杯は増えた。


 その夜の依頼が終わったのは、明けの鐘が鳴る少し前だった。


 エルディアスがオルフェン・キースと溺鯨亭を出ると、空はまだ暗かった。


 港の方から湿った風が吹いてくる。酒と焼き魚の匂いに慣れた鼻には、夜明け前の潮の匂いが少し冷たかった。


 エルディアスは店先で足を止め、肩を軽く回した。椅子に座り続けたせいで、背中が少し固い。


「長く引き止めました」


 隣で、オルフェンが言った。店の中ではあれほど動いていた羽根ペンも、夜通しの話を書き留めた手帳も、今はオルフェンの懐に収まっている。


「飯と酒はそっち持ちだ。文句は言わない」


「では、よい取引だったということで」


「俺を美男に書くならな」


「そこだけは約束しかねます」


「ひどい小説家だ」


「正直な小説家です」


 オルフェンは小さく笑い、懐から小袋を出した。


「追加分です。あとギルドにも、依頼料を上乗せするよう伝えておきます」


「白金貨で頼む」


「小説家に酷なことを言う」


「人の失敗談で飯を食うんだろ」


「ええ。ですから、せめて支払いは誠実に」


 エルディアスは小袋を受け取った。


 重みは悪くない。


 オルフェンは港の方を一度見た。夜に強く、朝には少し弱そうな顔だった。


「また、お話を聞かせてください」


「高くつくぞ」


「承知しています」


「あと、俺を主役にするな」


「それは難しいですね」


「なぜ」


「戻る者の話は、たいてい主役に向いています」


 エルディアスは顔をしかめた。


「やっぱり小説家は信用できない」


 オルフェンは楽しそうに笑い、二人はそこで別れた。


 オルフェンは港の灯りが残る方へ歩き、エルディアスは宿へ向かった。


 東の空が、わずかに白み始めている。


 背中に朝風を受けながら、エルディアスは左半身の痕が少し熱を持っていることに気づいた。


 酒のせいか。


 それとも、王墓脇ダンジョンのせいか。


 どちらにせよ、眠れば少しはましになる。


 そう思うことにして、エルディアスは欠伸を噛み殺した。

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