第9話 信託
音は小さかった。
硝子の鈴を割ったような、軽い音だった。
その直後、階層主の巨体が内側から白く燃え上がった。黒い樹皮の隙間から細い火が噴き出し、振り上げられていた枝腕が硬直する。床を覆っていた根は一斉に力を失い、裂けた幹の口から黒い樹液が逆流した。
三つの赤黒い穴が、一つずつ消える。一つ。二つ。三つ。
巨体は木片ではなく、黒い灰となって崩れていった。
リュシアが剣を引き抜く。エルディアスが黒い糸を通じてオドを引くのを止めると、刃の内側に宿っていた白い火が音もなく消えた。
剣は折れていない。ただし、細身の刃全体に細かなひびが走っている。もう一度同じ火を通せば、今度こそ折れるだろう。
リュシアは剣を見下ろした。
「……剣が」
「折れてはいない」
「ひびだらけです」
「俺たちも似たようなものだ」
「一緒にしないでください」
「まだ立ってる」
「あなたは今にも倒れそうです」
力が尽きたわけではない。糸の向こうには、まだ底の見えないオドがある。だが、流れ込む力を属性へ変え、複数の術式を同時に制御し続けた負荷が、術式を解いた途端に一気に表へ出た。
リュシアが言い終わるより先に、エルディアスの身体が傾いた。彼女は反射的に腕を伸ばし、その肩を掴む。エルディアスも床へ手をつき、どうにか倒れるのを堪えた。左半身の呪痕が皮膚の奥で脈打ち、視界の端が暗くなる。
「倒れてない」
「倒れかけました」
「同じじゃない」
「同じです。説明してもらいます」
エルディアスは言い返さなかった。
「すべて、あなたのせいです」
リュシアも限界に近かった。肩で息をし、足が震えている。それでも、ひびの入った剣を杖代わりにして立っている。
グレンが動かなくなった根の上へ座り込んだ。砕けた大盾を手放すと、力の抜けた腕がそのまま膝へ落ちる。
「……終わったのか」
ネラは壁際へ背を預け、呆然と階層主がいた場所を見つめていた。ディナはフィルの首筋へ指を当て、続いて胸の動きを確かめる。
「生きてる。全員、生きてるわ」
「そうか」
グレンが短く笑った。
だが、部屋の異変は終わっていなかった。
床に積もった黒い灰が、円形模様の溝へ吸い込まれていく。風もないのに灰は細い筋となって流れ、石床の中央へ集まった。やがて黒は消え、代わりに石の奥から滲み出すような淡い金色の光へ変わる。
部屋の奥の壁が、音もなく左右へ割れた。その向こうに、縦長の白い光が現れる。光の奥には何も見えず、表面だけが水面のようにわずかに揺れていた。
「転送門……?」
ネラが呟く。
誰もすぐには動かなかった。戻れる保証はない。入口へ通じているとも、次の階層へ送られるとも限らない。それでも、この部屋にはほかの出口がなかった。
リュシアが仲間たちを見回す。グレン、ネラ、ディナ、そして床へ伏したフィル。誰も無傷ではないが、全員が生きている。
彼女の肩から、わずかに力が抜けた。
その瞬間、リュシアの身体がびくりと震えた。
「リュシア?」
グレンが呼びかけたが、返事はない。
彼女は剣を握ったまま、部屋の中央を見ていた。いや、目は開いているが、そこにあるものを見てはいない。床の円形模様から白い光が立ち上がり、細い帯となってリュシアの足元へ集まっている。光は身体を這い上がり、やがて彼女の瞳を白く染めた。
黒い糸が冷たく震える。
――リュシア。
念話を投げたが、返事はなかった。
呪いに、まだ知らない作用があったのか。
エルディアスは床へ手をつき、無理やり身体を起こした。足に力は入らなかったが、黒い糸をたどるようにリュシアへ近づいていく。
「おい。聞こえてるか」
「信託……」
床に伏していたフィルが、掠れた声を漏らした。
エルディアスは足を止める。
「何だって?」
「階層主を倒した者には、信託が下ると……記録で読みました」
グレンは白い光に包まれたリュシアを見る。
「止めなくていいのか」
