第10話 帰還
白い光が薄れると同時に、冷たい夜気が肌へ触れた。
焼けた木と血の臭いが遠のき、代わりに松明の油と湿った土の臭いが鼻へ入る。風が王墓の木々を揺らし、葉の擦れる音が耳へ戻ってきた。
転移は一瞬だった。
転送門の行き先は、王墓脇ダンジョンの入口前だった。
エルディアスは視界が定まるより先に、足元へ目を向けた。砕けた大盾の上に、フィルが横たわっている。脇腹の裂け目は光の治癒で塞いであるが、全身を打ちつけられた痛みと、治癒術を使い続けた消耗までは消えていない。顔色は悪く、呼吸も浅い。それでも胸は規則的に上下していた。
「フィル、聞こえるか」
「……はい」
返事はかすれていたが、意識はある。
その近くで、グレンは傷めた膝を庇いながら立っていた。ネラは片脚を引きずり、ディナは動かない左腕を胸元へ抱えている。
リュシアだけが、一歩も動かなかった。
彼女の視線を追い、エルディアスも顔を上げる。
黒い石碑が立っていた。
ダンジョンの黒い入口、その脇。何も刻まれていなかったはずの白い石は、夜の底をそのまま切り出したような黒へ変わっている。松明の光をほとんど返さない表面、その上部に三つの文章が鈍く白く浮かんでいた。
勇者が魔王を倒す。
リュシア・フェル・ノルディアが勇者を選ぶ。
三王、勝者の歴史のみが続く。
三文はいずれも石碑の上寄りに並び、その下には何も刻まれていない黒い面が大きく残されていた。最初から、続きを書き加えるために空けてあるようにも見える。
エルディアスは、その余白に違和感を覚えたが今は確かめようがない。
封鎖線の内側には、ギルド職員と待機していた冒険者たちが集まっている。誰もすぐには帰還者へ駆け寄らなかった。黒い入口から現れた一行と、石碑に刻まれた名を見比べ、息を呑んでいる。
その視線の先にいるのが自分だと気づいたのだろう。リュシアの右手が、破れたローブの胸元を握った。
「……私の名です」
「ああ」
リュシアは石碑に刻まれた三文を、上から順に見つめた。
「あの時のあなたの声、覚えています」
「意識はあったのか」
「ありました。しっかり聞こえていました。まるであなたと話しているような感覚でした」
「そうか」
リュシアは石碑へ視線を戻した。
「……あれが、私の告げた言葉なのですね」
リュシアがぽつりと漏らしたのを境に、止まっていた周囲のざわめきが戻ってきた。
「リュシアって、あのエルフか?」
「第一層を倒したのか?」
「勇者って、どういう意味だ」
「魔王だぞ。王都へ知らせる話じゃないのか」
「三王って何だよ」
声は増えていく。それでも、誰も最初の一歩を踏み出さない。石碑の文字へ気を取られ、負傷者が目に入っていなかった。
エルディアスは舌打ちした。
「石碑は逃げない。怪我人が先だ」
若いギルド職員が肩を跳ねさせる。ようやく大盾の上に横たわるフィルの姿が目に入ったらしく、腰の笛を掴んで強く吹いた。
鋭い音が夜気を裂く。
「帰還者あり! 担架を! 治癒師にも連絡を! 重傷者がいます!」
その声を合図に、止まっていた者たちが動き始めた。封鎖線の脇に用意されていた担架が運ばれ、別の職員が王墓から街へ続く道を駆け下りていく。
エルディアスは大盾の横へ膝をついた。
「フィルを先に運ぶ。意識はある。脇腹の傷は閉じてるが、背中と脇腹を強く打ってる。治癒術は使わせるな。持ち上げる時は首と腰を支えろ」
職員と冒険者が頷き、慎重にフィルの身体を大盾から担架へ移す。身体が持ち上がった時、フィルが小さく息を漏らした。
「痛むか」
「かなり……」
「そのまま休め」
ディナが左腕を抱えたまま、担架の横へ付いた。
「私も行きます。倒れる前の状態を説明できます」
グレンも後を追おうとしたが、二歩目で負傷した膝が揺れた。
「座れ」
「フィルが」
「意識はある。呼吸も安定してる。お前が隣で倒れても治りは早くならない」
なおも立とうとするグレンの前へ、ネラが砕けた大盾を足で滑らせた。
