第11話 契鎖
小部屋へ入ると、背後で扉が閉まった。壁一枚を隔てた医務室から、薬瓶の触れ合う音と、治癒師たちの低い声が聞こえてくる。
リュシアは椅子へ座らなかった。机を挟んだ向かい側に立ち、左手を持ち上げる。薬指に絡んだ黒い糸が、エルディアスの左手へ真っ直ぐ伸びていた。
「説明してください。最初からです」
エルディアスは椅子へ腰を下ろした。立ったまま話し続けられるほどの余力は残っていない。
「俺が使ったのは、呪いだ」
リュシアの表情が止まった。
「……呪い?」
「ああ。昔、ダンジョンから持ち帰った」
彼女の視線が、左手の薬指へ落ちる。
「では、この糸も、頭の中へ聞こえる声も」
「その呪いの効果だ」
「名はあるのですか」
「死別契鎖」
リュシアはしばらく黙っていた。
「死が、二人を分かつまで」
「そういう意味だ」
彼女は向かいの椅子を引き、ゆっくりと座った。
「続けてください」
エルディアスは、人払いのダンジョンについて話した。道を覚えても、目印を残しても、気づけば森の外へ戻されるダンジョン。その最深部にいたリッチ・クイーンと、彼女が遺した死別契鎖について。
呪いの発動には、二人目となる者のフルネームと誓いが必要だった。発動すれば、二人の左手薬指は、互いにしか見えない黒い糸で結ばれる。糸はどちらかが死ぬまで切れず、離れていても念話を交わせる一方、距離が開けば意図しない心の声まで漏れる。
結ばれた二人は、互いに本当のことしか言えなくなる。例外として許される嘘は、それぞれ一生に一度だけ。
さらに、発動した時点で相手へ抱いていた根底の感情が固定される。怒りや苛立ちまで失われるわけではない。好きな相手とも喧嘩はするが、結局は好きなまま。嫌いなら、何があっても根の部分では嫌いなまま。リッチ・クイーンは、そのように説明した。
死別契鎖を発動させ、最後には結ばれた一方が死ぬこと。それがリッチ・クイーンの無念を晴らし、ダンジョンを完全に踏破するための条件だった。
「……同行していた方々も、その効果を聞いたのですね」
「ああ」
同行者は四人で、二組の恋人同士だった。だが、呪いの効果を聞いた途端、四人とも対象になることを拒んだ。心の声を隠せず、嘘を封じられ、根底の感情を固定されたまま、死ぬまで相手と結ばれる。恋人同士であっても、容易に受け入れられるものではなかった。
「恋人同士だったのに、誰も?」
「知らん。浮気でもしてたんだろ」
リュシアは、しばらく瞬きもしなかった。
「今、拒む理由をあなた自身が一通り説明したところですが」
「俺には相手がいなかった」
「だから、問題ないと思ったのですか」
「二人目がいなければ発動しないからな」
同行者が全員拒んだため、エルディアスが最初の対象になった。二人目を指定しなければ呪いは発動せず、誰かが死ぬこともない。そう考えて、深刻に捉えないまま引き受けた。
当然、死別契鎖は発動しなかった。リッチ・クイーンの無念も晴れず、人払いのダンジョンは完全踏破されないまま残った。エルディアスは、未発動の呪いだけを持ち帰った。
「その程度の考えで、死ぬまで解けない呪いを受け取ったのですか」
「そうなる」
「かなり気軽に受け取りましたね」
「否定はしない」
「否定してください。少しは」
「嘘になる」
リュシアの目が細くなった。
「それも、先ほど説明された効果の一つでしたね」
「ああ」
「聞けば聞くほど腹が立ちます」
「それは悪かった」
「まだ説明は終わっていません」
返す声は冷静だったが、机の上で握られた指先には力がこもっていた。
「持ち帰った後、解こうとはしなかったのですか」
「試した。治癒術も、解呪も、神殿の儀式もな。全部駄目だった」
「発動していない状態でも?」
「ああ」
リュシアの視線が、エルディアスの顔の左側へ向いた。額から頬へ走る、黒ずんだ呪痕。その一部は襟の内側へ続いている。
「では、その痕も」
「未発動だった死別契鎖が残した呪痕だ。左半身のほぼ全体にある」
発動前ですら、呪痕を取り除くことはできなかった。死別以外に、二人を結んだ死別契鎖を解く方法があるのかは、エルディアスにも分からない。少なくとも、確実な方法は知らなかった。
「それを、あなたは私に使った」
「ああ」
「効果も、解く方法がないことも知ったうえで、私の名と誓いを使い、その相手にした」
「ああ」
「私の意思を確認せずに」
「ああ」
同じ返事を重ねるたび、リュシアの指先が白くなっていく。
「なぜ、私だったのですか」
「階層主を倒せるのが、お前しかいなかった」
リュシアの剣では、階層主の再生を止められなかった。エルディアスの付与術は、対象へ直接触れた方が安定する。離れた場所から術式を届かせることもできるが、根の間を走るリュシアは速すぎた。触れる隙もなく、術式を正確に当て続ける余裕もない。
遠隔では届かない。接触もできない。エルディアス自身には、階層主を倒し切る火力がない。