「止められません。正しく宣言するまで、信託は終わらないはずです」
「間違えたら」
「石碑には刻まれません。正しく宣言できるまで、あの状態が続くと……」
「趣味が悪いな」
「ダンジョンですから」
その言葉で、エルディアスも思い出した。階層主を倒した者は信託を受け、その内容を宣言する。呪いの副作用ではない。
リュシアの唇は動いていない。それでも、何かが彼女へ降り続けている。白く染まった瞳がわずかに揺れ、眉間に浅い皺が寄る。聞こえているのか、理解しているのか、それとも別の何かを見せられているのか。エルディアスには分からなかった。
黒い糸を通じても、言葉は届かない。ただ、彼女の意識が強い力に捉えられていることだけが伝わってくる。
「大丈夫だ。聞こえたとおりに言え」
落ち着かせるように声をかける。
わずかに間を置いて、リュシアの唇が開いた。
「勇者が、魔王を倒す」
リュシア自身の声だった。だが、疲労も怒りも薄れ、遠い場所から響いてくるような声だった。
魔王。
その一語だけで、部屋の空気が冷えたように感じられた。グレンが息を呑み、ネラの顔から血の気が引く。ディナも言葉を失い、フィルは床に伏したまま目を見開いていた。
一文目を告げ終えても、リュシアの瞳から白い光は消えなかった。唇がわずかに開くが、次の言葉はすぐには出てこない。白く染まった瞳の奥に動揺が走り、喉が小さく動いた。
エルディアスには、何を告げられているのか分からない。それでも、リュシアが内容を理解した上で、口にすることをためらっているのは分かった。
彼は残った距離を詰め、リュシアの正面へ立った。震える両肩を軽く支え、白く染まった瞳と面と向かう。一語ずつ届かせるように、ゆっくりと声をかけた。
「リュシア。信託の内容を、正しく言えばいいんだ」
リュシアの唇が震えた。
「……リュシア・フェル・ノルディアが……」
自分の名を告げたところで、再び声が途切れる。眉がわずかに寄り、震える息が漏れた。それでも彼女を包む白い光は消えない。
「……勇者を、選ぶ」
誰もすぐには声を出せなかった。グレンは目を見開いたままリュシアを見つめ、ネラは何かを言おうとして唇を開いたまま止まっている。ディナもフィルも、宣言の意味を測りかねたように動かなかった。
だが、信託はまだ終わっていなかった。
リュシアの唇がもう一度開く。今度は逡巡もなく、三つ目の宣言が静かに落ちた。
「三王、勝者の歴史のみが続く」
最後の言葉が響くと、彼女を包んでいた光が大きく揺らいだ。白く染まっていた瞳に色が戻り、身体から力が抜ける。
崩れかけたリュシアを、正面にいたエルディアスがそのまま支えた。だが、彼自身の足にも力は残っていない。二人まとめて倒れかけ、互いへ体重を預けるように踏みとどまった。
「……触らないでください」
「倒れるぞ」
「倒れません」
「今、倒れかけた」
「あなたもです」
「俺はまだ立ってる」
「支えているのは、私ですか。あなたですか」
二人とも、しばらく動けなかった。
「説明してもらいます」
「負傷者が先だ」
リュシアは一瞬だけ黙った。
「……正しいことを言わないでください」
「悪かったな」
「悪いと思っていませんね」
「それも後だ」
「逃げませんよね」
「生きてたら聞けと言っただろ」
「聞くだけではありません。全部、説明してもらいます」
「分かった」
リュシアはその返事を聞いても、表情を緩めなかった。
エルディアスは少し間を置き、何かを思い出したように口を開く。
「そういえば、まだ名乗ってなかったな」
「今、気づいたのですか」
「エルディアス・ロウ・グレイヴェルだ」
「……リュシア・フェル・ノルディアです」
「それは知ってる」
「あなたが無理やり聞き出したのでしょう」
「必要だった」
「その説明も、後で全部してもらいます」
「ああ」