「今のあなた、盾役じゃなくて荷物よ」
グレンは歯を食いしばったが、反論せず大盾へ腰を下ろした。
職員たちは次の担架と、肩を貸せる者を呼び集める。ネラの脚、ディナの腕、グレンの膝。処置の順番を伝えている間も、リュシアは黒い石碑から目を離せずにいた。
「ラグスたちは」
エルディアスが近くの職員へ尋ねると、職員はすぐに頷いた。
「ラグスさんたち五人は、全員先に戻っています。エルディアスさんが消えた場所を調べたそうですが、追う方法は見つからなかったと。ニルさんが罠の位置を記録し、ラグスさんの判断で撤退しています。重傷者はいません」
「……そうか」
エルディアスは息を吐いた。そこで初めて、胸の奥に残っていた重みが一つ消えた。
彼は改めてリュシアの左手を見る。
薬指から伸びた黒い糸が、自分の左手へ繋がっている。二人以外の誰にも見えない糸は、戦闘中ほど張り詰めては見えなかった。それでも消える気配はなく、夜風にも揺らされず、確かにそこにあった。
リュシアが左手を持ち上げる。袖の陰へ隠しても、黒い糸は当人の視界から消えなかった。
――これと、あの石碑は関係がありますか。
声が頭の内側へ届く。
――分からない。
――分からないものを、私に使ったのですね。
――その話は後だ。
リュシアの指が強く曲がった。
――また、後ですか。
――フィルが先だ。
リュシアは担架へ運ばれていく仲間を見た。反論できないことが、余計に腹立たしいのだろう。唇を引き結び、ようやく石碑から離れる。
――忘れないでください。
――忘れない。
――信用していません。
――正しい。
リュシアが鋭く振り返った。
「今の返事も腹が立ちます」
「声に出てるぞ」
「出しました」
近くにいたギルド職員が、不思議そうに二人を見る。エルディアスは何も説明せず、到着した荷馬車へ向かった。
封鎖地点には、負傷者の搬送に使うための屋根付き馬車が待機していた。フィルの担架が先に積まれ、ディナがその横へ乗る。グレンとネラも職員に支えられて続き、最後にリュシアが乗ろうとしたところで止められた。
「肩を見せてください」
「ギルドへ戻ってからで構いません」
「本人の申告は信用するな」
エルディアスが言うと、リュシアが振り返る。
「あなたが言いますか」
「俺は自分を信用しろとは言ってない」
「そういうところです」
肩口のローブが裂け、乾きかけた血が布へ広がっている。職員が傷へ布を当てて固定すると、リュシアは不満そうな顔をしたが、抵抗はしなかった。
最後にエルディアスが乗り込もうとすると、同じ職員が右手のひらへ目を留める。術式を長く維持し続けたせいで、皮膚には細かな裂傷が走っていた。
「あなたも怪我人ですよね」
「軽い」
「皆さん、そう言います」
「実際に軽い」
「判断するのはこちらです」
エルディアスは諦めて馬車の端へ腰を下ろした。
その途端、膝から力が抜けかけた。座った後だったため、誰にも気づかれずに済む。いくつもの術式を同時に回し続けた負荷が、戦闘を終えた今になって表へ出てきていた。
荷馬車が動き始める。車輪が古い道の凹凸を拾うたび、グレンとネラが顔を歪めた。フィルは目を閉じていたが、ディナが名を呼ぶと、わずかに指を動かす。
リュシアは向かい側に座っていた。
煤と泥に汚れた青灰色のローブは裾が焼け、銀糸が切れている。丁寧に整えられていた頃の面影は、ほとんど残っていなかった。
彼女は時折、左手を握った。袖の中へ隠しても、黒い糸は消えない。
エルディアスは視線を外した。
――見ないでください。
――もう見てない。
――見てから外しました。
――悪い。
――その謝罪も、後でまとめて聞きます。
――多いな。
――誰のせいだと思っているのですか。
答える必要はなかった。
馬車は夜の道をセレイスへ下っていった。
◇
ギルドの裏手へ回った馬車を、ミュリカが待っていた。