そこで、死別契鎖を発動させ、二人を結んだ黒い糸を接触の代わりとなる魔力の導線にできるのではないかと考えた。
だが、それまで試したことはなかった。
「私へ付与できるかどうかは、知らなかったのですね」
「ああ」
「一か八かの賭けだ、と言いましたね」
「言った」
「呪いを発動させれば助かると、確信していたわけでもない」
「確信はなかった」
「付与できなければ、階層主を倒せなかった」
「ああ」
「それだけではありません。糸へ魔力を通した時、私に何が起きるかも分からなかった」
「分からなかった」
「それでも使った」
「使った」
リュシアは一度、目を閉じた。怒りを抑えようとしているのか、聞いた内容を整理しているのかは分からない。念話を使わない限り、彼女の内側までは伝わってこなかった。
「呪いを発動しただけではない。その呪いを利用できるかどうかまで、私で試したのですね」
「そうだ」
言い訳を探せば、いくらでも出てくる。階層主の根が迫り、フィルは限界に近く、グレンたちも動けなかった。エルディアスにも、戦闘を終わらせるだけの火力はない。
他に手がなかった。
だが、選んだのはエルディアスだ。
「許可を取らなかったのは俺だ。死別契鎖を発動させたのも、糸へ魔力を通したのも、俺が決めた」
「私たちを生かすために?」
「ああ」
「それで正しかったと思っていますか」
エルディアスはすぐには答えなかった。
「全員が生きて戻ったことは、間違いだと思ってない」
「聞き方を変えます」
リュシアはエルディアスを真っ直ぐ見た。
「同じ状況になれば、あなたはまた、相手の許可を取らずに使いますか」
問いの意味をずらすことはできる。答えないこともできる。だが、それをすれば、ここで説明すると約束した意味がなくなる。
「使う」
リュシアの目が閉じられた。
「……そこだけは、否定してくださればよかったのに」
「嘘はつけない」
「今、それも説明されたところでしたね」
静かな声だった。怒鳴られるよりも重かった。
「助けたかったというのは、本当なのでしょう」
「ああ」
「私たちが生きて戻ったことには、感謝しています」
「必要ない」
「誰が、あなたに必要かどうかを決めさせましたか」
エルディアスは口を閉じた。
「感謝するかどうかは、私が決めます。許すかどうかもです。命を救われたからといって、私の意思を無視されたことが消えるわけではありません」
「分かってる」
「いいえ。あなたは、助かったのだからそれでよいと、まだどこかで思っています」
否定できなかった。少なくとも、全員が死ぬよりはよかった。彼女に憎まれても、生きていればいい。エルディアスは今もそう思っている。
「そうだな」
「認めるのですね」
「嘘はつけない」
「便利な呪いです」
「便利ではない」
「あなたにとっては便利でしょう。黙っていたことまで、正直に話せば済むと思えるのですから」
正直であることと、誠実であることは同じではない。
エルディアスはリュシアを救うために、彼女から選択肢を奪った。今になって嘘をつかずに説明したところで、その事実は変わらない。
小部屋の外から、薬瓶を置く音が聞こえた。誰かの足音が扉の前を通り過ぎていく。
リュシアは黒い糸を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「このことを、仲間やギルドへどこまで話すつもりですか」
「決めてない」
「では、今決めます」
リュシアは顔を上げた。
「念話や、離れた時に心の声が聞こえることは伏せます。嘘の制限と感情の固定もです。黒い糸と、死別契鎖という名前も話しません」
「分かった」
「他人に対しても、嘘をつけないわけではありませんね」
「制限されるのは、俺たちの間だけだ」
「なら、外へ話すのは三つだけにします。呪いを介して、離れたまま相手へ付与術をかけられること。相手に施す付与術は、通常より効果が高まること。そして、この呪いは一生解けないこと」
「ああ」
「勝手に増やさないでください」
「増やさない」
二人の間では、今の返事に嘘はない。
第三者へ何を話し、何を伏せるかまで、呪いに決めさせる必要はなかった。それは二人で決められる。
リュシアは左手を机の上へ置いた。黒い糸は彼女の薬指から伸び、エルディアスの左手へ届いている。
「外の石碑には、私が勇者を選ぶと刻まれていました。私が望んだわけでもないのに、勝手に役割を与えられた」
切ろうとしても切れず、隠そうとしても当人の目からは消えない糸が、二人の間を結んでいる。
「あなたも、私が望んでいないものを勝手に繋ぎました。どちらも、今すぐ消す方法はない」
「そうだ」
「なら、覚えておいてください」
リュシアが顔を上げる。
「次に何を選ぶかは、私が決めます」
その言葉だけは、石碑にも、呪いにも命じられたものではなかった。