グレンとディナが砕けた大盾を石床へ横たえ、二人でフィルの身体を持ち上げる。盾の残った面へ慎重に移す間に、ネラも拾った弓を杖代わりにして立ち上がった。
「転送門は使えると思うか」
グレンが尋ねる。
「使うしかない」
「向こうが入口とは限らないぞ」
「分かってる。だが、この部屋に出口はほかにない」
グレンは白い光を睨み、嫌そうに顔を歪めた。それでも反論はしなかった。
「改めて、エルディアス・ロウ・グレイヴェルだ」
エルディアスはグレンへ手を差し出した。グレンはその手を掴み、砕けた大盾を支えにして立ち上がる。
「俺はグレン。壁際にいるのがネラ、火を使ってたのがディナ。盾に乗せてるのがフィルだ。助かった。あんたが来なければ、全員あそこで死んでた」
「倒したのはリュシアだ」
「そのリュシアを動けるようにしたのは、あんただろ」
「勝手にいろいろされたけどね」
ディナがフィルを支えながら口を挟んだ。
「その話は、まず私が聞きます」
リュシアが即座に言った。
グレンは彼女の顔を見てから、エルディアスへ視線を移した。
「俺たちにも関係がある話か?」
「今のところは、ありません」
「だそうだ」
「他人事のように言わないでください」
エルディアスは答えず、転送門へ目を向けた。
「話は外へ出てからだ。今はフィルを運ぶぞ」
一人ずつ、転送門へ入る。
白い光が身体を包み、輪郭が揺らいで消えていく。リュシアが門の向こうへ消えても、左手薬指から伸びる黒い糸は途切れなかった。白い光の奥へ真っ直ぐ伸び、見えない場所にいる彼女とエルディアスを結び続けている。
フィルを乗せた盾も、グレンとディナに運ばれて光の中へ消えた。ネラが続き、最後にエルディアスだけが残る。
彼は部屋を振り返った。階層主はいない。床を埋めていた根も、崩れ落ちた灰も残っていない。円形模様だけが、何事もなかったように石床へ刻まれている。
「行くか」
誰に言うでもなく呟き、エルディアスは白い光へ踏み込んだ。
◇
その少し前、王墓脇ダンジョンの入口前では、ギルド職員と冒険者たちが松明を囲んで待機していた。
探索に入った者たちが戻らなくなってから、すでに長い時間が経っている。黒い入口を見張る者、王墓へ近づく者がいないか巡回する者、担架と治療道具を何度も確かめる者。誰も口にはしなかったが、今夜中の帰還を諦めかけている者もいた。
入口脇の白い石碑は、何も刻まれないまま沈黙している。
その表面に、突然、一文字が現れた。
「石碑が!」
見張りに立っていた冒険者が声を上げる。
白い石の表面を、見えない刃がなぞっていた。音はなく、石の粉も落ちない。それでも文字だけが、一画ずつ確実に刻まれていく。
勇者が魔王を倒す。
最後の一画が刻まれ、「魔王」の二文字が完成した。
見張りの一人が反射的に後ずさり、別の冒険者が武器へ手をかける。ギルド職員が制止の声を上げたが、その場にいた誰も石碑から目を離せなかった。
白い石の内側へ、墨を落としたような黒が滲み始める。上からでも、下からでもない。石そのものが黒い血を吸い上げるように、白が急速に失われていった。表面だけではない。奥に残っていた白さまで塗り潰され、石碑全体が夜よりも深い黒へ変わっていく。
「何が起きてる……」
誰かが呟いた。
答えられる者はいない。
黒く染まりきった石碑の表面へ、二つ目の文が刻まれ始める。
リュシア・フェル・ノルディアが勇者を選ぶ。
「人の名前か?」
「記録しろ! 一字も間違えるな!」
ギルド職員が叫び、別の職員が震える手で帳面を開いた。
二つ目の文が完成しても、異変は終わらなかった。その下へ、さらに文字が現れる。
三王、勝者の歴史のみが続く。
三つ目の文が刻まれ終わると、石碑は再び沈黙した。
そこに立っていた者たちは理解していた。
第一層の階層主が倒された。
そして、何も刻まれていなかった白い石碑は、もうどこにもなかった。