眼鏡の奥の目は落ち着いていたが、猫族の耳は普段より低く伏せられている。馬車が止まると同時に扉を開き、中を一度見渡した。
「フィルさんを先に。ディナさんは状態を説明しながら同行してください。グレンさんは膝を固定。ネラさんは脚に体重をかけないでください。リュシアさんは肩と火傷の確認を。エルさんも診察を受けてください」
「俺は最後でいい」
「順番は治癒師が決めます」
反論しても無駄だと判断し、エルディアスは口を閉じた。
医務室には、すでに街の治癒師が二人呼ばれていた。薬師とギルド職員も動き回り、湯と酒精、清潔な布が用意されている。普段は軽傷者の処置に使う部屋が、今夜は狭く感じられた。
フィルの服が切られ、傷と打撲の位置が確認される。ディナが階層主の根に叩きつけられた状況と、その後も治癒術を使い続けたことを説明した。
「脇腹の傷は塞がっています。呼びかけへの反応もあります。打撲と消耗が大きいので、今夜は起こさず休ませましょう」
治癒師の言葉に、ディナとグレンの肩からわずかに力が抜けた。
フィルは一度だけ薄く目を開けた。
「皆は……」
「全員いる。だから寝て」
ディナが答えると、フィルは小さく頷き、今度こそ眠りへ落ちていった。
グレンは膝を固定され、ネラは腫れた脚を診られ、ディナの左腕には添え木が当てられた。リュシアも医務室の端に座らされ、肩の傷を洗われている。処置を受けながらも、その視線は仲間たちの間を何度も往復していた。
全員、生きている。
明日になれば、別の痛みや問題が出てくるかもしれない。それでも今は、呼吸があり、声を掛ければ返事がある。
ミュリカは一通りの処置が始まったことを確かめてから、エルディアスの前へ立った。
「手を出してください」
両手を見せると、ミュリカは右手の裂傷を確認し、薬師へ処置を頼んだ。
「ラグスさんたちからの報告は受けています。エルさんが罠で消えた後、しばらく周囲を調べたものの、追跡も解除もできなかったそうです。二次被害を避けるため、罠の位置を記録して撤退したと」
「それでいい。追って来られても困った」
「ラグスさんも、同じ判断だったそうです」
ミュリカは薬師がエルディアスの右手へ薬を塗るのを見届けてから、手元の記録板を開いた。
「それと、今回の臨時調査依頼は、まだ完了扱いにしていません」
「ラグスたちの報告は終わってるんだろ」
「エルさんの分が残っています。ただし、罠による転移ですので、無断離脱にはなりません。金貨二十枚についても、減額せず満額で処理する予定です」
「予定?」
「ギルド長の確認と、エルさん本人の聞き取りが必要です。その後、経緯書も提出していただきます」
「聞き取りだけじゃ駄目なのか」
「口頭報告と経緯書は別です」
「同じことを書くんだろ」
「同じことを書いてください。違うことを書かれる方が困ります」
「面倒だな」
「金貨二十枚分の仕事です」
エルディアスは反論を諦めた。
「石碑の件ですが、封鎖地点にいた職員と冒険者が、黒化から三文の刻銘まで見ています。噂を止めることはできません」
「だろうな」
「王都への報告は準備だけ進めています。文面はギルド長が確認します。正式な聞き取りも、ギルド長が戻ってからです」
そこで、リュシアが治療を受けていた椅子から顔を上げた。
「エルディアス。話があります」
「分かってる」
「二人で、です」
グレンが眉を寄せたが、リュシアは先にミュリカへ向き直った。
「戦闘中に使われた術式について、本人へ確認したいことがあります。空いている部屋をお借りできますか」
ミュリカは二人を見比べ、医務室の奥にある小部屋を示した。薬品や記録板を保管するための部屋で、机と椅子が二脚置かれている。
「構いません。ただし、お二人とも治療の途中です。長くならないようにしてください」
「承知しました」
リュシアが立ち上がる。
「行きましょう」
逃がすつもりはないらしい。
エルディアスも腰を上げ、小部屋へ入った。




